我らは恐れない
- 詩篇 46篇1~11節 -
2024年4月14日 金沢独立教会夕拝
聖書
詩篇 46篇1~11節
神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。〚セラ〛
川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。〚セラ〛
来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。〚セラ〛
序 論
- 日本のある首相が、かつて「人生の三つの坂」ということを話したという。それは、「上り坂」「下り坂」、もう一つが、「まさか」であると。
- 確かに、私たちの人生は、予定外、予想外、想定外、即ち、「まさか」に満ちている。
- 今年元旦の震災・・・正に「まさか」であった。
- 「人生一寸先は闇」と言われるが、私たちはその闇が「怖い」のである。これだけ科学が発達した時代であっても、先が見えない。明日が見えない。聖書が言う通り「明日も分からない身」なのである。
- 人々の心は、これから、世界はどうなるのか、私の生活と人生はどうなるのか、一体問題は収束するのか、それとも次の「まさか」が待っているのか、と言う恐れと不安にわななき、揺れ動いている。
本 論
Ⅰ.人生と恐れ
- 今日の聖書箇所の背景は、人生にある「恐れ」であり、メイン・テーマは「その恐れをどうするか?」である。
- そのことは1-3節を読むとき明らかである:「・・・それゆえ、我らは恐れない・・・」。
- この詩篇は、伝統的解釈の一つとして紀元前701年、エルサレムがセナケリブ将軍率いる18万超のアッスリヤの大軍に囲まれ、絶対絶命の危機と「恐怖」のどん底に追い込まれた時ヒゼキヤ王は預言者イザヤによりすがった。そのときイザヤが詠んだものとも言われる。
- また歴史的には、1517年宗教改革に立ち上がったマルチン・ルターが、四面楚歌、内憂外患とも言うべき問題に直面しながら、孤独と「恐れ」に身も心もボロボロになる苦境の中で、この詩篇をもとに「恐れ」に打ち勝つ信仰を表わして「神はわがやぐら」と言う有名な讃美歌を作ったと伝えられている。
- 今申し上げたヒゼキヤやルターだけではない。私たちはみな人生において「恐れ」に囲まれている。
- 人間の代表であるアダムとエバが、神様を神として畏れず、神様とそのお言葉を軽んじ、背き、離れたときから、人間はあらゆることに恐れと不安を感じるようになった。
- その筆頭として、彼らは愛すべき神様をさえ恐れるようになった。「・・・・」(創世記3章10節)。愛し愛されるべき神様を怖がることは、人類の悲劇の始まりであった。
- そして、そこから始まって、私たちは、たくさんの「恐れ」に囲まれるようになった。この詩篇46篇にもそれが記されている。
- まず、「天災」、自然災害からの恐れである。
- それが、2-3節に書かれている。「私は恐れない。たとい、地は変わり、山々が海の真中に移ろうとも。たとい、その水が・・・」。詩篇の作者がここで言っているのは、天災からの恐れである。
- 昔、日本で恐れられる怖いものの代表として「地震、雷、火事、親父」と言われて来たが、そのトップ2は、自然災害である。
- 日本だけをとっても、この10数年の間に、東日本大震災、熊本大地震、西日本・関東各地での大洪水、大型台風、そして今回の能登半島大震災による被害と、自然災害が軒並みに続いている。
- 今後、温暖化により台風は益々大型化すると言われている。 言うまでもなく、震度3-4程度の地震は全国いたるところで絶えず起こっている。
- 更に、この詩篇には、「人災」による恐れが記されている。
- 6節は言う:国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。
- これは言うまでもなく、直接的には、諸国間の争い、戦争状態のことである。現在も、ウクライナで、ガザ地区で悲惨な戦争が続いている。
- 「人類の歴史は、戦争の歴史である」と言われる。人類の歴史において、戦争の無かった時代はないと言われるほどに、いつも世界のどこかで人類は戦争を経験してきた。
- 戦争の背景・原因には、政治的、経済的、様々な外的要因もあるものの、その奥には、必ず自己中心な罪と言う根本原因がある。その意味で、戦争は明らかに「人災」である。
