十字架の向こうに期待される歩み(3):愛
- マタイの福音書 25章31~46節 -

2024年3月10日 SRC

聖書

マタイの福音書 25章31~46節

人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」"

序  論

  • 現在は教会の暦では「レント」の節季である。まもなく、3月末に来るイエス様の十字架と復活を記念する日々を覚えつつ、心を備える時である。そのため、
  • 私たちは、ここ2週間「受難週」の学びとして、マタイ25章から学んできた。
    1. 十字架を目前にイエス様の思いは既に十字架と復活の向こう側にあった。
    2. イエス様を信じる者たちが、永遠の御国を目指して、現在をどのように生きるべきかについて、マタイ25章で三つの譬えを語られた。
    3. それは、(1)聖霊に満たされた人生、(2)忠実な人生、(3)愛に生きる人生である。
  • 今日は、その最後の「愛に生きる人生」について学ぶ。

本   論

  1. 愛ほど、必要とされ、用いられ、それでいて、誤解されてきたものはない。
    1. テレビを見ても、映画を見ても、小説を読んでも、週刊誌を読んでも、愛のテーマ・話題で溢れている。例:映画「タイタニック」歴史物語なのに・・・
    2. しかし、同時に、愛ほど理解されずに、誤解されているものはない。
    3. だから、昨今、投資詐欺と並んで、益々ロマンス詐欺が増加している。
  2. それでも、人は、愛を必要としている。
    1. ポール・マッカートニーの歌に、A World without Loveは歌う”I won’t stay in a world without love.”と。
    2. 人は、愛なしには生きられない。NYで二人の女性が死んだ:
      • 一人は、アパートで一人暮らししていた老女。孤独死であった。日記が残されていた。そこには365日判で押したように「今日も誰も来てくれなかった」と書かれ、愛なき孤独を訴えていた。
      • もう一人は、自殺した若い女性であった。「私が自らの命を断つのは、20有余年の人生、一度も人を真に愛し、真に人から愛されると言う経験をすることがなかったからである」と愛なき生涯への失望を遺書に残した。
  1. 今日の「羊とヤギ」を使ったたとえ話もその一つである。
    1. この譬えの中心テーマは、明らかに「愛の実践」である。
      それらは:
      • 空腹であったとき、食べ物を与え、
      • 渇いていたときに、飲ませ、
      • 旅人であったときに、宿を貸し、
      • 裸のとき、着る物を与え、
      • 病気をしたとき、見舞い、
      • 牢にいたとき、訪ねてくれたことであった。
    2. しかも、それが問われているのは、人生の最終評価の場「最後の審判」を思わせる場面である。このことから言えることは:
    3. 神様の最終的・究極的関心は、私たちが、キリスト教と言う宗教に入る以上のこと、「愛に生きる人」になることである。
    4. ましてや、この世の成功ではない。(但し、この世の成功は、愛の実践のための資源として役に立つという意味があるが・・・)。
  2. ヨハネも、イエス様の教えとして愛の重要性を強調した。
    1. ヨハネ13:34-35
      (1)新しい戒め (2)キリストの弟子の徴
    2. Iヨハネ2:7-8
      (1)古い命令/新しい命令 (2)イエスに於いて真理
    3. Iヨハネ3:11,23
      (1)初めから聞いている使信  (2)神の命令
  3. 更に、パウロも、また、愛の重要性を強調した。
    1. ローマ13:8-10
    2. Iコリント13全体、特に1-4、13
  1. 第一に、それは必ずしも、他人の為に何か特別大それたことをすることではない。
    1. 空腹な人に食物を与え、渇いている者に水を与え、旅人に宿を提供し、病める人を見舞うことは、比較的、日常的範囲に近い行為である。
    2. 2.第一コリント13章3節の言葉を思い出したい。「・・・・」。即ち、パウロは言う。愛は必ずしも、全身を焼かれるために渡すとか、全財産を捧げると言うような大それたこととは別のことである、と。
  2. 第二に、愛は、周囲の人々の「必要・状況」に敏感である。 
    1. 「白いギター」の歌詞:愛する者は、愛している人の小さな変化(「白いギターに最近替えた」)に敏感
    2. 私たちも、愛をもって、遠く近くの「隣人」の状況と必要にもっと敏感でありたい。
  3. 第三に、愛は謙遜である。 
    1. イエス様が、愛を実践した人々を称賛した時、彼らは、「いつ私たちがそんなことをしたのですか?」と問い返した。なぜなら:
    2. 彼らには、褒められるようなことをした自覚がなかったからである。
    3. 彼らは、正に「右の手のしたことを左の手に知らせない」ほどに謙遜な人々であった。
  1. 第一に、それは必ずしも、他人の為に何か特別大それたことをすることではない。
    1. 私たちは、皆自己中心な罪人であって、人を愛する力は無い。
    2. 私たちの愛や善行は、しばしばプライドや偽善をさえ含んでおり、動機が不純で、条件付きである。Becauseの愛
    3. そもそも、この譬え話は「人間が、愛と言う善行を行ったら救われる」と教えているのではない。
    4. もし人間の力でできるなら、イエス様の十字架と復活は要らない。
    5. 私たちの救いは、人間の愛と善行の実践によっては来ない。ただ主の恵みと信仰によってのみ来る。エペソ2:8-9 
  2. 第二に、愛は神から与えられた聖霊によって私たちに注がれる。
    1. 信仰をもって救われたクリスチャンたちには聖霊が心に住まわれる。
    2. この聖霊こそが私たちに人を愛する力を下さる。ローマ5:5
  3. 第三に、愛は愛すべきすべての人々の中にキリストを見ることによって与えられる。
    1. マザー・テレサのミニストリーは今日の聖書箇所マタイ25:31-46をベースにしていると言われているそうである。
    2. マザー・テレサは言う。「私たちは隣人において彼(キリスト)に仕えます。貧しい人の内に彼(キリスト)を見ます。病人に於いて彼(キリスト)を看護します。私たちは悩んでいる兄弟姉妹たちに於いて、彼(キリスト)を慰めます」。
    3. ローマ14:15でこのようにパウロは言っている。「キリストが変わりに死んでくださったほどの人をあなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」と。
    4. パウロはこのように、触れ合うすべての人を、その人のためにキリストが死なれたほど尊い人として見ていた。
    5. また、職場でも、主に仕えるように上司に仕えることを勧めている。エペソ6:7

結   論

  • 有名なアッシジのフランシスコの逸話をもってメッセージを閉じたい。
  • 彼は上流階級の財産家に生まれ、贅沢三昧の生活をしていたが、心の虚しさを消すことができず、悩み、神に救いを求めていた。
    そんなある日、彼が馬に乗っていると、突然、見るからに醜いぞっとするような容姿のハンセン病患者に出会った。その時、フランシスコは不思議な感動を受け、思わず馬から降り、その男を抱きしめた。するとフランシスコの腕の中でそのハンセン氏病の顔はキリストの顔に変わっていたと言われる。
  • 互いの中にキリストを見ながら、愛し合う教会として成長して行きたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。