あなたは何を残すか?
- 1章1~9節,1章15~21節,2章12節 -
2024年4月14日 七尾聖書教会礼拝
聖書
ルツ記 1章1~9節,1章15~21節,2章12節
さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。
するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。
二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。
するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。
ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。
彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。
ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。
また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。"
ルツ記 1章1~9節
"ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」
ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」
ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。
二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。
ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。
私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」"
ルツ記 1章15~21節
"主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」"
ルツ記 2章12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
序 論
- 2019年、初めて・・・
- 今年元旦の震災・・・
- そのような復興の努力の中で、多くの人々を励まして来た歌が、皆様もよくご存知の「花は咲く」である。私は、その歌の最後の部分、「花は、花は、花は咲く。いつか生まれる君に、・・・・ 私は何を残しただろう」が大好きである。
- 私もこの歌が好きで、何度もそれを繰り返すうちに、「私は人生で何を残すだろう」と自問するようになり、思い巡らすうちに、聖書の箇所が思いだされた。
- それが、「ルツ記」であり、ルツに信仰を残した「ナオミの生涯」についてであった。
本 論
Ⅰ.まず考えてみたいことは、今朝のメインテーマが、なぜ本書の主人公であるルツでなく、ナオミなのかについてである。
- 歴史、また世界には、たくさんの傑出した婦人たちが登場してきた。
- 例えば、フランスを、英国との「100年戦争」で勝利へと導いた有名な女性戦士ジャンヌダルクと言う人がいた。
- 近代史で言うなら、「鉄の女」と言われた英国のサッチャーのような人物。
- 聖書にも、婦人で活躍した人物として「デボラ」と言う人物が出て来る。士師の時代、国の女性リーダーとしてイスラエル民族を敵の手から救い出した婦人である。
- 彼らは、みな、賜物豊かで優秀な女傑たちで、偉大な歴史的業績の故に、すなわち、何をしたかという点で特出した人物たちであった。
- この点で、ナオミは一体何をしたというのか。歴史に残ることは何もしてない。
- それではナオミの偉大さはどこにあったのか? 何が彼女を偉大にしたのか?
- 人の偉大さは、その人が何をしたかではなく、何を残したかで決まる。
- これは、私たち夫婦の恩師が、しばしば牧師たちについて言った言葉である。彼は言う。「その牧師の偉大さは、その牧師が去ったときに何を残すかで決まる」と。
- 今回の能登地震の時、東日本大震災の時、地震、津波、或いは、原発事故などが次々と襲う中、直接の被災者は元より日本中、世界中の人々が、目の前にあったものが、また今まで粒々辛苦として積み上げて来たものが、一瞬にして消えて行くという事実を目の当たりにしたって、私たちは、たくさんの「恐れ」に囲まれるようになった。この詩篇46篇にもそれが記されている。
- そのとき、失った人・ものへの悲しみと、失意・絶望の中で、その回復、再建に取り組みつつ、皆が考えたことは、「人生とは何なのか?」であった。
- そして、地震でも、津波でも、原発事故でも、決して奪われることのない、永遠的、絶対的価値あるものはあるのか? あるとするなら、それは何か?と、人生の意味と目的とを、これまで以上に求めるようになった。
- だからこそ、先述の「花は咲く」の歌は問う。「花は、花は、花が咲く、いつか生まれる君に。花は、花は、花は咲く、私は何を残しただろう」と。私は何を残すために生きているのか? 何のために生きているのか?と問うのである。
- 私たちは、自分の人生を通して何を残そうとしているのだろうか?
