十字架の向こうに期待される歩み(1):準備
- マタイ25:1-13 -
2024年2月25日 SRC
聖書
マタイ25:1-13
1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4 賢い娘たちは、ともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
序 論
- 大谷翔平と共にメジャーリーグ、ドジャーズに移籍した山本由伸選手が1-2週間前、初めて本格的に投球練習をしたとき、バッターボックスに立った打者たちが、口々にいったことは、「何というナスティーなボールか!」であった。
- Nastyとは、意地悪で、えげつない、の意味であるが、そう言いたいほど酷い、凄いスピードと角度と幅で変化する山本の投球についての言葉である。
- しかし、この言葉は、正に、日本の今年の冬の気候を表している。とにかく「ナスティー」なのである。寒かったり、暑かったり、極寒の冬のようであったり、汗を掻く夏のようであったりが繰り返す。
- 正に、意地悪、むごい、ひどいと言いたい気候、気温が七変化、乱高下する、体の弱い人にとってナスティーとしか言いようがない。
- くれぐれも、健康のため気を付け、お互いのために祈り合いましょう。
- さて、ご存じのように、今は、キリスト教の暦では、レントと呼ばれる時節である。これは、復活祭まで、日曜日を除いた40日間、目の前に差し迫った「主の十字架の苦難と復活の希望」を沈思・瞑想し、私たちの心を整える期間である。
- 特に、「受難週」と呼ばれる最後の一週間、イエス様は何を語られ、どのように過ごされたのか?
- その中で、聖書中、大きなスペースを割いてイエス様が、弟子たちに伝えようとなさったことは「終末論」であった。即ち「世の終わり」について、この世界の終わりについてである。
- それは、言うまでもなく、同時に、私たち「個人の生涯」に通じるメッセージである。
- それら「終わり」についてのメッセージの共通点は:私たちは皆例外なく、世界の、人生の「終わり」の向こう側でイエス様の前に立つこと。それ故、各々その「準備」をする必要があることである。
- どんな準備か? 私たちはどのように準備すれば良いのか? それを教えるために、イエス様は十字架に掛かられる3日前、受難週火曜日、マタイ25章で、3つの譬え話をされた。
- 今日から、3回の日曜礼拝で、その一つづつを学びたい。今日は、その第一回、1-13節の「花嫁の友人たち」の譬えから学ぶ。
本 論
Ⅰ.この「たとえ話し」について全般的なこと:
- これは当時のイスラエルの結婚式を背景にした譬え話である。そこで、まず当時のイスラエルの「結婚式」について簡単に触れたい:
- 当時、婚約した二人は、通常約1年ほど経て結婚に至る。
- 結婚式と定めた日、花婿は、友人を伴って自分の家を出て、花嫁の家に、花嫁とその友人たち(ここでは10人)を迎えに出て行く。
- 問題は、この譬え話のように、花婿の到着が遅れることが普通であったことである。それも、数時間どころか、夜遅くになることは当たり前、しばしば数日後と言うのもあったと言う。
- いつになるか分からない花婿の出現で、当然のことながら、予備の油が必要となる。
- とにかく、その後花婿は、花嫁とその友人たちを連れて花婿の家に戻り、そこで式を挙げる。
- そこから、数日から一週間も続く盛大な結婚披露宴が始まる。(この譬えでは、5人の予備の油を持たなかった乙女たちが入れなかったのは、この婚宴であった)
- 次に、譬え話を通してイエス様が教えようとされたことを理解するために、何が何に譬えられているかを簡単に整理したい。
- 聖書の「譬え話」の原則:アレゴリーとの相違、1-2点の類似 例:非人情的裁判官
- 花婿:イエス・キリスト
- 花嫁(出て来ないが):教会 エペソ5章25節 黙示録19章 (Ⅱコリント11:2)
- (婚約であれ)結婚であれ、私たちがキリストに嫁ぐとは何と言う「玉の輿」か!?
- この譬えでは、クリスチャンとしての花嫁は直接には出て来ないが・・・
- どの位のクリスチャンが、どの位このことの意味と意義を、全人格的に人生と生活の中で体験し、理解していることか!?
- それでは肝心の「10人の花嫁の友人たち」は誰なのか? 私たちクリスチャン! なぜ?
