私だ。恐れることはない(1)
- マタイ14章22-23節 -

2024年2月4日 SRC

聖書

マタイ14章22-23節

22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
23 群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われた。
28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。
31 そこでイエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った

序  論

  • 日本では、昔から怖いものの代表として、「地震、雷、家事、おやじ」という言い方がある。
  • 今年は、その筆頭である地震が元旦に起こった。しかも、震度7を超える大地震。
  • 亡くなった方も260人を越える痛ましい大悲劇であった。(ご遺族の為に、復旧のために黙祷)
  • 私たちの人生は、「恐れ」に囲まれている。それ故、聖書は、私たちに「恐れるな」との励ましの言葉で満ちている。
  • 先週も、「それ故、我らは恐れない」と題して、詩篇46篇から学んだ。
  • 今日は、先ほどお読みしたマタイ14:22―33までを通して「恐れなき生涯」について学びたい。今週は、その前半である27節まで。

本   論

  1. イエス様は、この事実を山上の垂訓の結論の部分(マタイ7:24-27)で語られた。
    1. マタイ7:24-27
      24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
      25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
      26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
      27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
    2. ここでイエス様は、砂の上と岩の上と、ニ種類の土台に建てた家について述べられたが、そのどちらの人生にも「嵐」が来ると言われた。
  2. しかも、それは、しばしば、大きな「祝福」の直後にやって来る。
    1. その典型的な例は、イエス様の場合、受洗と言う祝福の直後にやってきた。悪魔による誘惑と試練である。マタイ3:16-4:1
    2. 他の例:聖会で恵まれて帰宅すると、自宅が火事で焼け落ちていた。
    3. 今日の弟子たちが経験した『嵐』という試練も同様である。大きな祝福の直後に起こった。即ち、
    4. 同章の13-21節に記されている所謂「五つのパンと2匹の魚による大奇跡」の祝福である。
  3. なぜ、神様は「祝福された直後の試練」を許されるのか? それは、受けた祝福を、お祭り騒ぎで終わらせず、内的に沈潜させ、より堅固・確実なものにするため。
    1. それが、ここで、イエス様が22節にあるように「強いて」弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に渡らせ、群衆から引き離した理由であった。
    2. 恐らく、弟子たちも群衆も、目の前に起こったパンの奇跡、パンを、食べ物を、物を、お金を下さる「救い主」「王」の到来に興奮していた。
    3. そのような皮相的・表面的な祝福は、人々を真の祝福、真理の道から引き離し、誤りへと導く。
    4. それが、ヨハネ6:14-15に記されていることである。
    5. 神様は、それを防ぐために「試練」と言う経験を通して、外的・刹那的祝福を内的・永続的祝福へと変えて下さるのである。
  1. 一般に人が思うことは:試練に遭うのは、自分が、罪深い、祝福されてない、神様に愛されていないから。
    1. これが、試練の真っただ中で、ヨブが友人たちに責められ、苦しめられたことであった。
    2. しかし、聖書はこの正反対の事を宣言する。即ち「正しい者は苦しみが多い」「神は愛する者を、試練を通して訓練される」等
    3. 現に、今回の嵐の場合でも、弟子たちは、イエス様の命令に従って舟をこぎ出したのである。即ち、主のみ旨に従って歩んでいた時にこの試練に出会ったのである。
  2. もう一つ多くの人たちが思うことは:私たちが試練に遭うのは、神様が無能・無力だからである。
    1. これが誤りであることは、この嵐の結末からも明らかである。
      33節、マタイ8:27
    2. イエス様は、ここでも風や波、全地を支配する全能の神としてご自身を顕された。マタイ14:32、33。Nothing is impossible with God! である。イエス様は無能・無力ではない。
    3. しかし、神様が一時的に全能力を発揮なさらないように見える時がある。そして、それは私たちの思いや計画とは異なる。
    4. しかし、神は言われる:それは人知を超えた神のみ旨によると。
      イザヤ55:8、9
    5. 全能の神による助けは必ず来る。聖書は言う:「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る」ハバクク2:3 
  1. 即ち、恐れなき生涯のために私たちに究極的に必要なのは「キリストご自身」である。
    1. ウッドロウ・ウィルソン(プリンストン大学学長、米国大統領):キリスト教はキリストご自身。
    2. 即ち、キリスト教の中心は、その教えでも、教義でも、組織でも、儀式でも、実践でも、ご利益でもない。キリストご自身である、と言う。
  2. ここでイエスは、日本語で「私だ。恐れることはない」と言われた。
    1. 「私には・・・ができる・する」というのと、「私だ」と言うのと何が違うのか?
      1. 前者はパフォーマンスを問うている:このような質問と答えは、しばしば十分な確信を得られないまま空しく繰り返される。現に弟子たちは、既に似た経験をしていた(マタイ8:27)。
      2. 後者は人格を問うている:即ち、イエス様はここで、弟子たちに「何を上げよう」「何をしよう」と言われたのではなく、「私だ」と、自らのすべてを曝け出して宣言されたのである。
    2. 即ち、「私だ」はイエス様の全存在、全人格を意味した。
      1. 「私は何をする」と約束し、その能力は十分に持ちながら、それをしない人がどんなに多いことか!? しかし、イエス様は違う。
      2. 確かに、イエス様は全知全能である。私たちを守り救うのに、最高のお方である。私たちがあの弟子たちのように嵐の中でもみくちゃにされているとき、イエス様はそれを全てご存じで、いつ助けに行けば良いかベストタイミングをご存じのお方である。
      3. しかし、私たちのイエス様に対する信仰の中心はそのご人格である。そのご人格の中心は「真実」である。主はご自分を偽ることができないお方である。
      4. ハドソン・テーラーⅣ世:霊的遺産は「真実」

結   論

  • 若き妻を突然の心臓発作で亡くされたクリスチャン教授を慰め励ましたこと:神の人格への信頼の例話

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。