キリストは、なぜ十字架に
- イザヤ書 53章5~6節 -

2024年3月24日 SRC

聖書

イザヤ書 53章5~6節

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

序  論

  • 田中あかね先生、素晴らしい音楽の贈り物をありがとうございました。捧げられたピアノもさぞ喜んでいる事と思います。
  • 田中先生には、特に、今回「チャリティー・コンサート」という形で、「能登半島大地震復興支援」にご協力頂き心から感謝します。
  • さて、今日はキリスト教の暦では、「受難週」が始まる。来週の日曜日にはキリスト教最大の祭典である「イースター、キリストの復活」を祝う日を迎える。
  • それにしても、キリストは、なぜ十字架にかかられたのか?
  • 今日は、そのことをご一緒に考えたい。

本   論

  1. だから、キリスト教のシンボルとして、「十字架」が多く用いられている。
    1. 教会の尖塔、屋根の上に
    2. 礼拝堂、特に、聖壇の正面に
    3. 海外のスポーツ選手がプレーをしたとき、ORする前に
    4. クリスチャンたちの首や胸のアクセサリーに
  2. パウロが、十字架の重要性を聖書で強調している。
    1. 第一コリント2:2
    2. ガラテヤ6:14
  1. そもそも十字架は、ネガティブ、マイナス、否定的なイメージを持つ言葉である。
    1. 所詮、十字架は極刑のための処刑法(ローマ市民を除く)。現代で言うなら、絞首刑の縄や電気椅子や注射器を首からぶら下げるようなもの。
    2. 信仰をもって間もない頃、駅前でチラシを配っていた時、ある新興宗教の方からこんなことを言われた。
    3. 「あんたたちの信仰の開祖って、最後は十字架につけられて死んだそうじゃない。そんな人に他人を救えるの?!」と嘲笑された。
    4. 聖書も言う。「多くの信じない人々には、『十字架の言葉』『十字架が人を救う』などは、『愚かな、たわ言』にしか聞こえない」と。
    5. しかし、聖書は言う。真の幸せは十字架から始まると。
  2.  ここで、今日の中心的聖書箇所であるイザヤ53:5-6をご一緒に読みたい。
    1. これは、イエス・キリストが、私たちを救うために十字架にかかられることを、実際に起こる700年も前に、神が預言した言葉である。
    2. そこに出てくる「彼」はイエス・キリストのことである。
  3. ここに、繰り返されて出て来る言葉のグループが3つある。
    1. 第一は、私たちのそむきの罪、私たちの咎、私たちは皆羊のようにさ迷い、各々自分勝手な道に向かって行った (私たちの罪に関して)
    2. 第二は、彼は刺し通され、彼は砕かれた、彼への懲らしめ、彼の打ち傷、彼に(咎を)負わせた (キリストの十字架に関して)
    3. 第三は、(彼の懲らしめが)私たちに平安をもたらし、(彼の打ち傷によって)私たちは癒された (救いの結果に関して)
    4. これら三つから、イエス・キリストの十字架と救いが見えてくる。
    5. 即ち、私たちの罪のために、私たちの身代わりに、イエス・キリストが、十字架に掛かり、私たちを罪の罰から解放し、私たちに平安を与えてくださった。
  1. しかし、聖書が「罪」というとき、それは「犯罪」を意味しない。 
    1. 犯罪は英語でCrime法律を犯すこと。聖書の言う罪は英語でSin。関連はあるが違う。全ての人がCriminalではないが、全ての人はSinner。
    2. 聖書の罪Sinは、NTではGk原語でハマルティア「的外れ」を意味する。即ち聖書の言う罪とは人間が神と共にあるべき姿から脱線していること
    3. 人間は、悪いことをするから罪びとなのではない。罪びと、即ち、神から逸脱しているから悪いことをするのである。
  2. この同じ罪の姿が、ここイザヤ53章で、違う比喩を使って表されている。即ち:
    1. 牧者である神と共に歩む人生こそ、羊である人間のあるべき姿であり、
    2. 神の元から迷い出る羊の姿こそが罪の本質であると聖書は言う。
  3. 「迷っている羊」の最大の特色は、
    1. 痩せていることでも、病気であることでもない。導いてくれる牧者を失い、どこに行ったら良いか分からないでさ迷っていることである。
    2. 元気で、健康でも羊は迷う。しかし、それは羊には致命的なのである。
    3. なぜなら羊は導く者なしにどこに行ってよいか分からないからである。
  4. この「迷っている羊」の姿こそが、人間の罪、神からの離脱の本質である。 
    1. 大金持ちであっても、最高の教育を受けても、地位や名誉があっても、楽しみがあっても、人生の成功者であっても、人々は迷っている。
    2. それらの恵まれた賜物を何のために用いたら良いか分からず、何のために生まれ、何のために生きるべきかが分からず迷っている。
    3. 藤村操(今で言う東大生)華厳の滝に投身自殺:「膨大、悠々たる宇宙と歴史の中でこんな小さな存在である私に如何なる哲学をしても、萬有の真相は一言にしてつくいわく不可解なり」(辞世の句)
    4. 先日、世界最大の映画の祭典「アカデミー賞」の受賞作品が決まった。長編アニメの部門で宮崎駿の「君たちはどう生きるか」が選ばれた。本作品の魅力はどこに? 勿論、宮崎作品らしいファンタジーとしての手法は当然。しかし、少なくとも日本では、心に問いかけるそのタイトル「君たちはどう生きるか」(宮崎自身が愛した吉野源三郎による同名の永遠の名著)にあったことは否めない。このことこそ、人々が、もやもやとした心のどこかで必死に求めているものである。
    5. 文学者五木寛之もその著書の中で言う。「人生の目的はあるのか? 私は・・・人生に万人に共通した目的などないと思う。・・・しかし、そういってしまっては寂し過ぎる。目的なき人生は不安であるし、頼りなくふらふらした感じがする。やっぱり人生に目的を持ちたいと思うのが自然の人間の心の働きだろう。それは生まれた川へ帰ってくる鮭や、渡り鳥などと同じような生物の一種の本能なのかもしれない」
    6. しかし、無神論哲学者バートランド・ラッセルは言う:「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことは何の意味もない」。
    7. 牧者なる神、創造者なる神の存在がなければ、人生に目的を求めることは、理論的にナンセンスだと彼は言うのである。
    8. 罪とは、6節にあるように、この神から意図的に、自らの我がままゆえに背き離れて行くこと、自分の心の中から神を追い出すことである。
    9. すなわち聖書は言う。「・・・・」 

結   論

  • 創造者・牧者なる神から離れ、人生が何のためにあり、何が善で、何が悪であるか、どのように歩むべきか分からなくなった時、人は簡単に所謂「人の道」を外れ、道徳的、法律的な意味でも罪びとなっていく。
  • それは丁度、彷徨える羊が、いとも簡単にオオカミの餌食になるのと同じ。牧者無き羊は、巨大な悪の力に勝つことは到底できない。
  • しかし、感謝すべきかな!父なる神は、御子イエス様を遣わして、私たちの犯した全ての罪を、SINから始まって、道徳的罪も、CRIMEも、すべての罪をあの十字架の上で背負わせ、私たちを罪の呪いから解放され、平安を与えられたのである。
  • これが、イエス・キリストが十字架に掛かられた理由である。
  • イザヤ53:5-6

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。