- 灯り、灯火、光を持っていた:イエス様(ヨハネ8:12)、御言葉(詩篇119:105)
- 油を持っていた:聖霊 Enable God
- 花婿が迎えに来るのを待っている
Ⅱ.さて、それでは、イエス様がこの譬え話を通して教えようとされた中心点に入りたい。
- 人生には、「愚かな人生」と「賢い人生」がある。
- 皮肉なことは、イエス様は、人を「ばか者」「愚か者」と呼んではならない、と教えられた。
- しかし、イエス様は、有名な「山上の垂訓」の結論部、マタイ7章24-27節でも、同様に賢い人生と愚かな人生について語っておられる。重要だからである。
- 当然のことながら、ここで「賢い・愚か」は知性の問題ではなく、人生の知恵の問題である。
- 旧約聖書の詩篇、箴言、伝道の書、更には新約のヤコブ書はこのことに関する教えで満ちている。例:ヤコブ3章13節 (ハーバードビジネススクールの研究にも合致)
- 賢い・愚かは、頭の問題ではなく、心の問題である。
- それでは、愚かさと賢さの分岐点、分かれ道は何か? 5人づつの2グループを比較する。
- 愚かな人生は「今」の現実しか見ないが、賢い人生は永遠を見すえる。
- 愚かな5人は、今現在、光がともっていることで満足し、安心していた。将来については、自分の予想と経験にのみ頼った。
- しかし聖書も、現実も違うことを言う。ヤコブ4章13節14節
- 将来を見すえ準備するとは、銀行預金、投資、保険、健康管理を実行することではない。
- それらも少しは役に立つが限界がある。10年-20年、到底永遠の備えにはならない。しかし、賢い人生は永遠の為に備える。
- 心の内に光なるイエスさまとみ言葉を持ち、聖霊の油をもってその光を燃やし続けることこそ、永遠に対する最大の備えである。
- 賢い人は、人生には、他人に借りることができないもの(自己責任)があることを知っている。
- 愚かな乙女たちが「花婿が来たぞ」との声に目覚めた時は、既に灯火の油が切れる寸前であった。しかし、予備の油の準備がなかったので、そばの友人に借りようとした。
- しかし、ここで思いがけないことが起こった。誰でもクリスチャンなら貸してくれるだろうと思う。自己犠牲の教えはどこに(ローマ9:3)? これが前述の聖書のたとえ話の特質である。この譬え話は「自己犠牲」を教えるためのものではなかったからである。
- 人生には人に代ってもらえないものがある。大切なものほどそうである。呼吸、トイレ、もっと大切なこととして、愛、神様との霊的個人関係がその最たるものである。
- 賢い人は、「待つ」ことの大切さを知っている。
- 聖書:ハバクク2:3、詩篇1:3「時が来ると」、ルカ8:15「よく耐えて」、Ⅱペテロ3:8-9
- プレイズ・ソング:In His time
- なぜ「待つ」ことが大切なのか?
- それは「待つ」ことが、その人の愛と信頼の純粋性を高め、強めるからである。
- また、愛と信頼は「待つ」ことによって試されてこそ成長するのである。
- サムエルの祈りを待てなかったサウル王の致命的失敗:Ⅰサムエル13:5-15
- 「待つ」ことの重要性を知っているからこそ、賢い乙女たちはその備えとして予備の油を携えていた。
- 賢い人生とは「弱さ」がないことを意味しない。
- 5節を見ると「花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。」とある。
- 賢い人も愚かな人も、皆眠り始めた。即ち、賢い人が、たとえイエス様を内にもち、み言葉を憶え、聖霊に満たされていても、人間として「弱い」のである。
- この「弱さ」に関してイエス様は、責められなかった。むしろ、
- ハレルヤ感謝すべきかな! この弱い時こそクリスチャンは強くなれると聖書は言う。だから、弱さや失敗にめげずに前進したい。
- 愚かな人生は「今」の現実しか見ないが、賢い人生は永遠を見すえる。
結 論
- イエス様は言われた「私が来たのは羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10:10
- 暗闇にさ迷っていた私たちは、イエス様の十字架と復活によって、人生に光を見出し、あまつさえその光を燃やし続けるため聖霊の油を頂く身とされた。
- 救われたことで満足してはならない。それを継続し、大きくし、拡大しながら、花婿なる主のお出でを待つものとなりたい。
- 即ち、ただに命を持つだけでなく、それを豊かに持つ者となりたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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