- 多くの戦争経験者から戦争の恐ろしさについて聞く。熱海の疎開先で艦載機に狙われたこともある母もその一人。生前しばしば言っていた。「戦争は怖い。恐ろしい」と。戦争は、戦争にのみ止まらず、飢饉、貧困、家庭崩壊、人格破壊を連鎖的に生み出す。
- 「人災」の中には、更に、交通事故を始めとする様々な事故や、病気の一部も入る。今回の「紅麴」問題も人災的要素も多分にある。後を絶たない学校、職場での「苛め」の悲劇。これらもまた人災である。
- まず、「天災」、自然災害からの恐れである。
- 私たちはみな、いつ襲って来るか分からない、このような様々な天災・人災からの「恐れ」に囲まれて生きている。
- 「恐れ」からの解放の必要と希望:
- 私たちが、もしこれらの「恐れ」に留まるなら、私たちは、幸せになることも、ダイナミックで魅力的な人生を送ることもできない。それは、神様が私たちに期待する人生ではない。
- 人は恐れに捕らわれる時、普段できることもできなくなるほど萎縮してしまう。
- だから、聖書は、私たちに「恐れてはならない」と言うのである。
- それゆえ聖書には、旧約・新約聖書を通して、何回も何回も、神様から私たちへのメッセージとして「恐れてはならない」と繰り返されている。(ある人は366回?、1年間毎日1回聞ける回数と言うが??、たぶん70から100回?であるとも言われる)
- 例)
- モーセ:申命記31章6節
- ヨシュア:ヨシュア1章9節、8章1節
- ダビデがソロモンを励ましたとき:歴代誌Ⅰ22章13節
- イザヤ:イザヤ書41章10、13節
- パウロ:使徒27章24節
- この詩篇46篇も、2節の「それゆえ我らは恐れない」を中心に、「恐れなき生涯」が可能であることを宣言し、更には、そのような人生への道を私たちに教えている。
Ⅱ.そこで、後半、第二ポイントとして、この詩が教えている「恐れなき生涯への道」をご一緒に考えたい。
- それは、第一に、イエス様を「避け所」として逃げ込むことである。
- 1節の冒頭に「神は我らの避け所」とある。更に読み進むと「力」「助け」が出てくる。
- 即ち、私たちが苦しむとき、必要な力や具体的な助けは、まず私たちが、イエス様を避け所とし、とにかくイエス様の所に逃げ込み、身を隠す所から始まるのである。
- 強がる必要はない。親の元に逃げ込む子供のように「怖い!」と言って飛び込むこと。
- そこで、思いっきり怖いと泣き叫び、震え、イエス様に縋り付けば良いのである。
- そのようにしている中で、元気や力が湧いて来て、助けも与えられていくのである。
- そこは、自分の現実、弱さ、霊的・精神的暗ささえ曝け出すところである。
- 聖徒の例を見たい。
- (1)パウロもそのことを経験している:
- Ⅱコリント12章7-10節である。
- パウロの「弱さ」が何であるか分からない。しかし、パウロにとって嫌なものであり、恥であり、邪魔であり、模範として誇れない、彼を失望・落胆させるものであった。
- 恐らく、最も大きな問題は、3度も祈ったのに、祈りが答えられないことであった。本当に私は、神と繋がっているのかと言う不安と不信の問題であったであろう。
- しかし、パウロはそこを通り、弱さに徹底的に打ちのめされたからこそ、力が与えられ強くなれたのである。(ブルックリン・タバナクル・チャーチ:ジム・シンバラ)
- しかし、イエス様は、有名な「山上の垂訓」の結論部、マタイ7章24-27節でも、同様に賢い人生と愚かな人生について語っておられる。重要だからである。
- 当然のことながら、ここで「賢い・愚か」は知性の問題ではなく、人生の知恵の問題である。
- 旧約聖書の詩篇、箴言、伝道の書、更には新約のヤコブ書はこのことに関する教えで満ちている。例:ヤコブ3章13節 (ハーバードビジネススクールの研究にも合致)
- 賢い・愚かは、頭の問題ではなく、心の問題である。
- 次にマザーテレサである。彼女は、ローマンカソリック、プロテスタント、時には、宗教教団の枠をさえ超えて、人間、信仰者、聖徒の鑑として尊敬されて来た。しかし、
- 聖徒として尊敬された彼女の死後、彼女のイメージをひっくり返すような、彼女の心の闇を告白する手紙が公開された。そこには、彼女の心の苦闘。神の存在さえ疑うような不信との闘いが記されている。
