成長:教会が警戒するべきこと
- 使徒の働き5章1-11節 -

2017年5月07日 WIJC

聖書
使徒の働き5章1-11節

序  論

  • 今年に入ってから、私たちは、ここまで、日曜礼拝で、基本的に、新約聖書「使徒の働き」の最初の部分を中心に、初代クリスチャンたち、また初代教会の様子から、クリスチャンの「成長」について学んできた。
    1. 2章では「成長」の前にまずクリスチャンとして「誕生する」必要について学んだ(40-41節)。
    2. その次は、同じ章の42節を中心に、数回に亘って、クリスチャンの成長の「4つの基本原則」について学んだ(「使徒たちの教え(聖書)」「交わり」「パンを裂くこと(聖餐)」「祈り」)。
    3. 章では、生まれながら歩くことができず、物乞いをして生きるしかなかった男が、見事に神様によって癒されるという奇跡が起こったことが記されている。そのとき神様に用いられたペテロとヨハネの姿から、聖霊に満たされ、成長している信仰者の姿を学んだ。
    4. そして、先週は、4章から「迫害」と言う人生の苦境と困難の中で、成長したクリスチャンとして、初代のクリスチャンたちが、どんな祈りを捧げたか、と言う観点から学んだ。
  • さて、今日は、更に、その続きとして、先週学んだ「使徒の働き」4章の終わりの部分から5章にかけての記事を通して、神様が、初代クリスチャンたち、初代教会が、健全に成長していくためにどのような警鐘を鳴らされたかについて学びたい。

本   論

  1. 背景的なことがら:4章32-37節
    1. 4章32-35節:ここには、当時の教会の会員と言うか、参加者というか、初代教会のクリスチャンたちの全体的な様子と姿が描かれている。
      1. そこには、まるで、個人資産を完全放棄した共産社会と言いたいようなイメージもある。確かに、共産主義の原型的アイデアは聖書から生まれたという人もある。
      2. しかし、ここに描かれているクリスチャンたちの姿は、個人資産の放棄ではない。ましてや、政治的、法的強制力によるものではない。それはみな愛と信仰による自発的なものであった。
      3. ここにあるのは、簡単に言うなら、みんなが、自分が今持っているすべては、「自分のものだけど、自分のものではない」という相矛盾するクリスチャンの「所有観」の実践であった。即ち、クリスチャンは聖書的に「物の所有」についてこう考える:
        • 私たちは、肉体の命や人生も含めて、すべて持っているものの「所有者ではない」。
        • それらすべての所有者は、神様ご自身である。だから、よく聞く、若者たちの言い分、This is my life.  Nobody can say anything to me.は聖書的には間違いである。
        • では、私たちと私たちが持っている「もの」との関係は何なのか? 私たちは、神様からそれらすべてを、神と人とのために、責任をもって守り、育て、生かし、活用・運営する「管理者」として託されたのである。
        • その意味で、それらは、誰のものでもない、私に託された、私のものなのである。
      4. 初代のクリスチャンたちは、このことを実践したのである。
        • 出発したばかりで、まだ基礎が十分できていない不安定な教会のために、また
        • 恐らく、やもめや、経済的に恵まれない、貧しく、生活に戦いを覚えている人々が、沢山いたと思われる初期の教会の中で、
        • 自分たちに、それぞれ神様から託されていた物を、持ち寄ったり、共用したり、売ったりして、再分配し、相互扶助として、支え合ったのである。
    2. 4章36-37節:ここの箇所には、今のことの具体的な実例として、当時教会の中で良く知られた人物の一人でもあったバルナバが、自分の土地を売って、その全額を教会に捧げたことが記されている。
      1. 彼は、恐らく、人格的にも、信仰的にも、使徒たちからも、他の信仰者たちからも、大変尊敬されていた人物であった。
        • それがゆえに、使徒たちから「慰めの子」と言うニックネームをもらっていた。
        • 現に、彼のそのような「慰めの子」としての人格的影響や働きがあったからこそ、後にキリスト教界の偉大、かつ最大のリーダーとなったパウロが誕生したと言える。
        • 教会の迫害者であったパウロが回心した時、教会の大半の人々は、その真実性を疑い、警戒心から彼を受け入れようとしなかった。しかし、バルナバは、パウロを信じ、励まし、彼の身元保証人のようになって、教会とのブリッジとなった。(9章27節)
        • 更に、バルナバは、出身地でもあったタルソに暫く引き籠っていたパウロを、わざわざ探し出し、神様の御業の進んでいた当時のキリスト教界の中心地の一つアンテオケの町に引っ張り出した。それがパウロが大いに用いられ出した出発点であった。
      2. バルナバは、このように、温厚でありながらも、かつ度量と雅量と実行力があり、更には、恐らく財産家でもあった。
        • それゆえ、恐らく彼は、理想的な人物として、人々の尊敬と憧れの「まと」であった。
        • このような人物が、次に登場するアナニヤとサッピラの目の前で、土地を売り、それを全額捧げたのである。

