成長:試練の中の祈り
- 使徒の働き4章23-31節 -
2017年4月30日 WIJC
聖書
使徒の働き4章23-31節
序 論
- ご存じのように聖書の中に「詩篇」と呼ばれる書がある。全部で150の詩が集められている。
- 言うまでもなく、その中には、テーマとしても、スタイルとしても、多彩な詩がある。
- それらをまとめて、一言であえて言うなら、詩篇は「神への祈り」の本だということができる。
- 「祈り」と言うと、すぐに私たちの頭に浮かぶイメージは、
- 神様に何か自分に必要なもの、自分が欲しいものをお願いする、或いは、特に「困ったときに、助けを求める」ための手段というイメージである。
- その典型的な例が、昔から日本にもあることわざ、「困った時の神頼み」である。即ち、人は、困ったとき、苦しいとき、人生の試練に遭遇する中で祈るというイメージである。
- 勿論、聖書はそれを悪いこととして必ずしも「否定」していない。なぜなら、それはある意味で自然であり(むしろ、最悪なのは「困っても祈らない」こと)、それもまた祈りの一部であるからである。
- しかし、大事なことは、それが祈りのすべてではないことである。むしろ、「祈り」の基本的、聖書的な理解、スタンスは、祈りは神様との「会話」である。
- だから、旧約聖書においても、アブラハムやモーセが明らかに神様に祈っている場面で、「祈る」と言う宗教的な意味の動詞を使わずに、普通の会話の時に使う動詞、即ち「語る」「話す」が使われている。(例:出エジプト33章11節)
- 祈りは、神様であっても私たちの必要や願望は、祈らないと分からないから、知らせるための手段ではない。また、どうも神様は、私たちの必要や状況を忘れているのか、気に留めていないようだから、思い出させる手段でもないし、神様にこっちを向いてもらえるように説得する手段でもない。
- 神様は全知だから、今更私たちが教えなければ知らなかったというお方ではない。
- 神様は、その全知全能で、最善をもって私たちを、また世界を導いておられる方だから、私たちが祈って説得して「そーか、そっちの方が良いね」と言って御心を変えるお方ではない。
- 聖書には、そのように見えたり、表現されているところがあるが、それは、私たちにも分かりやすく、「人間的な、擬人化的(anthropomorphic)」な表現、記述が使われているからである。
- では、なぜ祈るのか? むしろ、神様は、私たちの人生の様々な実際の出来事の中で、祈りと言う形で、私たちと会話する・交わることによって、私たちの人格に触れ、即ち、神様の人格と私たちの人格の触れ合いと交わりを通して、私たちの魂を育てよう、成長させようとしておられるのである。
- その会話の中には、先述の「詩篇」の中にもみられるように、神様への「賛美」「感謝」「嘆き」「悲しみ」「喜び」「嘆願」と様々な内容の会話が含まれている。
- さて、言うまでもなく、初代教会の顕著な特色は、「よく集まって、よく祈る」教会であった。
- 彼らは、何も特別なことのない平常時、物事が順調に進み、教会が発展しているときにも良く祈ったが、同時に彼らは、その反対の迫害と言う逆境下でも祈った。
- その典型的例が、使徒の働き12章に記されている。その時、すでに使徒の一人ヤコブが捕まえられ、つい最近処刑されたところであった。そんな中、今度は更にペテロが捕まえられ、処刑が明日に迫っていた。そのとき、みなが集まって来て、熱心に祈っていたと聖書は記す(5節)。
- 今日の聖書箇所も、似たような迫害の危機の中で、初代のクリスチャンたちが集まって祈っていたことを記している。
- ペテロとヨハネが、イエス様を宣べ伝えるという宣教活動のゆえに捕縛され、投獄され、脅かされたこと。
- やっとのことで釈放された直後に、彼らが、迷わずまっしぐらに向かったところは、仲間のクリスチャンたちが祈っていた場所であった。
