十字架の向こうに期待される歩み(2):忠実
- マタイ25:14-30 -

2024年3月3日 SRC

聖書

マタイ25:14-30

14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
17 同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。
20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。』
26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられるのです。
30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

序  論

  • 2024年も、早3月になった。外の気候も、Nasty、Harshと言いたいほど激しく、厳しい寒暖の変化を繰り返しながらも、徐々に、春に向かっている。
  • 教会の暦も今は「レント」。これはイースター前の日曜日を除いた40日のことで、「キリストの苦難と復活の希望を霊的に味わう期間である。
  • その最後の週が「受難週」である。イエス様は、日曜日、エルサレムの町にロバに乗って入られ、木曜日の夜には「最後の晩餐」と捕縛・拷問。金曜日は「十字架刑」、そして、日曜日に復活される。
  • 今日の聖書箇所マタイ25章は、そのようなイエス様の生涯の最期、受難週の火曜日にイエス様が語られた「遺言」とも言える3つの譬え話を記している。
  • それらの譬え話の目的は、
    1. イエス様の十字架と復活による救いに与ったクリスチャンたちが、
    2. 「神の国」の到来を目指して終わりに向かう歴史の流れの中で、
    3. 救いの喜びと感謝をもって、どのように歩むべきかを教えることである。
  • 今日の聖書箇所は、その二つ目の譬え話(14-30節)で、しばしば「タラントの譬え」と呼ばれるが、テーマは「忠実」である。

本   論

ここで「タラント」と呼ばれている語は、今日、「タレント」「賜物」として用いられている語とほぼ同じである。さて、この譬え話が教えていることは:

  1. 第一コリント4章7節でパウロは言う:「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものではないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」
    1. この聖句が言っている事:①私たちは皆良きものを持っている。②そして、それは、元をただせば神様から私たちに託されたものである。
    2. ここに登場する3人の僕も皆豊かな賜物(タレント)を頂いていた。即ち、彼らは、主人から旅に出る前に5タラント、2タラント、1タラントという「大金」を事業運営のために託されたのである。
    3. 1タラントとは6千デナリであり、約20年分の一般労働者の賃金だとすると、今日の約1億円に相当すると言う。
    4. 即ち、1タラントの僕さえ、現代の金銭価値にすると1億円を託されたことになる。
    5. ある母親(病院で):障害を持つ男の子が開かせた、年老いて気難しい患者の心;涙して抱き合っていた。
    6. すべての良きものは神様からの賜物であることを覚えて、
      (1)感謝する (2)遜る (3)それを用いる ヤコブ1:17
  2. しかし、同時に、地上的に言うと、賜物は人々に不公平(Unfair)に分与されているように見える。
    1. 現に、これら3人の僕に託されたタラントも、5億、2億、1億と違っていた。1、2タラントの僕は不公平と思わなかっただろうか?
    2. 世界全体を見回しても、周りの身近な世界を見ても、人生は公平・公正にはあまりに程遠い。(宣子との会話)
    3. 様々な格差がある。単なる努力では乗り越えられない生まれながらの能力格差があり、社会的・経済的格差があり、希望格差がある。
    4. 公正・公平であるべき神様はどこに行ってしまったのだろうか? これが、後半のポイントである。
      (譬えの説明:事業家の主人=神様)
  1. それは、神様・主人が5、2タラントの両僕の報告を評価・清算した時に分かった。
    1. 19-23節をもう一度見たい。「・・・・」
    2. ここで、明らかなことが2つある。
    3. 一つは、二人の事業における収益:5億と2億、倍以上違っていた。
    4. もう一つは、にも拘らず、主人の賛辞と褒賞が、まったく同じだった。 
  2. それでは、それについての神様の評価と褒賞は?
    1. 神様の評価は、何億儲けたと言う絶対的数値からではなかった。寧ろ相対的数値からであった。
    2. 即ち私たちが何をしたかではなく、与えられた条件と能力の中で、どのように対応し努力したかを相対的に見られるのである。
    3. その意味で、5と2タラントのしもべは、どちらも与えられたものに100パーセント応えたのである。それで同じ評価と褒賞だった。
    4. これが、主人の求めていた「忠実」である。
    5. しかし、1タラントのしもべは違っていた。彼は0パーセントの応答をした。この「不忠実」が主人の怒りを買ったのである。
  1. そもそも、神様がタラントを分けるとき、なぜ5・3・1でなく、5・2・1としたのか? 
    1. 即ち、最高・平均的・最低のように。通信簿の成績。
    2. もし通常グループができるとするなら、5と4、3、2と1となる。
    3. 言い方を換えるなら、2の人は普通、1とツルム、せいぜい3止まり。夢、4や5とはつるまない。1・2:ゲーセン、4・5:塾
    4. それが5と同じことをしたとイエス様は言われる。17節「・・・・」
  2. 何が2タラントのしもべをそのようにさせたのか?聖書的「忠実」とは何か? 
    1. W.バークレイは、この譬え話の主人公は、1タラントの僕だと言うが、私は、2タラントの僕だと思う。
    2. なぜなら、この譬えの中心テーマである「忠実」が、最も如実に描かれているのがこの人物だからである。
    3. 5タラントの僕の場合、その賜物と待遇・境遇の豊かさのゆえに利得観念からも忠実そうに振舞ったかもしれない。参考:ヨブ1:8-11
    4. 2タラントの僕は、状況的に5とは正反対であった。むしろ、1と一緒になって、「なんだ、これだけか」と、僻み、怒り、恨み、不貞腐れ、やる気をなくし、引きこもってもおかしくなかった。
    5. にもかかわらず、彼は、純粋に「忠実」の道を歩んだのである。何が2タラントの僕を「忠実」の道に歩ませたのか?
    6. それは、主人・神様に対する愛の「信頼」と言うことができる。
    7. 元々、「忠実」のGk原語pistos, pistisは、忠実、誠実、真実の他に、信仰、信頼と言う意味である。
    8. 即ち、2タラントの僕と主人の関係は、金銭を媒体とするドライで、時に冷たくさえもあるビジネス的なものではなかった。
    9. むしろ、信頼と愛とに動機付けられ、励まされた主人への「忠実」さであった。
    10. これは、1タラントの僕の言葉と態度と正反対である。「・・・」(マタイ25:24―25)。
    11. 私たちと神様との関係はどうであろうか? 2タラントの僕のようか、1タラントの僕のようか?    

結   論

  • 私たちと主なる神さまとの関係は、どのようにしてスタートし、育まれてきただろうか?
  • それはローマ書8章35-39節に明らかである。
  • 神様は常に私たちに対してその愛に於いて忠実であって下さった。
  • そのお方に対して、私たちもまた、いかなる条件・状況にかかわらず、常に変わらず忠実でありたい。
  • 個人の信仰生活に於いて、教会に対する奉仕の生活に於いて、社会に仕えることに於いて、忠実に歩みたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。