これらの状況が、背景、引き金となって、次に登場する「アナニヤとサッピラという夫婦」が、バルナバと同様な「捧げもの」をしたと考えられる。しかし、それが大きな事件となったのである。

  1. アナニヤとサッピラ事件を簡単に復習すると:
    1. 二人は、相談した上で、バルナバと同様に彼らの持ち物を売却し(恐らく、バルナバ同様に畑、土地などの不動産であったであろう)、その一部を残して教会に献金した。これだけなら、何も問題はなかったであろう。
    2. しかし、ここに問題があった。彼らは、売ったお金の「一部を残して」置きながら、それを「全額だ」と偽って献金したというのである。
    3. そのことをペテロは、何らかの理由で見破っており、本人たちにそれぞれその真偽を問うたが、二人とも、を貫いたために、その場に即座に倒れて、命を失った。
    4. その結果、教会内外に、非常な神への畏れが広がったと言う(5,11節)。

      ここから、私たちは何を学ぶのか?
  2. 第一に、神様が、アナニヤとサッピラからの捧げものを、バルナバのときのように、そのまま素直に受け取られなかった理由は何か? まず、それが、何でないかに触れたい。
    1. 多くの人は、ともすると、それは、アナニヤとサッピラたちが、バルナバのように、「全額」を捧げなかったからだと思う。
    2. しかし、それは大きな間違いである。神様がアナニヤたちのしたことに悲しみ、激しい怒りを顕されたのは、献金が売った代金の一部であったとか、少なかったからではない。 
      1. それは、ペテロがアナニヤに語った言葉から明らかである。ペテロは言った。「それ(地所の代金)は、もともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になった(別訳:権威のうちにあった)のではないか」(5章4節)と。
      2. 即ち、「売る前も、売った後も、アナニヤ、それはあなたのものであり、それをどのようにしても、それはあなたに託されたあなたの権威の中にあることだから、そのことであなたは責められることはない」と言う意味である。
      3. 簡単に言うなら、少なかろうと、多かろうといくら捧げても自由であると言うのである。
    3. 即ち、アナニヤたちが責められた理由は、何でないか? その答えは、
      1. 彼らが、不動産を売った金額の一部を自分たちのために残して、全額を捧げなかったからでもないし、
      2. その額が低かったからでもない。
    4. 私たちは、どうしても、捧げもの、献金、奉仕の「量」を見てしまう。「多いから良い、少ないからダメ」と。しかし、神様は、決して、単純に「量」を見てはおられない。
  3. それでは、第二に、神様は、何を見ておられるのか? アナニヤとサッピラの問題は何だったのか? 何が悪かったと言うのか? 結論から言うなら、「偽善」であった。神様は偽善を嫌われたのである。
    1. 「偽善」とは何か? その本質は「偽り」である。誰かを「欺く」ことである。
    2. アナニヤたちがしたことをペテロはこのように言った。
      1. 「あなたは、サタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残して置いた」(3節)。
      2. 更に、「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(4節)と。
    3. このように、繰り返されている言葉からも明らかなように、ここでアナニヤとサッピラの問題は、神様と人とを欺いたこと、偽ったこと、騙したことであった。
    4. しかも、その「偽り」「欺き」が、「善行」と言う、ある意味で、「偽り」とは正反対の聖なる行為の形の中で行われるとき、それを私たちは「偽善」と呼ぶ。
    5. アナニヤとサッピラがしたことは、正にその「偽善」の罪であった。
      1. 外から見たら、神様からも、人々からも賞賛を受けた、あのバルナバがしたことと同じように見えた「献金」と言う「善行」の形を取りながら、
      2. その本心、中身は、バルナバのそれとはまったく違っていた。
      3. 即ち、アナニヤたちは、善行の、或いは、善人の外側を真似して、その中身も同じだと偽って見せかけようとしたのである。それが「偽善」である。
    6. ここで、クリスチャン信仰における「偽善」と言う罪の深刻さを考えたい。
      1. 「偽善」と言う罪は、イエス様が、ご在世のとき、
        • パリサイ人たちの中に典型的に認めた罪であり、「あなた方は、白く塗られた墓だ」と言って、イエス様が一番嫌われ、激しく糾弾された罪であった。
        • 即ち、「偽善の罪」はイエス様の御目には、そのまま放置されてはならない深刻な罪であった。
      2. そのような中、ともすると、聖書を読む私たちに、「パリサイ人」イコール「偽善者」、「偽善」イコール「パリサイ人の罪」と言う強いイメージがある。