- それをどう読み、解釈するかの長い論議は今はできないが、私は、それは決して不健全な葛藤ではないと信じる。それは、人間性と人間力のギリギリまで追い込まれた時の人間の現実であり、むしろ彼女はその神様との葛藤から必要な力を頂いてきたのである。
- その暗い苦闘は、ダビデが詩篇22篇に記した絶望的叫びにも見られた。「・・・・」(1-2、6-7節)。ここに記された苦しみを単にメシヤ預言としてだけ片づけるのでなく、ダビデ個人の経験としても味わねばならない。そして、この不信とも言える苦闘ゆえにダビデは、同詩篇後半の賛美(4回繰り返し)に溢れる生涯を経験したのである。
- もう一人、このことでご紹介したいのは、蔦田二雄師である。
- シンガポール生まれ。ロンドン大学で学び外交官を目指すが、在学中、伝道者としての召命を受け、日本で伝道者となる。
- 東京日本橋で始めた彼の伝道活動は目覚ましいものであったが、戦時中もその妥協なき信仰、不屈の姿勢・主張のゆえに東条政府の宗教弾圧を受け捕縛・投獄。2年間の独房生活を経験。戦後釈放されたときは、声を失い、歩くこともままならなかったと言う。
- しかし、その後、日本に独自のイムマヌエル教団を創立。長い間同教団総理として、また超教派的にもリーダーとして活躍し、内外から尊敬された人物。
- しかし、その強いリーダーシップ・スタイルと厳格な性格的イメージゆえに、しばしば人々は彼を「天皇」「ワンマン」と呼ぶほどであったが、正に、キリスト教界の勇士的、英雄的存在であった。
- そんな彼の長男が、その父親のことを語った時のことを忘れることができない。彼は言った。私が父の愛唱讃美歌が何かを発見したときに驚いた。父の愛唱歌はきっとその性格から何か勇ましい歌だと思っていたら、Jesus, Lover of my Soul(わが魂を愛するイエスよ)だった。それは、勇ましさ、力強さより、イエス様との静かでスイートな個人的な愛の関係、信仰の内面を謳う歌であったからである。
- それはこのように謳う:Jesus, Lover of my Soul, let me to Thy bosom fly while the nearer waters roll, while the tempest still is high, Hide me, O my Savior, hide till the storm of life is past; safe into the haven guide; Oh, receive my soul at last. (Charles Wesley)
- それは、人生の嵐の中で、イエス様を「避け所」Refuge, Hiding Place隠れ家とする人生であった。
- 即ち、あの蔦田二雄先生の強さは、性格の強さからでも、信仰の強さからでもない。自分の弱さや惨めさを何もかも曝け出し、ただただ助けてと叫ぶイエス様とのHiding Place隠れ場、避け所でのやり取りから来ていたのである。
- (1)パウロもそのことを経験している:
- これが、「恐れなき生涯への道」の第一歩である。
- 1節の冒頭に「神は我らの避け所」とある。更に読み進むと「力」「助け」が出てくる。
- 詩篇46篇が教える「恐れなき生涯への第二の道」はイムマヌエル、「主ともにいます」の信仰である。即ち、「私の砦」、私のために戦ってくださるイエス様が、いつも共にいて下さると言う信仰である。
- これは、この詩篇の中心である。だから、そのことを詩の中心部である2番目と3番目の区分の締め括りである7節と11節に2回繰り返している。
- まず2番目の区分4-7節では、その臨在の主との交わりが現実になるために、神の都を流れる「川」、即ち「ご聖霊の川」が私たちの内に流れている必要を告げている。
- エルサレムの町には、自然の川はなかった。
- あったのは、ヒゼキヤがアッスリヤ軍の攻撃に備えて籠城用、給水用に造った人工水路だけであった。しかし、
- 恐らくここで言う川は、実在の川と言うより、寧ろエゼキエル書(47章)、黙示録(22章)等に記されている主の臨在と霊的祝福の象徴としての川であろう。
- イエス様は、ヨハネの福音書7章に記されているように、この川の流れをご聖霊のこととして提示された。「・・・・」(ヨハネ7章37-39)。