- ペテロとヨハネは「皆はキッといつものように、あの場所に集まって私たちのために祈ってくれているに違いない。あそこに行けば必ずみんなに会って報告ができる」と確信していた。
- 案の定、そうだった。そして、彼らは、更にそこで彼らと共に祈ったのである。
- 今日したいことは、その祈り(24-30節)がどんな祈りであったかを学ぶこと、即ち、初代のクリスチャンたちが、迫害、問題の中で、何を、どのように祈ったかについて学びたいのである。
本 論
Ⅰ.私たちがこの祈りから学ぶ第一のことは、彼らの祈りは、「誰に」祈っているかを、大切にし、深く認識するところから始まっていたことである。
- 多くの人の祈りはどうだろうか? 普通、まず、自分の状況や苦境を訴えるところから始める。
- 祈りの席に着くやいなや、誰に祈っているかなんかすっかり忘れ、ただひたすら自分の状況を繰り返し述べるだけの祈りになってしまう祈りがあまりに多い。
- 勿論、それは、苦境にある人にとって、その気持ちを理解すれば無理からないことであるし、同情しなければならないことである。
- しかし、同時に、それは、何の解決にもならない。しばしば、ただスピン、空回りするだけの機械(spinning the wheel)のようである。私たちをどこにも連れて行ってくれない。
- しかし、聖書的な祈りは「誰に」祈るかが鍵である。どのように祈るか、何を祈るかに勝って。
- 日本には昔から、「イワシの頭も信心から」と言う諺がある。その意味は:
- 「祈っている相手・対象が、イワシのように疎まれ、軽んじられるようなものであっても、大切なことは信心であり、信心をもって拝むなら、ご利益はある」である。
- 即ち、それは、日本人の多くが、祈りの鍵は、
- 誰に祈るかは問題ではない、極端に言うなら、「イワシ」だって構いやしない。
- 鍵は、むしろ「信心」深さである。「お百度を踏んで」祈るというような熱心な信心深さの方が、誰に祈るかより大切だと言うのである。
- しかし、聖書的祈りは、その正反対である。即ち、聖書は、私たちの祈りに力と意味があるとするなら、その鍵は、
- どのように祈ったかHow We Prayではなく、
- 「誰に」祈ったかTo Whom We Prayであると言う。
- 日本には昔から、「イワシの頭も信心から」と言う諺がある。その意味は:
- 即ち、祈りの力は祈る人が、祈りの対象である神様をどんなお方として捉えているかで決まる。
- 初代のクリスチャンたちの祈りは、その点で明白であった。
- 即ち、彼らは、自分たちが祈っている相手である神様を、まず、しっかりと捉えるところから祈りを始めた。
- だから彼らの祈りは、開口一番このように神様に呼びかけるところから始まった。24節「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です」と。
- 即ち、彼らは、祈りの対象である神様を、天地万物の造り主として捉えていた。
- これらの言葉は、ちょっと聞いたら、「場違いで」KYな言葉である。即ち、彼らの抱えている問題と、直接的には何の関係もない言葉であり、内容とも取れる。
- 普通だったら、彼らの抱えている直接問題である迫害の問題にすぐに触れて祈るところである。
- しかし、彼らは、問題を見るより、まず、神様がどんなお方であるかを見たのである。
- 私たちは何としばしば、神様ご自身を見るより、問題の方ばかりを見て失敗することか。
- マタイ15章28-30節に記されているあの水の上を歩いたペテロがそうであった。
- 「主よ。あなたでしたら、私に水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言って、しっかりとイエス様を見ていた時は水の上を歩けた。
