苦難の中の勝利(内灘聖書教会礼拝)
- ローマ人への手紙 8章28~39節 -
2024年4月21日 内灘聖書教会礼拝
聖書
ローマ人への手紙 8章28~39節
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。
神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
序 論
- 日本は、2011年の東日本大震災以来、地震、集中豪雨、大型台風、河川氾濫など、数えきれないほどの数の、自然災害に襲われて来た。今年は、更に、それも、こともあろうに元旦に、この能登地方を大地震が襲った。
- 昔から日本は自然災害の多い国であった。しかし、最近は、その数、その大きさにおいて、それらは、まさに「想定外」のものである。即ち、「まさか」こんな大きな災害になるとは思わなかったというものであった。
- かつて・・・首相は言った。人生には、三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして「まさか」と。
- 私たちの人生は、まさかこんなことが起こるとは思いもしなかったと言う、想定外のことで満ちている。人生は不確定である。明日何が起こるかわからない。
- それは、自然災害だけでない。病気もそうである。この間検診したばかりだったのに、突然のガンの宣告。と言う人もたくさんいる。
- 私たちには、明日が見えない。聖書も「・・・明日も分からぬ命・・・」と言う。
- パウロの人生は、・・・(第二コリント11章23-28節)に書かれているように苦難と困難に満ちたものであった。殺されそうになったこと、悪口、誹謗・中傷を受けたこと、食べるものが、着るものがなかったこと、船で遭難したこと、強盗に襲われたこと、などなど。
- そもそも、パウロは、ユダヤ社会のエリートとして生まれ、育ち、実際当時の宗教界、政治界のリーダーとしてその道を歩んできた若き日のパウロにとってそのような苦難の人生は、まさに「まさか」あのパウロが、というものであった。
- しかし、彼はそのような苦難の人生の中で、負けないどころか、勝利の人生を歩んだ。しかも、圧倒的な勝利者であった。MORE THAN CONQURER
- 言い換えるなら、家内安全無病息災、即ち、悪いことが起らないようにと言う消極的な人生でなく、悪いことが起ってもそれに打ち勝つ人生である。
- パウロはなぜそのような苦難の中で、勝利の人生を生きることができたのか? それは彼が持っていた3つの確信からであった。
- パウロはそれら3つの確信についてローマ人への手紙8章後半に記している。
本 論
Ⅰ.第一は、神さまが「味方として私と共にいて下さる」という確信である。
- 31節:「神が私たちの味方であるなら、誰が、私たちに敵対できるでしょう」。
- 神、即ち、世界と歴史における最強のお方が、私の味方として共にいてくださる。これ以上の強みはない。
- だから、暴力的に、あるいは、陰険にいじめてくる人間的な敵であろうと、経済的な敵であろうと、病魔であろうと、自然災害であろうと、私たちをつぶせる敵はいないと、パウロは言う。
- 感謝なことに、聖書は至る所で、神様が私たちと共におられることを約束している。
- ヨシュア1:9
- イザヤ43:5
- 詩篇23:4
- マタイ28:2
- しかし、残念なことに、私たちは、しばしば、実際の苦しみの中で、このことを確信できない。
詩篇22:1、31:22
その大きな理由は- 神様と私たちを一つとする、最大のカギ、罪の赦しの確信が曖昧だからである。
- 罪の赦しの確信がないと、私たちは弱い。強く立つことはできない。
ダビデ:詩篇51:10節 - 子どももそうである。自分が何か悪いことをしたときは、お父・母さんから赦しの言葉をもらうまで、素直にお父・お母さんの懐に飛び込めない。彼らを味方とは思えない。
- クリスチャンも同様。自分の罪の赦しの確信が曖昧だと、神様が味方としてそばにいて下さる確信が持てないのは当然。
- パウロも、自分が罪びとであることはいやというほど知っていた。パウロは言う。Ⅰテモテ1章15節
- そんなパウロが「罪の赦し」と「神が味方である」ことを確信できたのはなぜか?