- 私たちはどこに、どのようにして、私の恐れのために戦って下さる主の臨在を体験し、確信できるのか? それは川のように私たちの内に流れるご聖霊との交わりを通してであるとこの詩篇は教える。ご聖霊の流れに与ること、それが主の臨在を頂くことである。
- 4節「川があるThere is a river。その流れits channels/streams/divisionsは・・・神の都を喜ばせ」。
- 大きな聖霊と言う川があるだけでは十分ではない。即ちご聖霊が存在すると信じる信仰だけでは十分ではない。
- そこから分かれる「小さな流れ、channels, streams, divisions が、私たち一人一人へ流れ込むことが大切なのである。
- 8-11節の第3の区分は、私の砦として戦って下さる主の臨在を頂くためには、私たちは「自分の業をやめる」ことであると教える。
- 10節「・・・・」。
- この「やめよ」の原語「ラファ」は、Do nothing、即ち、お前は何もするなである。
- 英語は、Be still(何もしないで)じっとしていなさい、である。
- 何を「やめる」のか? 「自分で何かをしようとすること」を「やめる」のである。
- 即ち、「自分の業」を止めることである。それについてヘブル4章10節は言う。「・・・・」。
- 恐れなき生涯、安息と平安の生涯は「自分の業を休む、止める」ことから始まる。
- しかし、何か怖くなるような問題が起こったとき、通常、一番難しいことは、何もしないことである。
- 私たちは、そんな時、じっとしていられなくなる。何かをしていないと落ち着かない。
- 何かをしていることで安心しようとする。それが人の性である。
- 優秀、有能な人は尚更である。無意識のうちにも、自分の力で問題を解決しようとする。
- そして、まず最初に、人間として出来ること、思いつくことをみんなする。そして、最後に「のし(熨斗)」を付けるようにして、「自分のするべきことは全部した。後は神様に祈るだけだ」と言って、残務整理のような祈りをし、神様に任せる。
- これは、俗に言う「人事を尽くして、(それから)天命を待つ」である。人事、即ち、人間的に自分の願い・考え、自分の計画、自分の力を、先ず実行し、最後に、足りないところを神様にして頂く生き方である。
- それは間違いである。逆である。まず、するべきことは、「やめよ」、自分の業を一旦ストップすることである。そして、神様の前に祈り、神様の助けを求め、待つことである。そして、祈りの答えとして、もし神様が動けと言われたら、動くことである。しかし、その時、その行為は、最早自分の業ではなく、神の御業の一部である。
- この時、初めて私たちは、10節を経験する。即ち、クリアーに、我らの主をイムマヌエルとして、共におられる生ける神、勝利の主として知り、崇めるのである。
- ここには二つの命令形が連続する。「やめよ」と「知れ」である。しかし、それは単純な二つの命令の羅列ではない。二つ目は一つ目の結果である。自分の業を止める時、神様が神様として見えてくる、分かってくるのである。ここに恐れなき生涯の秘密がある。
- 10節「・・・・」。
結 論
- 1-2、7と11節をもう一度読む。
- イムマヌエルの事実こそが、恐れない生涯への道である。
- 上述した蔦田二雄師は、戦前の東京日本橋で、周囲の住人が一目置くほどに、祝福された伝道をしていた。しかし、WWⅡ勃発となり、迫害が始まり、ある日とうとう、特高刑事により連行・収監され、終戦までの2年間独房生活であった。家族を、仕事を、信者を、教会を、財産を、自由を、最後には健康を、生きて釈放される希望をさえ、何もかも奪われたとき、彼が経験した事実があった。人は、人生は、国家は、私からこれらすべてを奪うことはできても、ただ一つ奪うことができないことがある。それは、神われらと共にいます、イムマヌエルの事実である。これこそが福音であると。もし私がこの牢を出ることができる日が来たら、私はこの福音と事実を伝えるために生きると決心し、戦後それを実行し、イムマヌエル教団を創設、64才で心筋梗塞で亡くなるまで、僅か20数年で150以上の教会を擁する教団に成長した。
- イムマヌエルの事実、これこそが恐れなき生涯の道である。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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