- アメリカの実業家、鋼鉄王アンドリュー・カーネギーは「子孫に財産を残すほど愚かなことはない」と遺言に書き残し、その巨万の富を全て慈善事業に寄付したと言う。
- サザエさんの漫画:山本雄三氏の死去を新聞のニュースで読みながら、その故人の座右の銘が、「子孫に美田を残さず」であったことに感銘、同意するお父さんに、カツオが言ったこと、「お父さんのは美田を残さずではなく、残せずでしょう」と。
- 或いは、私たちのような、特に財産を持っていない人々は、「教育」「知的財産」の機会を与えることこそが、子どもに残してやれる最高のものと信じている。
- しかし、果たしてそうだろうか?! 教育の大切さを否定しているのではない
- しかし、ハーバード、東大などの最高位の大学で教育を受けながら、個人的に、必ずしも幸せになっていない人々がどのくらいいるだろうか?!
- またそのような最高の知的な財産を持っている人々が、その能力を用いて社会的に反って大きな負の影響を与えるような犯罪を犯している例も枚挙にいとまがない。
- それでは、私たちは、次世代に何を残すべきなのか?
- 今日、学ぼうとしているナオミは、次世代のために何を残したか?「信仰」であった。
- ナオミは、息子の嫁のルツに「信仰」を残したのであった。
- ナオミには、この世的には、人々に残せるような、また与えるような、財産も、教育もなかった。家族さえなかったのである。
- 彼女と夫のエリメレクは、かつて、ベツレヘムが飢饉に見舞われたとき、食糧を求めて、二人の息子を連れて、約100数十キロメートルほど離れた、異国・異教の地「モアブ」の地に移り住んだのであった。
- しかし、その地で主人のエリメレクはほどなく死んだ。その後二人息子はどちらもモアブの娘を娶った。しかし事もあろうに二人の息子とも老母であるナオミとそれぞれの嫁を残して子どももいないまま父の後を追うように死んでしまったのである。
- ナオミは、今や二人の異邦人の嫁が未亡人としてそばにいるだけで、文字通りに何もかもを失ってしまったのである。
- このような人生を歩むことになったナオミの心境は、1章21節の彼女の言葉によく表されている。即ち、彼女は言う。「私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ、私をナオミ(笑い)と呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わされましたのに」。
- 彼女は、ここで大決心をする。それは、自分の年を考え、二人の嫁の将来を考え、彼らが、今からでも再婚するチャンスの為にも、離縁して、二人をモアブの家族のもとに帰し、一方、自分は故郷のベツレヘムに帰ることであった。
- しかし、二人とも、しゅうとめのナオミを愛していた。それゆえ、彼らの夫たちが、亡くなっていたにもかかわらず、しゅうとめであるナオミについていこうとした。
- しかし、ナオミの再三の勧めと説得で、弟息子の嫁であったオルパは泣きながらも、別離を決意し、モアブの地の家族のもとに戻った。
- しかし、ルツは、最後まで、ナオミについて行くと言う決心を変えなかった
- その理由は何であったか?
- それは、単にルツがナオミを好きだったからと言う以上の理由であった。
- その理由を、聖書は、ルツ自身の言葉と、やがて後にルツと結婚することになるボアズの言葉を通して明確にしている。即ち、
- ▶ルツの言葉:「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように私を仕向けないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(1章16節)。これは同時に彼女の信仰告白であった。