- しかし、次の瞬間、彼は、吹いている激しい「風」を見てしまった。その瞬間イエス様から目を離した。その結果、彼は怖くなって、信仰を失い、沈み始めたとある。
- 私たちに必要なのは問題を一回見たら、後はひたすら神様を見つめ続けることである。
- ここで初代のクリスチャンたちは、迫害の恐怖と圧迫の中で、問題を、敵を、迫害者を見るにも勝って、祈りの対象でる神様を、宇宙万物の造り主として見つめ、捉えたのである。
- そこにこそ、初代教会の力、初代教会の祈りの力があったのである。
- ハドソン・テーラーは、19世紀、中国奥地伝道団の創立者、指導者であった。
- 彼は、当時、政治的、人間的には、何の保障や保護も届かない中国奥地に自分をも含めた800人以上の宣教師たちを信仰一本と言うやり方で遣わしていた。
- たくさんの人々から、「それは無謀だ」と、多くの反対を受けた。しかし、
- 宣教師たちの生活と安全は必ず神様が守ってくださると信じ、次のように主張した。
- 「地球を宇宙に、糸一本使わずに浮かべ、吊るし、支えることのできる方が、どうして、私たちを支えることができないなどということがあろうか?!」と。
- 彼もまた、宇宙万物の創造の力の中に、今日の私たちが抱え、直面している問題の答えを確信していたのである。
- 私たちも祈るとき、神様の「創造」の御業を過去のこととせず(ましてやおとぎ話としてではなく)、私が今祈っているこのお方は、今も創造の力を持つお方であることを深く認識し、その力をもって、答えてくださることを期待し、信じ、「創造者なる神よ」と呼びかけて祈りたい。
- 初代のクリスチャンたちの祈りは、その点で明白であった。
Ⅱ.初代のクリスチャンたちが迫害の中で捧げた祈りから学ぶ第二のことは、神様は、必ず私の人生に関わって下さるという信頼である。
- かつて英国から始まって、啓蒙時代のヨーロッパ、更にはアメリカに至るまで世界中で謳歌された神学に「理神論」と言う神学があった。
- それは、神様が人間の世界に関わりをもったのは「創造」までであって、後は、そのご自分が創造された世界が自然に発展していくことに委ねられた、と言う信仰体系である。
- 従って、今は、神様は、直接的に、「祈り」に答えるなどを通して、私たち人間の世界には関わることはない、と言う信仰である。
- しかし、初代の教会のクリスチャンたちは、そうではなかった。彼らは、神様は、必ず私の人生に関わって下さるという信仰を持って祈ったのであった。
- 彼らの祈りの言葉をもう一度見たい。25-28節。「・・・・」
- 彼らがその祈りの中で触れていることは、イエス様の生涯に関する預言とその成就である。
- 彼らは、そこで彼らの時代より1000年近くも昔にすでに書かれていたと思われる詩篇2篇のメシヤに関する預言を引用している。
- その内容は、異邦人、イスラエル人両方の政治的・宗教的リーダーたちが、神のメシヤに反抗して立ち上がること、即ち、メシヤの受難の預言であった。更に、彼らは、
- それらの預言が、「見事に」と言いたいほどに、当時のユダヤ人指導者たち、ヘロデ王や、ローマの総督ポンテオ・ピラトらにおいて、彼らの目の前で完全に成就したと主張する。
- このようにメシヤの受難の生涯に関する預言と成就に触れることは、彼らにとっては、ご自身の完璧な御心を成し遂げるために、世界と個人の歴史に力強く介入する神様に対する確信と信頼の現れであった。
- 即ち、神様が預言したことは必ずそのようになる。神様は世界と個人の歴史に無関心なのではない。むしろ介入し、それを導き、御心を成し遂げられるという信仰を意味していた。
- 目の前に起こっているすべては、偶然に起こっていることではない。神様はすでに、それらが起こる遥か前から、すべてをご存じで、歴史は、神様のご計画の中で進んでいることの確信の現れであった。
- 私たちはこのような信仰をもって祈っているだろうか?!
