復活は何を意味する
- コリント人への手紙 第一 15章1~58節 -
2024年3月31日 SRC
聖書
コリント人への手紙 第一 15章1~58節
1兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
2私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
7その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
8そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
9私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
10ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
11とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
12ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
13もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
14そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
15私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
16もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
17そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
18そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
19もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
20しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
21死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
22アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
23しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
24それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
25すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
26最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
27「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
28そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
29そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
30なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。
31兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。
32もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
33惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
34目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
35しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
36愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
37また、あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
38しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
39どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。
40また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
41太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。
42死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
45こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
46最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
47第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
48土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
49私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
50兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」
55「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
58ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
序 論
- 先週も少しお話ししたが、私が信仰を持って間もない頃、駅前で教会の仲間と共にキリスト教のパンフレットを配っていた。そこへ、新興宗教のご婦人たちが近づいて来て言った。「あんたたちの信じている信仰の開祖って、最後は十字架にかかって死んだっていうじゃない。そんな人に他人を救えるの?」
- 当時まだ入信まもなく、 17歳の私には、何も答えることができなかった。教会に戻って先輩のクリスチャンに報告。すると言われた。「今度そんなことがあったら、言いなさい。『そのご批判は片手落ち。確かにキリストは十字架に死にました。でも、それで終わりではないのです。3日目に死から甦り、今も生きておられます』」と。キリスト教において、死は終わりではない。
- 私が生まれた「昭和」の後半、1960年頃にフジテレビの敏腕国際派ニュース・キャスターとして活躍した山川千秋と言う人物がいた。
- 彼は、そのキャリアにおける成功の頂点で、食道がんに倒れ、55才と言う働き盛りの若さで亡くなった。ガンであることを知らされたとき、言うまでもなく彼は苦しんだ。その直前にすでにクリスチャンになっておられた奥様の導きによって牧師(宣教師)が彼の病床を訪ねた。
- その牧師は彼に言った。「千秋、人間は病では死なないよ。主が与えてくださる時が、その人の最善の死の時なのだよ。死は決して終わりではない。キリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりなのだよ。」と。彼はやがてキリストを救い主と受け入れ、このことを経験し、平安のうちに主のもとに帰った。
- 「死は終わりではない」 これがイースター・メッセージである。今日は、そのこと「復活の意味」を第一コリント15章からご一緒に考えたい。
本 論
Ⅰ.キリストの復活は、何を意味するか? 第一に、死を超えた「永遠の命」の実現である。
- 死はすべてを破壊する人類最後の敵である。
- セネカの言葉:死よ、お前のお陰で人は生涯不幸になった。
- フランスの哲人、ラ・ロシュフコーも、死についてこのように言った。「人は、太陽と死を正視することはできない」と。
- 死ほど人を不幸のどん底に落とすものはない。誰にもやってくる。若い人でも、健康な人でも、結婚したばかりの人でも容赦なく襲ってくる。
- 死は、時も・事情も選ばない。死は、いつやってくるか分からない。
- しかし、その死に対して私たちは、ほとんど何もすることはできない。.
- どんな哲人も、偉人も、聖人も、宗教家も、政治家も、権力者も、何もできぬまま、死んで、葬られ、今も墓の中に眠っている。
- 現代の進んだ健康法・医学技術の力を借りても、現段階ではせいぜい100~120歳までの延命・長寿に過ぎない。