- パウロは言う。ローマ8章34節
- 多くの人々が赦しの確信を持てないのは、罪の赦しの根拠をどこか、自分の行いや自分の何か「良い」ことにおいているから。ディボーションを守っている、奉仕をしている、等。
- しかし、パウロは違った。彼の揺ぎ無い赦しの確信は、全面的、100%、私たちのために死んで甦られた、イエス様の十字架と復活、そしてイエス様の大祭司としての執り成しだけから来ると主張した。
- そのとき、私たちを責めることができる人は、自分自身も含めて、世界のどこにもいない。
- この赦しの福音に対する信仰こそが、神がいつでも、私のそばに味方としていてくださるという確信を与え、私たちの生涯を荒らしの中でも揺るぎのないものとしてくださる。
Ⅱ.第二は、「私の人生は、神様の完璧なご計画の中にある」と言う確信である。
- 最初に触れたように、私たちは、明日何が起こるかわからない、正に、「まさか」の人生を歩んでいる。
- 私たちは、どんなに計画的に歩んでも明日をコントロールすることはできない。
- 明日が分からない人類にとって、できることはすべて対処療法である。
- そんな中で、よく聞く言葉に、「人生に乗り越えられない苦しみはない」というのがある。素晴らしい言葉である。励まされる言葉である。
- しかし、どこにその根拠があるのか? 神を認めない多くの人にとって、すべてのことは、偶然の所産である。たまたま、そうなったのである。そこに、必ず乗り越えられるという保証はどこにあるのか?
- しかし、保障があるのである。上述の言葉の恐らく元となった聖書のことば
Ⅱコリント10章13節。- この似ている二つの言葉の大きな違いは、「主語」である。前者には主体的、能動者を表す主語はない。形式的主語・動詞を使って、客観的事実を表しているだけである。人生とは、こういうもの、乗り越えられない試練はない、何とかなるものであると言うような。
- しかし、後者は違う。そこには、明らかな主体的能動者がいる。神である。神は、耐えられないような試練は与えられない。そこにこの事実の責任者、保証人がいるのである。
- 言い換えるなら、人生に偶然はない。すべては神様のご計画のうち、御手の内、ご支配の中にある。
- 即ち、神様は決して悪や不幸の創造者ではないが、すべてを予め知っておられ、それに応じた最善の計画を持って、支配しておられるのである。
- 28節:神様は、私たちの計画がすべて壊れ、崩れていくときにも、対処療法ではなく、ご自分の計画をもって、すべてが益となる人生を保証し、揺ぎ無い人生へと導いてくださるのである。
- 刺繍がいっぱい施されている和服の帯を考えたい。素人がその裏を見ると、どうみても、色々な色の糸がゴチャゴチャ、メチャクチャに、ただ絡みあっているだけにしか見えない。としか言いようのない混乱である。とてもそこには計画性のある何かを認めることはできない。しかし、その逆の表側を見るとき、そこには美しい花柄が描き出されている。明らかに計画、デザインがあったのである。
- 神様のご計画とひっちゃかめっちゃかにさえ見える私たちの人生との関係も同様である。
- 9・11でビルに追突、墜落した4機の飛行機のうち一つはUnited 航空93便であった。その飛行機は、数人の勇気ある乗客たちがテロリストと戦って、ペンシルベニヤ郊外に墜落した。その際「レッツ・ロール」という言葉を残して中心的な役割を果たしたのがトッド・ビーマーであった。トッドと奥さんのリサは、私たちのNJ時代の同じ教会の友人であり、その前年まで次女のユース・リーダーとしてお世話になった夫婦であった。次女は彼の死の知らせを聞いた晩一晩中泣き明かした。二人の幼子とお腹の子を残されて、未亡人となったリサにとって、人間的には、すべてが青天の霹靂のような悲劇であった。しかし、彼女は言った。「私がこのような中で支えられ、前に進むことができるのは、目の前にあるこの現実が現実のすべてではないことを知っているからである。神様がすべてを手中に納めて、すべての出来事の背後で支配しておられることを知っているからです」と。
Ⅲ.最後は、「私は神様に愛されている」と言う確信である。
- 35-39節にそれが記されている。
- パウロの生涯は波乱万丈な生涯であった。彼の生涯は、その信仰と宣教のゆえに、肉体的にも、精神的にも、苦難と試練の連続であった。(Ⅱコリント11章23-28節)