- ▶ボアズの言葉「あなたがその翼の下に避け所を求めてきた、イスラエルの神、主から豊かな報いがあるように」(2章12節)。ここにもルツがナオミについて来た理由は、神様を求めていたからであると表現されている。
- 言い換えるなら、ルツがナオミについて来た理由は、ナオミの信じている同じ神を信じ、ナオミと同じ信仰をもってこれからの自分の人生を生きたかったからである。
- 即ち、ナオミは、異教文化で育った嫁のルツに、しかも、夫であった息子がすでに死んでしまった後、人間的には、「この信仰に本当にご利益があるのか?」と問いたくなるような状況の中で、ルツの心の中に「信仰」をしっかりと植え込み、残したのである。
- ほむべきかな、主よ。このルツこそが、やがてボアズと結ばれ、イスラエル史上最も特筆すべき王様、ダビデの「曾祖母」となり、イスラエル社会ではあり得ないことであるが、「異邦人の女性」が、「祝福された」女性としてたたえられたのである。
- それは更にルツが人間の系譜としては救い主イエス様の先祖となることを意味した。
- そのような栄光と祝福が、ルツに、イスラエルに、そして世界にもたらされたのは、一重にナオミが、ルツの心に、真の神への信仰を明確に植え込み、残したからである。
- ここにナオミの偉大さがあった。真の神様への信仰をルツの心に遺したことである。
- 子供に、子孫に、財産や、教育を残すことも良い。
- しかしそれでは十分ではない。正に「人はパンだけで生きることはできない」。
- 人には、お金や知識、様々な能力以上に、真の神への信仰が必要である。それらでは、人生に襲い来る様々な災害、試練を乗り越えることはできない。
- その信仰を、自らの子どもたちに、また次世代の人々に遺すことこそが私たちの人生の使命である。
- それが、2-3節に書かれている。「私は恐れない。たとい、地は変わり、山々が海の真中に移ろうとも。たとい、その水が・・・」。詩篇の作者がここで言っているのは、天災からの恐れである。
- 昔、日本で恐れられる怖いものの代表として「地震、雷、火事、親父」と言われて来たが、そのトップ2は、自然災害である。
- 日本だけをとっても、この10数年の間に、東日本大震災、熊本大地震、西日本・関東各地での大洪水、大型台風、そして今回の能登半島大震災による被害と、自然災害が軒並みに続いている。
- 今後、温暖化により台風は益々大型化すると言われている。 言うまでもなく、震度3-4程度の地震は全国いたるところで絶えず起こっている。
- 更に、この詩篇には、「人災」による恐れが記されている。
- 6節は言う:国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。
- これは言うまでもなく、直接的には、諸国間の争い、戦争状態のことである。現在も、ウクライナで、ガザ地区で悲惨な戦争が続いている。
- 「人類の歴史は、戦争の歴史である」と言われる。人類の歴史において、戦争の無かった時代はないと言われるほどに、いつも世界のどこかで人類は戦争を経験してきた。
- 戦争の背景・原因には、政治的、経済的、様々な外的要因もあるものの、その奥には、必ず自己中心な罪と言う根本原因がある。その意味で、戦争は明らかに「人災」である。
- 多くの戦争経験者から戦争の恐ろしさについて聞く。熱海の疎開先で艦載機に狙われたこともある母もその一人。生前しばしば言っていた。「戦争は怖い。恐ろしい」と。戦争は、戦争にのみ止まらず、飢饉、貧困、家庭崩壊、人格破壊を連鎖的に生み出す。
- 「人災」の中には、更に、交通事故を始めとする様々な事故や、病気の一部も入る。今回の「紅麴」問題も人災的要素も多分にある。後を絶たない学校、職場での「苛め」の悲劇。これらもまた人災である。
- 私たちはみな、いつ襲って来るか分からない、このような様々な天災・人災からの「恐れ」に囲まれて生きている。
Ⅱ.それでは、ルツをそこまで引き付け、そこまで影響を与えた、ナオミの信仰とはどんなものであったのか?
