聖霊に満たされた生涯「謙遜:私を見なさい/私を見ないで」
- 使徒の働き3章1-16節 -

2017年4月23日 WIJC

聖書
使徒の働き3章1-16節

序  論

  • 先週は、皆様と共に、主のご復活を記念するイースターの礼拝を共に守ることができたことを感謝します。特に、ロックビル・チャペルの方では、午後にアウトリーチとしての「ファミリー・イースター」の集いをもって、大人と子供を合わせて、54名の方々が集まり、イエス様のご復活を記念し、そのメッセージを伝えることができたことを感謝します。
  • と言うことで、キリスト教のカレンダーで言うと、今は、イエス様が復活後40日の間、弟子たちと共に過ごされ昇天されるまでの時期に入ります。
  • 即ち、イエス様は、復活後40日で昇天されますが、それから10日後に、言い換えると復活後50日目の「5旬節・ペンテコステ」と呼ばれる祭りの日に、神様が約束された「聖霊」がくだり、弟子たちに新しい力が与えられます。その辺りのところが、聖書の「使徒の働き」に書かれてあります。
  • 私たちは、イースターの前から、「使徒の働き」の初めの部分を通して、初代の教会が、クリスチャンが如何に成長していったかについて学び始めていた。
  • そのような成長において、ペンテコステの日に弟子たちが、聖霊を受けたことは大きく、かつ重要な出来事であった。
  • 今日も、弟子たちが、そのように聖霊を受けたことが、彼らをどのように変えたかを学びたい。
  • 今日の聖書箇所は、「使徒の働き」3章であるが、そこには、生まれながらに足が不自由で歩けず、物乞いをするしか生活の術を持たない人物が、見事に変えられて行く奇跡の出来事が記されている。
  • しかし、今日の中心は、その奇跡的出来事の中で、神様に用いられたペテロとヨハネが、聖霊に満たされた器として、取った態度、姿勢、行動について学びたい。
  • 一言で言うなら、あるいは結論から言うなら、それは、神の前の「謙遜」であった。
  • 彼らがどういう意味で「謙遜」であったか? 「謙遜」とは何かを学ぶことが今日のメッセージのメイン・テーマである。
  • しかし、その前に、第一ポイントとして、序論的に、