- 苦難の中で、私たちを支える信仰、それは、すべては神様の御手の中にあるという信仰である。
- 私がNYのホテルで経験したこと(父の事業の失敗と大借金の故に、渡米1年後、留学の道も、伝道者としての道も全てがふさがれ、何もかもが終わろうとしているかに見えたとき):「私があなたをここまで導いたのだ。お前は、今も、私の手のど真ん中にいるんだよ。」と主が語って下さったこと(もっと詳細は音声で)。
- リサ・ビーマー(9/11で主人が「レッツ・ロール」と言ってテロリストと戦い命を失った):その夫の死によって、二人の小さな男の子とお腹に女の子が残された。彼女は言った。「私が今も前に進むことができるのは、この目の前のすべての現実が偶然に起こったことではない。すべては、神様の御手の中にあることと言う信仰があるからである」と。
- 「主は、私の人生における主の御心を成就するために、私の人生に必ず力強く介入してくださる」という信仰をもって祈りたい。
Ⅲ.初代のクリスチャンたちが迫害の中で捧げた祈りから学ぶ第三のことは、彼らの祈りの目的は、自分のためでなく、神様のため、福音の前進のためであったことである。
- 29-30節を見たい。
- これはこの祈りの最後の部分であるが、この祈りが全体として不思議なことは、迫害下の中で捧げられた祈りなのに、最後まで「お守りください」と言うような言葉がないことである。
- それは、この迫害がさほど怖いものでなかったからなのか? NOである。なぜなら、
- 29節にあるように彼らは明らかに「脅かし」を感じていた。「大胆に」と心を決め、覚悟しなければ、とても日常的・平常的気持ちでは奉仕活動もできない状況であった。
- にもかかわらず、彼らは、「私を助けてください」「守ってください」という、受動的、消極的な祈りをしなかった。
- むしろ、彼らは、そのような迫害の中にありながら、その迫害の原因であるキリスト教宣教をもっとやらせてくださいと祈るのである。
- 即ち、彼らは祈る。「・・・・」(29、30)と。
- これは、今も触れたように、普通考えられない祈りである。普通なら「神様、こういう状況なので、私も怖いですし、暫く宣教や奉仕の方は休ませて頂きます。引くことも大事な知恵だと思います。それに、あなたの御名を使うとどうも抵抗があるようなので、余りあなたの名前を使わないようにします。いずれにせよどうかあなたのか弱いしもべたちを哀れみ、お守りください。」と言うような、どちらかと言うと消極的なお祈りが想像される。
- しかし、彼らの祈りは正反対であった。彼らの祈りは、もっと積極的であった、今までと同じように、否、今まで以上に、しかも、イエスの御名を大胆に使ってご奉仕させてくださいと言うものであった。
- 確かに知恵は大事である。「引く」ことも大事であろうし、それは、時には大切な「兵法」でもある。しかし、ここで指摘したいことは、少なくとも初代教会の人々は、「こんな時には引くしかない」と決め込まなかったこと、むしろ、その正反対を選んだ事実である。
- これはこの祈りの最後の部分であるが、この祈りが全体として不思議なことは、迫害下の中で捧げられた祈りなのに、最後まで「お守りください」と言うような言葉がないことである。
- なぜ、彼らは、そのようにできたのか? いな、彼らは、なぜそのようにしたのか?
- それは、彼らの祈りが、最早自分のための祈りではなかったからである。だから、「私を守ってください」と言うことは、祈りの中心ではなかったのである。
- 彼らの祈りの最大にして、最優先目的は、イエス様の御名を掲げて神様の福音の御業が前進、拡大することであった。それがたとい迫害下であっても。まさにAgainst all oddsの中で。
- それと比べて、私たちの祈りの主な目的は何だろうか? 私たちクリスチャンは、他の信仰を持っている方々を「あれはご利益信仰だ」と批判する。しかし、私たちが、毎日実際生活で祈り求めているものを吟味するとき、それらの方々と一体どのくらい違うと言うのか?
- 私の大好きな星野富弘の詩に「命より大切なもの」と言う詩がある:いのちが一番大切だと 思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。
- よく「命あっての物種」と言うが、人間は、地上の肉体の命、地上の人生の繁栄より大切なもののために生きるように造られているのである。
- この命、また人生は、手段であって、目的ではない。私たちは命を守るために生きているのではなく、命を使うために生きているのである。それが「使命」と言う言葉の意味である。
- そして、人間は、使命に生きる時、強くなる。そして、私たちが使命に生きるとき、そのために必要な力、健康、お金は必ず与えられる。
- かつて、10年以上にわたって私たちを支えてくれたアメリカ人の夫婦がいたが、そのご主人がしばしば私と共に祈りながら警告するように私に言った。「JUNICHI、お金のことは心配するな。使命に生きろ。使命に生きるなら、お金も、必要なものも必ずついて来る」と。
- 初代教会のクリスチャンたちもそう信じ、そうしたのである。自分たちが使命に生きるなら、必ず守られると、それがたとい次の世の命であっても。
結 論
- これが迫害下の中で初代教会の人々が祈った祈りである。私たちも同じ祈りを捧げるものとなりたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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