- それは、苦難と試練の連続の中での信仰であった。彼女の人生は、既にお話ししたように、極めて波乱万丈なものであり、苦難の連続であった。
- 彼女の苦難の人生は、まずベツレヘム地方を襲った飢饉から始まった。
- そこで、夫のエリメレクと共に、二人の息子を連れて、モアブと言う異国、異教の地と言えるモアブの地に全家族で移住した。
- しかし、そこで、次の苦難がナオミを襲った。それは夫エリメレクの死であった。
- その後、二人の息子たちは、それぞれモアブ人の女性と結婚し、一息ついたかに見えたのも束の間、どちらにも子どもができない間に、二人共後を追うように死んでしまったのである。
- 異教の地で、夫にも、息子にも先立たれてしまう。孫も居ない。ただ、異国人である息子の嫁だけが残った。
- これが、ナオミの生涯であった。人間的に、世的に言うなら、誰がこんな人生を魅力的だと思うか。現に、ナオミ自身、自分の人生について「全能者なる神様は私をひどい目に合わせられた」と言った。
- 普通考えることは、神様を信じて、物事が順調に進んでいくとき、即ち「家内安全無病息災」であると、「いいなー」と感じ、自分もそんな信仰を持ちたいと思うものである。
- しかし、驚くべきことは、ここでは、その反対である。神様を信じても、試練の連続のナオミの人生を、長男の嫁としてすぐそばでよく見ていたルツが、普通なら、こんな神様に関係したら、碌なことはないとその信仰から、その信仰者ナオミから離れようとするはずである。
- しかし、ここで、ルツは、その逆に、そのナオミの人生、ナオミの信仰、ナオミの信じる神様を自分のものとしたいと言うのである。
- なぜか? ナオミの信仰は、実に、暗闇の中で、輝く光のように、試練の中で、輝く信仰であったからである。暗ければ暗いほど、たといそれが小さな光でもより輝く。
- (ケンタッキーのマンモスケーブでの経験:わずか一本のマッチが真っ暗闇を照らす力)
- しかし、だからと言って、ナオミの信仰は、大それたもの、特別な「優等生」信仰というものではなかった。
- むしろ、ナオミの信仰は、間違いも、失敗もする信仰であった。
- ある聖書学者たちは、そもそもベツレヘムが飢饉に襲われたとき、ナオミと夫のエリメレクが、「約束の地」を捨ててモアブに移住したことは判断の間違いであったとも言う。
- 私たちは、神様を信じてクリスチャンになったからと言って、人間でなくなるわけではない。それゆえ、私たちは、一杯間違いもする。判断の間違いだけでなく、罪を犯し、人を傷つけてしまうことさえもある。
- ナオミもそういう信仰者の一人であった。即ち、異邦人、異教徒であった嫁のルツを深い信仰者へと導いたナオミの信仰は、決して間違いをしない、優等生信仰ではなかった。
- 次女の宣子は、彼女がTeen Agerになった頃、私にこのように言った。「Daddy, I know you are not perfect.」。彼女は、その後でこう言った。「でも、そんな失敗もするお父さんやお母さんが、失敗しながらも、それを神様にお詫びして、前に進もうとしている姿が、私を励まし、そんなお父さんやお母さんを赦し、受け入れて、成長させている神様を、私も信じたくなる」と。
- また、ナオミの信仰は、極めてカジュアルなありのままの信仰であった。
- ナオミが、ルツと共に、モアブの地から故郷のベツレヘムに戻って来たとき、彼らを迎えた村人たちとの会話をもう一度見たい。
1章19-21節 - 第一に、彼女の信仰は、神様の前に「振りのない」「ありのまま」の信仰であった。
- 彼女は言った。神さまは、「私をつらいめにあわせ」た。「私を卑しくした」「一杯持っていたのに、素手で帰された」などなど。
- これらの言葉は、普通、多くの人々が持っている「模範的信仰者」のイメージとは思えない。まるで神様に向かって不信仰から文句をいっているようにさえみえる。しかし、それが、ここでポイントである。
- 「 詩篇」を見ると、驚くことは、祈りの中で、神様に文句を言い、不満を投げつけているダビデをはじめとする沢山の聖徒たちの姿をみる。
- 私たちの神様への祈りはどうであろうか? ただ願いごとをつらつらと、或いは繰り返し並べて、神様にお願いするだけの、通り一遍の祈りではないか。
- 不信仰じゃいけないと思い、不信仰を隠して、さも信仰があるような言葉を使い、信仰がある振りをした祈りではないか?