本   論

  1. 一般の社会でも、「謙遜」の重要性は言われていることに目を留めたい。
    1. 昔から語り伝えられている諺に、「実ほど頭を垂れる稲穂かな」がある:稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということを教えている。
    2. それだけではない。弱肉強食と言われるビジネスの世界でも謙遜は大切な要素である:かつて読んだHarvard Business Reviewで記憶していることは、成金的にポッと一時的現象のようにして浮上した人は別として、もっと長きに渡って業界でビジネス・リーダーとして貢献し、活躍した人たちの共通した特色は「謙遜」であると言っていたことである。
  2. 聖書の主張も同じである。謙遜こそ、クリスチャンの持つべき徳であり、祝福への道であるとその重要性を説く。
    1. イエス様は言われた。「心の貧しい人は幸いである。天国はその人のものである」と。多くの学者はこの「心の貧しい」姿とは「心のへりくだり」を意味していると言う。
    2. イエス様はご自身の姿勢を「私は、心のへりくだった者」(マタイ11:29)と言われた。
    3. イエス様が、十字架に掛かられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐「を弟子たちと共にする直前にしたことは何であったか? 地上的には師であり、リーダーであったが、当時の奴隷の仕事であった、弟子たちの足を洗うということをへりくだってされたのである。そして、あなたがたもそのようにへりくだるようにと教えられたのである。
    4. 聖書は、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられる」と何度も繰り返す。箴言3:34、ヤコブ4:6、第一ペテロ5:5
    5. 偉大な旧約聖書のリーダーであるモーセについても、その特筆すべき人格的特色について、「モーセと言う人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記12:3)。
    6. 聖徒の経験と主張もまた謙遜の重要性である:19世紀後半から20世紀初頭に名説教か、牧師、聖徒として知られたアンドリュー・マーレーは、「謙遜」という有名な本を著した。とてもその内容のすばらしさをここでお伝えできないが、その最たる主張は、イエス様こそ神様の謙遜の結集であり、謙遜こそクリスチャンの持つべき徳の根源であり、頂点であることである。
      • ここまで、「謙遜」の重要性を学んできたが、ここからは、本論として、この奇跡の出来事に用いられたペテロとヨハネが、聖霊に満たされた器として、その「謙遜」を如何に顕したかを学びたい。
      • それは、彼らが言った「二つの対照的言葉」が表す2点であった。
      • その「二つの対照的言葉」とは、
        1. 4節の「私たちを見なさい」
        2. 12節の「なぜ、・・・私たちを見つめるのですか?」、即ち、「私たちを見つめないでください」である。
        3. この二つの言葉の中に、彼らのまことの「謙遜」を見るのである。
  1. このことを考えるために、「謙遜」についての多くの誤解を整理しておきたい。
    1. 間違った「謙遜」、あるいは、間違った「謙遜な人」のイメージとは、
      1. 自分を表さない人、自分の意見を余り言わない人、どちらかと言うと、無口で、静かで控えめな人
      2. あるいは、謙遜とは、自分はダメな人間、できない人間として、自分を卑下して、引っ込み思案になる傾向のことだと思っている。
    2. しかも、それらの偽りの謙遜の背後には、しばしば、謙遜とは裏腹なゆがんだ動機がある。
      1. それは、失敗の痛みや恥を避けたいという動機からであり、
      2. それは、また、単なる安全策であり、自己防衛と言う動機からに過ぎない
    3. それらは、まことの謙遜ではない。今言ったように、それは、単なる逃げであり、卑屈な自己防衛に過ぎない。
    4. そこには、自分を守るために、自分を表さない、自分を隠すというスピリットがある。
  2. しかし、真の「謙遜」とは、それとは正反対に「自分のありのままを曝(さら)す」ことのできる心と姿勢である。
    1. ペテロとヨハネの姿をもう一度見てみたい:彼らは、施しを求めて、すがるように近づいて来るその男に向かって「私たちを見なさい」と言った。
    2. それは、その男にとっては、「何か良いものがもらえるに違いない」と言う期待を更に刺激するものであった。それが5節に書いてある。
    3. しかし、「何か良いもの」をもらえるどころか、ペテロから次に出た言葉は、それとは正反対のものであった。即ち、「金銀は私にはない」(6)であった。
    4. それは、どんなに、その男をガッカリ、失望させるものであったか?!私はそういう失望の姿をみたことがある。
      1. ケンタッキーにトヨタが初めて工場を造り、米国の自動車産業界に本格的に参入し始めた時、ホテルの大宴会室を貸し切って大パーティーをしたとき、
      2. つい先日の今年の桜祭りのグランドボールのパーティーのとき、
      3. いずれのときも、私もたまたまそこに参加していたのであるが、そこに来ていたサラリーマン風のビジネスマンが私に近づいて来た。私をどこかの会社のビジネスマンと期待して、私と名刺を交換してお近づきになりたいという期待感を感じた。しかし、私が「私は牧師だ」と言うと、その瞬間、アーこの人は私が期待したものを与えることができないという失望感がありありとみられると共に、すぐに目の前から去って行かれるという光景である。
    5. しかし、ペテロやヨハネは、そんなことにはお構いなく、「私たちを見なさい」と言っておきながら、「金銀は私にはない」と平気で言ったのである。
      1. 普通なら、「何も無いなら、初めから『俺を見ろ』などと言うな」と言いたくなる。
      2. みんな、そう思われたくないから、期待外れだと思われるのが嫌だから、初めから何も言わないのである。
      3. しかし、彼らは、隠したり、沈黙したりしないで、自分を積極的に曝したのである。
    6. 即ち、ペテロたちは、自分が無力であること、無一文であることを隠すことも、卑下することも、悪びれることもせず、ありのまま、そのまま、この男の前に曝け出したのである。
    7. これが、主が喜び、祝福し、用いる、真の謙遜である。それは、「自分のありのまま」を、そのままを、包み隠さず、さらけ出すことのできる心であった。それが真の謙遜である。
    8. そもそも、自分はダメだと卑下することは、私たちを造り、育て、ここまで導き、育ててくださった神様に、「あなたは失敗でしたね」と文句を言っているようなものである。
  1. 12節をもう一度見たい。
    1. 「なぜ、・・・・私たちを見つめるのですか?!」。この文章の真意は、反語文的に解釈して、「私たちをそんな目で見つめないでください」となる。