      3. そこに、多くのクリスチャンたちが、陥っている一つの大きな罠と危険がある。
        • それは、「私はどちらかと言うと、罪人として、『パリサイ人』タイプというより、『罪人、取税人、遊女』と呼ばれるタイプだ。
        • 「偽善」は、典型的に「パリサイ人の罪」で、「罪人、取税人、遊女の罪」ではないから、私には余り関係ないと思い易いことである。
      4. しかし、これが問題である。「偽善」は、パリサイ人タイプ、遊女、取税人、罪人タイプを問わず、すべての人の心の中に入り込んでくる、すべての人の問題である。
      5. 特にクリスチャンたちは、ある意味では、「全員」が、いわゆる「善い人」になり、宗教的になり、比較的善行を行っているがゆえに、現在・現代社会にあって、いつの間にか、「パリサイ人」になって、この偽善に陥っている可能性が大である。
      6. 私は思う。このクリスチャンの中に染み込み、入り込んできている「偽善」が、クリスチャンの証しと成長を著しく妨げ、blockしているのではないかと。
      7. だからこそ、神様は、アナニヤとサッピラが、このような厳しい結果を刈り取るようになることを許され、警鐘を乱打するように強く鳴らされたのではと思うのである。
      8. 「偽善」の罪は、神様にとってそれほどに深刻な罪なのである。
  4. 最後に、アナニヤとサッピラが「偽善」の罪に陥った霊的原因を見たい。
    1. 彼らの偽善の原因は、信仰の動機が、不純であり、どこかズレていたからである。。
      1. バルナバにしても、アナニヤとサッピラにしても、どちらも自分の大切な資産を売り、多額の献金をしたという外側の行動においては同じか、少なくとも似ていた。
      2. しかし、この2者の間の心の「動機」は大いに違っていた。
        • 一方のバルナバは、神と教会を愛して、その祝福のために捧げた。しかし、
        • アナニヤたちの動機は、自己中心な思いから、「良いクリスチャン」「素晴らしいクリスチャン」と呼ばれる「名声」のためであったと思える。
      3. 私たちの信仰生活においては、「何をするか」「何をしたか」よりもっと大切なことがある。それは「何のためにそれをしたか・するか」と言う「動機」である。
      4. 人間は、みな不完全である。それゆえ、私たちが、外側の行為において完全になることは不可能である。
      5. 勿論「動機」においてさえも完全とはなれない。しかし、そんな中でも人間の幸せは、間違った時、失敗した時でも、せめて「そんなつもりはなかった」と言える心である。
      6. 夫婦間にしても、親子の間にしても、動機が純粋であったら、たとい失敗しても、出来栄えが悪くても、無下に怒ったり、無視したりはできない。むしろ「有難う。よくやったね。」と言う。その純粋で、ひたむきな愛の心が嬉しいのである。
      7. 神様も同じである。神様が欲しいのは、お金ではない、物でもない。私たちが神様を愛する心が嬉しいのである。
        • だから、どんな小さな献金でも、足りない奉仕でも、それが真心からのものであるなら、神様は、多額の献金、実に行き届いた完璧な奉仕にも勝って喜んでくださる。
        • 逆に、もし、そこに何か不純な動機が混じっていたら、それがどんなに高価なものでも、巧みで人間的に絶賛されるようなものであっても、神様は喜ばれない。
      8. それ故パウロは言う。「一人一人いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい。神は喜んで与える人を愛して下さいます」(第二コリント9章7節)

結   論

  • 今日のクリスチャンたち、また教会が必要としているものは、必ずしも、「正しい行い」、「もっと多くの行い」ではない。
  • 私たちがまず、そして、絶えず永遠にフォーカスしなければならないのは、信仰における、偽りの無い「動機の純粋さ」である。
  • 歴史家たちに「18世紀の英国を変えた」と言わしめたほど、英国全土の人々の生活に多大な影響を与えた「英国メソジスト運動」の創立者ジョン・ウェスレーが、その宗教運動の柱としたことの一つは、信仰における「動機の完全」であった。
  • 即ち、純粋に神様を愛する心を持つ、これが信仰の本質的なゴールである。この完全を、絶えず、日毎の歩みの中で、追い求め、経験しつつ、同時に、永遠にそれを深め続けることがキリスト者の道であり、人生である。
  • それゆえ、ダビデはこのように祈っている。
  • 「幸いなことよ。・・・心に欺きの無いその人は」(詩篇32篇2節)
  • 「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖霊を私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私を支えますように」(詩篇51篇10-12節)

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。