- しかし、旧約の聖徒たちの祈りは違った。自分の中にあるありのまま、信仰も、不信仰も、フラストレーションも皆ぶつけた。
- クリスチャンはこんなことを言っていいのかなどという振りを一切捨てて。
- これがナオミの信仰であった。神様の前に振りの無いありのままの信仰であった。
- 第二に、彼女は人の前でも、飾らない、肩を張らない、ありのままの人であった。
- もう一度、1章の19-21節を思い出していただきたい。
- そこには、神様の前に自分のありのままの気持ちを伝えるだけでなく、面子も、恥も、外聞も気にせず、ありのままの自分を人々の前にさらけ出したナオミの姿がある。
- ベツレヘムは、当時、まだ小さな田舎町、というより村であった。そんな小さな村だったから、言うまでもなく、ナオミがルツを連れ帰ったとき、村中の人々が出てきたであろう。特に、女性たちは、鵜の目鷹の目で彼らの様子を伺い、好奇心の目をもって彼らをみつめていたであろう。皮肉まじりの挨拶も一杯飛び交ったであろう。
- 俗にいう「故郷に錦を飾る」どころか、ナオミは、それとは正反対に、何もかもを失い、人間的には恥ずかしさと惨めさと悔しさとがあるだけであった。
- 彼女は、よく分かっていた。「今自分がベツレヘムに帰ったら、みんなの笑いものになるだけだ」ということを。
- 普通の人ならプライドが許さなかったであろう。多くの人は、神様の御心より、自分の面子とプライドを優先する。だから神の御心と知っていても、その御心に逆らっても、自分の恥をさらすことを絶対にさける。
- しかし、ナオミは違っていた。彼女は、ありのままを人々の前にさらけ出した。
- ナオミが、ルツと共に、モアブの地から故郷のベツレヘムに戻って来たとき、彼らを迎えた村人たちとの会話をもう一度見たい。
- 彼女はこのように神と人との前にありのままをさらけ出す信仰をもっていたが、同時に、彼女は決して、信仰の中核である「神様は全能者」であると言う信仰を失うことはなかった。
- そのことは、前述の1章21節の彼女の言葉にもハッキリと表れている。
- 彼女は苦難・試練の中、また祈りが思うように答えられない状況の中でも、決して「神なんかいないんだ」「神様といえども結局は何もできないんだ」とは言わなかった。
- なぜか分からないし、それはつらい、それは苦しい、現実にあれもこれも失ったと彼女は正直に言った。しかし、神様ご自身を疑わなかった。質問は一杯あっただろうが。
- むしろ、ナオミの信仰は、間違いも、失敗もする信仰であった。
結 論
私たちは子どもたちに、次世代に何を残すか? 財産? 教育? ナオミはルツに信仰を遺した。
- ナオミからルツへの、その信仰の遺産相続がなかったら、ナオミ自身とルツのその後の人生の祝福はなかったであろう。
- 更には、ダビデの誕生も、ひいては、主の誕生もすべては違ったものになったであろう。世界の歴史は変わっていたかもしれない。
- 私たちも何を遺すに勝って「信仰」を遺すものとなりたい。その信仰とは、いわゆる「模範的・優等生的な信仰」と言われるようなガチガチなものである必要はない。不完全で、間違いも一杯する信仰であり、カジュアルでありのままの信仰で十分である。
- そのような信仰を今生まれている君に、これからいつか生まれてくる君に、人々に、世界に残すものでありたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
最新の投稿
礼拝原稿2026年4月13日苦難の中の勝利(内灘聖書教会礼拝)
- ローマ人への手紙 8章28~39節 -
礼拝原稿2026年4月6日あなたは何を残すか?
- 1章1~9節,1章15~21節,2章12節 -
礼拝原稿2026年3月30日我らは恐れない
- 詩篇 46篇1~11節 -
礼拝原稿2026年3月23日復活は何を意味する
- コリント人への手紙 第一 15章1~58節 -