- しかし、それでも、人間が究極に求めるものは、「永遠」であり、「永遠の命」である。
- ギルガメッシュ:人類最古の物語、秦の始皇帝:不老長寿の薬
- ロシアがソ連という無神論の国だった頃、亡くなった大統領の棺の上に永遠の命と繁栄を象徴する月桂樹の花輪が載せられていたという。
- 国民的プロ野球選手長嶋茂雄が、引退試合で語った「巨人軍は不滅です」という名言にも人間が永遠不滅を求めていることが表われている。
- 昔の御伽噺がHappy Endで終わるとき、二人はいつまでも永遠に幸せに暮らしましたThey live happily ever after.と言う画像で締め括られる。
- なぜか? そのように創造されたから。伝道の書3:11
- 感謝すべきかな、キリストの復活は、信じる者が永遠の命を持つことを可能にした。
- Ⅰコリント15章54-57節は宣言する:「死は勝利にのまれた・・・死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よお前のとげはどこにあるのか。神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました」と。
- イエス様は言われた。「私は、よみがえりです。命です。私を信じるものはたとい死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)と。
- イエス様のよみがえり、復活によって、「死は最早人生の終わりではなくなった」のである。
- イエス・キリストの復活によって、死の向こう側に、死んでも生きる永遠の命の希望と喜びが約束され、保障されたのである。
- 確かに、死は、キリストを信じる者にも、今なお、暫くの別れ、別離の寂しさを与える。
- しかし、クリスチャンにとって、死は最早、永遠の絶望的別離ではない。神の前で、天の御国での再会が約束されているのである。
- 一人の小学生の女の子が白血病で天に帰ろうとしていた。その子は日曜学校に通い、イエス様を信じていた。両親はまだ教会にも行ってなかった。幼くしてその生涯を終わろうとしていた娘が不憫でならず枕辺で泣いていた。その子が両親に言った。「何で泣いているの? 泣かないで。私はイエス様のところに行くのよ。お母さん、お父さんも、早くイエス様を信じて、天国に来てね」と言って、数日後天に帰った。(その子の召天後、両親は教会に通うようになり、娘との再会を心待ちにしながら熱心なクリスチャン生活を送っておられた)。
- この永遠の命を確信できる理由は、イエス様の十字架のゆえである。
- Ⅰコリント15章56節にあるように「死のとげは罪である」。罪があるから死が怖いのである。
- クリスチャンが「なぜ」究極的に死を恐れないのかと言うと、それは、「罪のとげ」がキリストの十字架によって抜かれたからである。
Ⅱ.イエス・キリストの復活の第二の意味:私たちの犯した罪の完全な赦しである。
- 聖書はそれについて:
- Ⅰコリント15章3節は言う。キリストは「私たちの罪のために死なれた」と。
- 更に、17節「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお自分の罪の中にいるのです」
- 人間は皆、罪びとであり、犯した罪の赦しを必要としている。
- 死刑を待っていた一人の元赤軍派の闘志が、刑の執行を待たずにガンの病で刑務所の中で死と直面した。彼は、それまで「私は無罪だ」と法廷でも周囲の人々にも、虚偽の証言をしていた。しかし、死に直面し、彼は「この罪を墓場まで持っていけない」と手紙を書き、自らの罪を認め公に告白した。
- 水原一平氏の事件:彼の例は告白しない罪を持っていることは、爆弾を抱えて生きているようなものであることを証明した。どんなに苦しかったか? 詩篇32:1-5
- しかし、彼らだけではない。彼らのように犯罪者クリミナルではないかもしれないが、私たちは皆シナ―であり、神の前に罪びとである。
- ある人は言う、「今更、過去のことを言っても、どうにもならない。だから過去は忘れなさい」と。
- しかし、過去の問題を解決しなければ、決して、安定した現在も、輝く未来もない。それは所詮「臭いものにふた式」一時しのぎの人生である。
- では私たちは、どのようにして過去の罪を清算できるか?
- 結論的に言って、私たちには何もできない。例えば、これからの善行は、当然であって、過去の罪の償いにはならない。
- それができるのはイエス様の十字架だけである。イエス様は十字架の上で私たちの身代わりに呪われ、私たちの罪の刑罰を受けられたのである。
- それが正に、第2コリント5章21節が言っていることである。
- イエス様は十字架上で、「すべてが終わった」(It is finished)と言われた。
- それは、「万事休す」を意味していない。「完了」を意味していた。即ち、All are completedである。
- イエス様はあの十字架の上で全人類の払うべきすべての罪の代価である死の呪いを完璧に受けられた、Paid offされたのである。
- キリストの十字架による罪の赦しの完成の公式宣言がキリストの復活である。
- あのまま死んでしまって消えてしまったなら、あれはどうなったのかといつまでもみんなに不安を残すだけである。
- しかしキリストの復活によって父なる神様は、御子が十字架で受けた苦しみによって全人類の罪の赦しの準備が完了したことを宣言された。
Ⅲ.キリストの復活が意味する第三のことは、「生きがいある人生」の保証である。
- 私の知人で、経済ジャーナリストとして相当の地位にある方が、私に言った。
- 「先生、今経済の専門家が一番困っている問題は何だと思いますか?」
「若者たちに『やりがい・生きがい』を持たせることです」と。
- 「先生、今経済の専門家が一番困っている問題は何だと思いますか?」
- 日本が戦後復興を目指していた頃、全国民が『やりがい・生きがい』に満ちていた。
- 当時でも、社会格差、経済格差はあった。当時も、上流階級があり、金持ちは金持ちであり、一般中産階級もあり、貧しい階層もあった。
- しかし、それぞれが、「やれば、やっただけのことはある。皆が、その努力が報いられる、みんなの生活がよくなる」という希望が一杯であった。
- しかし、今は違う。山田昌弘氏が書いた「希望格差社会」という本が指摘するように、大半の人々が、そんな「希望」を持てなくなっている社会となりつつある。
- 即ち、今は「やればやっただけ報いられる」「やりがい、生きがいを感じられる」のは、極く一部のエリート・グループだけである。
- 大半の人々はこのグループに入れないという閉塞感・失望感が、多くの日本人の心を占めている。
- 特に若者たちの多くが、どんなに頑張っても、正しく評価されない、報いられないと、将来に対して希望を感じられないで生きている。
- そもそも、人生には、うまく行っていると思えるときもある。失敗だったと思うときもある。人々や社会から全然評価されないときもある。
- 今までやってきたことが無駄だったと失望することもある。「一体私の人生は何だったのか」と、気落ちすることもある。
- このような時代、キリストの復活は、私たちに「生きがい」を与える。
- 即ち、たとえどんな人生を生きたとしても、復活の主と共に生きた人生は、「私の人生には一つとして無駄はなかった」と言わしめる。
- Ⅰコリント15:58。「・・・・」。
- 罪は私たちの人生の労苦を報われない「徒労」にし、「生きがい」を奪った。創世記3:17-19。「額に汗して」「働けど働けど、我が暮らし楽にならざりき」
- しかし、キリストの復活が全てを変えた。パウロは言う。
- (1)「ですから」。即ち「キリストが復活したのだから」。
- (2)最早、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄」になることはないことを知っている」と。
- 私たちは、やがて、永遠の命を与えられた者として、復活された主の前に立ち、究極的に公正・公平な裁きと褒賞がくだされる。
- 地上では、「成功者」「不成功者」というレッテルや烙印が押されたとしても、それが人生の最終評価ではない。
- 全ての正しい評価は、死の向こう側、復活して後である。
結 論
「Because He Lives」と言う賛美の原詞はこのように言う。
Because I know He holds my future, And life is worth the living just because He lives.
●復活の意味すること: ▶ 永遠の命 ▶ 罪の赦しの完成 ▶ 生きがいのある人生
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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