- 多くの人にとってクリスチャンになる理由は、「信じれば良いことがあるから」である。そして、「信じてもうまくいかなければ、信仰を捨てる」というパターンが普通である。
- しかし、パウロは違った。信じる前の方が良い生活をしていた。地位も名誉もあった。財産もあった。宗教界のリーダーとして、国会議員の一人として人生に成功もしていた。彼は信仰をもって後、ある意味でそれらの全部を失った。たくさんの迫害も受けた。
- しかし、そんな中で、彼が、イエス・キリストを信じること、イエス・キリストを知ること、イエス・キリストを経験すること、イエス・キリストを伝えることに益々夢中になって行ったのは、イエス様の十字架に顕された私たちに対するイエス様の愛に感謝し、感激し、感動し、魅了されていたからである。
- だから、Ⅱコリント5章13-15節で、パウロはこのように言う。「・・・・」。
- パウロの生涯は、キリストの愛に捕らえられていた。彼の生き方は義務感からではなかった。彼を動かしていたのはキリストの愛であった。だからこそ強かったのである。
- 信仰の動機、生きる動機が「愛」である人は強い、揺るがない。
- 愛によって動かされた人生は強い。だからパウロも強かった。
- 聖書は言う。「愛は死よりも強く、大水も消すことができない」(雅歌8章6-7節)と。
- 刑務所の父の元にクリスマス・イブに手紙と贈り物をした娘の愛と父親の変貌
あるクリスマス・イブの夕方に刑務所の門を一人の少女が訪れた。塀の中に収監されている凶暴な死刑囚の娘であった。娘は両手に小さな箱をしっかりと握っていた。このプレゼントの箱をどうしても今晩父親に会って渡したいと守衛に願ったが、もう時間が過ぎていると断られた。泣いていた少女を丁度出てきた所長が認めて、「私が渡して上げるから今日は帰りなさい」と言われた。その晩、その箱を開いたその囚人がそこに見たものは、娘の書いたメモとプレゼントだった。メモには、「お父さん、お母さんはどこかに行ってしまいました。でも私は待っています。お父さん愛しています。でも、これがこのクリスマスに私がお父さんに上げられるすべてです」とあった。入っていたものは、その子の髪の毛だった。彼はそのメモと娘の切られた髪の毛を手に握り締めながら顔に擦り付け、その晩は泣き続けた。娘の愛を実感したその翌日から彼は全く変わったという。模範囚となったのである。 - 皆が愛を求めている。しかし、余りにもまがいものの愛が多すぎる。愛と言う言葉が氾濫している。しかし、愛と呼ばれるものにも色々ある。ほとんどの愛が自己中心な愛である。
- 綺麗だから、カッコ良いから、金持ちだから、親切だから、等々、条件付の愛である。
- そんな愛はもろい。行き詰る。はかなく消え去る。
- だから、愛し合っていたはずのカップルが、様々な人生の紆余曲折を経験している間に、いつのまにか愛を失い、ただ機械的に、惰性で生きるカップルになってしまう。
- 中には、今では、
●ただ批判するだけの他人のような夫婦になったり、
●更には、憎しみあったり、
●果ては、離婚となるカップルも大勢いる。
●米国では結婚した半分のカップルが離婚するという。
●日本でも3分の1の割りで離婚と聞く。愛はもろい。 - 私は「団塊の世代」であるが、「熟年離婚」というのをよく聞く。夫の退職金支給を待って、特に子供たちが巣立った後、散々今まで我慢してきたが、これからは、夫と別れて、自分の人生を別に歩みたいと妻が出て行くという。何とも寂しい人生ではないか。
- そのようになるのは、それらがみんな所詮自己中心な愛だからである。だから、大水や様々な事情や境遇で消されてしまうのである。
- 聖書は、それは本当の愛ではない、本当の愛は、神が私たち罪びとを救うために、そのひとり子を十字架につけたところにのみあると言う。
- この愛こそがパウロの人生を変えた。この愛こそが、パウロが、どんな誘惑の中にあっても曲がらず、どんな苦難の中にあっても屈せず、むしろ、その人生の中に生きがいと生きる喜びと希望を見出した理由である。
結 論
「苦難の中の勝利」、それは三つの「確信」から生まれる。「神が味方である(完璧な赦し)」「神のご計画は完璧である」「神は私を愛していてくださる」
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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