    2. 先には、彼らの謙遜は、ありのままの自分を少しも隠さずに、「私を見てください」と曝け出したことに表されたが、
    3. 今度は彼らの謙遜は「私たちを見ないで下さい」と言う正反対の姿勢、態度に表されている。
  2. なぜ、これが謙遜なのか? これでは、自分を曝け出さずに、自分を隠し、自分を卑下する偽りの謙遜と同じになってしまうのではないか?!
    1. そうではない。この二つは全く別である。
      1. 自分を曝け出さずに、隠し、卑下する偽りの謙遜の動機は、自己中心な自己防衛である。
      2. しかし、ここで、ペテロたちが、「私たちを見ないでください」と言った理由と動機は、全く別のところにあった。
    2. ペテロたちが、そのように言った動機は、自分を隠すためではなく、イエス様の栄光を守るためであった。
    3. 偽りの謙遜の背後には、しばしば、真の謙遜とは裏腹なゆがんだ動機がある。
      1. それは、失敗の痛みや恥を避けたいという動機であり、
      2. それは、また、単なる自己安全策であり、逃げであり、自己防衛と言う動機である
    4. しかし、ペテロとヨハネが、「なぜ、私たちを見つめるのですか、私たちを見ないでください」と言ったとき、それは、全く違う動機であった。それは、「自分を見ないで、イエス様を見てください」、即ち、「イエス様を見せたい」と言う動機であった。
  3. 真の「謙遜」は、あなたの周りに集まってくる人々に、「私ではなく、イエス様を見てください」とイエス様を指さす心と姿勢である。
    1. ここでペテロとヨハネは「私たちを見ないでください」と言った後、そこで終わっていない。
      1. そこで終わっていたら、ただのどこにでもある謙遜と余り変わらない。
      2. しかし、聖霊に満たされたクリスチャンの謙遜は、「私ではない」と言った後、「それじゃー、誰なんだ?」と言う当然の問いに、「それはイエス・キリストです」と答える。
      3. ペテロとヨハネがそれをしているのが13-15節で、イエス様のことを語っている。
    2. そして、16節では、この生まれながらに歩けなかった男を奇跡的に癒したのは、彼らではなく、イエス様ご自身であり、その御名の力であると証しした。
    3. 「私ではない。イエス様です」と言い切る心と姿勢の中に、彼らの真の謙遜を見るのである。
    4. 自分をどんなにほめようと、崇めようとする人々がいても、それを明確に拒絶して、「わたしではない。イエス様です」と指さすことは、必ずしも簡単ではない。霊の戦いである。
    5. なぜ、それが易しいことではなく、霊の戦いなのか? なぜなら、それが
      1. 罪の本質であるからである。
        • 罪の本質は、自分が中心となり、自分が神の位置に着くことだからである。
        • アダムとエバがエデンの園で「知恵の木の実」を神の命令に背いてまで食べたのは、神様を差し置いて、自分たちが「神のようになる」ことであった。
        • この傲慢こそが、人間の罪の本質である。
      2. それを知っている悪魔はいつも、その点を狙って人間を誘惑してくる。
        • そのような罠・誘惑に陥って、自分が神様か、少なくとも何様かになったような錯覚や自己欺瞞に陥り、堕落して行った牧師が少なくない。
        • ある聖徒は言った。今日キリスト教の問題は、著しい「人物崇拝」である。「あの先生、あの人は素晴らしい」である。人を褒めることは大事であるが。
        • しかし、私たちは、もっと神様を称えることが必要である。
        • イエス様は嘆いて言われた。「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか」と。
    6. 使徒の時代に大いに神様に祝福され、用いられたペテロもヨハネも、そして、パウロも、見せかけの謙遜ではなく、真に謙遜であったので、この点は断固としていた。
      1. 使徒3章12節をもう一度見たい。ペテロは言った。「イスラエルの人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか、信仰深さとかによって彼をあるかせたかのように、私たちを見つめるのですか」と。
        • 「なぜ」と言う言葉が2回出てくる。それは強い意外性を示していた。ペテロたちにとって、人間の信仰深さや敬虔深い態度位で、或いは、2日や3日断食して祈ったからと言って(祈りの熱心さなら異教の人たちが遥かに勝っている)、それがこの足の不自由な男を変えたなどと「何で考えるの?!あり得ない」と言いたかったのである。
      2. 使徒の働き14章11~15節:そこには、パウロが歩けない人を奇跡的に癒した出来事に驚嘆した人々が、この奇跡に関わったパウロとバルナバを神として崇め、称え、礼拝しようとしたときのことが書かれている。
        • そこでも、パウロは、その礼拝を断固として拒絶したのである。
      3. ここで大切なことは、これらの使徒たちの態度が「断固」としたものであったことである。
        • 今の時代は、何でもが曖昧、グレーの時代である。
        • 一見、それが、「広さ」を意味することもあるが、ほとんどの場合は、それがゆえに、すべてが中途半端である。霊的姿勢も、霊的祝福も。
        • 誰もが、足の不自由な人を癒したのはイエス様であり、神様であることを知っている。でもそれを知りながら、神様より目の前にいるそれに関わった人間をより褒め、称える。
        • 褒められる方も、まんざらでない顔をして、「いやーそれは神様ですよ」と言いながら、「いやー、先週は私もこのためには結構祈りましたからね」と言って、どこか自分の祈りの力や信心深さにクレジットを与えようとする。
        • しかし、それは、初代の使徒たちの真の謙遜から生まれる姿勢ではなかった。彼らは断固としてそれを拒否した。
        • その断固さは、ペテロとヨハネの2回にも渡る「なぜ」の質問に滲み出ている。
        • またパウロたちの場合は、14章14節にあるように、「衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら・・・どうしてこんなことをするのか」と言った激しい行動に明確に表されている。
        • 私たちはこれほどまでに、私ではない、イエス様ですと言うことに徹底しているか?!

結   論

  • クリスチャンの理想像、成長の目標は、御子イエス様の誕生から十字架に至る「謙卑」のお姿である。
  • その謙遜は、自分を卑下することも、飾ることもなく、ありのまま曝け出すことであり、また、自分を売り込むのでもなく、イエス様を崇め、称え、伝える姿勢と生涯である。
  • 斯かる生涯は、聖霊の満たしだけが可能にするものであり、かつ瞬時でなく、永遠のプロセスである。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。