キリストの復活が与える希望
- 第一コリント15章1-10,50-58節 -

2017年4月16日 WIJC

聖書
第一コリント15章1-10,50-58節

序  論

  • 今日は、主のご復活を記念するイースター。改めて、「イースターおめでとうございます」。
  • 先週金曜日、イエス様の十字架の死を記念するGood Fridayの日、それは、また図らずも熊本地震から丁度一年目の記念日でもあった。東日本大震災も今年3月11日で6年目を迎えた。
  • 東日本大震災直後、頻りに言われたことの一つは、復興への「希望」であった。その「希望」を持てるか持てないかで復興できるか、できないかが決まると言われた。
  • 第二次世界大戦の時のナチによるユダヤ人大迫害の時も同じことが言われた。ユダヤ人の心理学者ヴィクトル・フランクは、自らも強制収容所に入れられた経験の中から著わした「夜と霧」の中で、このように言う。過酷な環境の中で生き残れた否かは、その人々の体力や健康の問題ではなく、その人々が生きる希望を最後まで失わなかったか否かであったと。
  • 社会学者山田昌弘氏は、現代を「希望格差社会」と呼ぶ。それは、これまでのような単なる「経済的・物質的格差」とは異なる。そのような格差なら、いつの時代も、どこにでもあった。そして沢山の人々がそれらの格差を、個人が戦い、努力することによって乗り越えて来た。みんな努力すれば、頑張れば格差を乗り越えられると希望をもって前進したからである。
  • しかし、現代の格差は、頑張れば「希望を持てる」グループと、どんなに頑張っても所詮「希望が持てない」グループに社会を二分化する格差である。そして、
  • この希望をもてるグループは、社会のごくほんの一部のエリート・グループであるという。
  • 言い換えるなら、現代は、社会全体が、希望を失っている時代と言える。
  • しかし、感謝したいことは、私たちの信ずる神は、希望の神、God of Hope(Romans 15:13)と呼ばれる、私たちに「希望」を与えてくださる神である。
  • ごく一部のエリートにだけ与えられる希望ではなく、すべての人に与えられる希望である。
  • そして、それこそがキリスト教の中心であるイエス様のご復活が私たちに与える希望である。
  • 私たちは、今日、聖書の中で、「復活の章」と呼ばれる、第一コリント15章から「復活が与える三つの希望」について学びたい。

本   論

  1. 聖書は言う:
    1. 15章17節「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお自分の罪の中にいるのです」
    2. 15章3節は言う。キリストは「私たちの罪のために死なれた」と。
    3. イエス様の復活は、十字架で私たちの罪の刑罰を身代わりに受け、苦しみ死なれたイエス様の救いの御業が、父なる神様に受け入れられ完成したこと、即ち、今イエス様のところに来れば誰でも罪の赦しを頂けることの宣言であった。
  2. 罪の赦しの必要性:
    1. 現代は、Positive Thinking と言って、プラス思考を謳歌する時代である。私もそれが決して嫌いではない。むしろ、好きであり、良いことだと思う。
    2. しかし、そのような風潮の中で、ともすると、今更どうしようもない過去に犯した罪のことにこだわるなどネガティブな生き方をやめて、もっと前向きに、ポジティヴなことを考えようというようになり易い。
    3. しかし、過去を忘れて今はない。過去をごまかして輝ける未来もない。
      1. 過去をごまかしていたり、いい加減にしたままで、現在の確かな歩みも、前に進むことはできない。
      2. ある精神病理学者が言った。「精神的な病で入院している半分以上の人々は、もし、自分の過去の罪の良心の呵責から解放されたら、退院することができるだろう」と。
      3. 残念ながら、多くの人々は、この人生の消極面である過去の罪の赦しという事実を、蔑ろ、あるいは無視して、積極面の幸せをつかもうとしている。
      4. しかし、それは、「くさいものには蓋をしろ」式のごまかしであって、いつか、それはかならず、下から噴出してくる。
      5. 死刑を待っていた一人の元赤軍派の闘志が、刑の執行を待たずに、ガンで死と直面したとき、今まで「私は無罪だ」と虚偽の証言をしていたことに、「この罪を墓場まで持っていけない「と言って、正直に告白した。
      6. 罪の赦しの確信がないとき、それは、生きているあなたの心の中にいつも暗い陰を落とすだけでなく、死の準備さえさせないのである。
  3. その罪の赦しをイエス様は、私たちのために準備されたのである。
    1. それがイエス様の十字架である。イエス様は私たちを過去の罪から解放する為に来られ、あの十字架でそれを成し遂げられたのである。だからイエス様は言われた:
      1. 「父よ。彼らを赦してください」と。これはイエス様が十字架に掛かられた目的が、人々の罪を父が赦して下さることであったことを如実に語っている。
      2. 更に「すべては終わった」(It is finished)と言われた。
        • それは、「万事休す」を意味していない。「完了」を意味していた。即ち、All are  completedである。イエス様はあの十字架の上で全人類の払うべきすべての罪の代価、死の呪い、正しい審判者なる神様から受けるべき罪の呪いを完全に受けられたのである。
    2. イエス様のご復活の意味は、イエス様の十字架によって私たちの罪の代価の支払いが完璧に完了したことの神様による証明、宣言である。
      • イエス様が、あのまま死んで、そのまま消えてしまったなら、あれはどうなったのかと、いつまでもみんなに不安を残すだけである。
      • しかしキリストの復活によって天の父なる神様は、御子が十字架で受けた人類の為の身代わりの苦しみによって全人類の罪の赦しの準備が完了したことを宣言されたのである。
  4. ここに、即ち、主のご復活に、私たちの罪の赦しの希望がある。
  1. 神様は、そもそも人間を永遠を慕い、永遠に生きるように造られた。
    1. アダムとエバが罪を犯す前まで、彼ら、即ち人間は、永遠の命を持つ、永遠に生きる存在であった。
    2. だから、「伝道の書」で聖書は言う。「神は人の心に永遠への思いを与えられた」(3章11節)と。
    3. 人間が如何に永遠を求めている存在かの例を挙げるなら:
      1. ソ連という無神論の国のある大統領が亡くなったとき、その棺の上に永遠の命、永遠の繁栄と祝福を象徴する月桂樹の花輪が載せられていたという。
      2. 愛する者、愛する家族といつまでも永遠に共にいたいと願うのは人間の自然の情である。
      3. だから昔の物語がいわゆるHappy Endの場面で終わるとき、二人はいつまでも、いつまでも幸せに暮らしましたThey live happily ever after.と締め括られる。
  2. しかし、永遠を求める人間の前に大きく立ちはだかるのが「死」という現実である。
    1. 死を克服した人はいない。
    2. 私たちは、医学・医術の発展・進歩に大いに感謝するべきである。しかし、それは病の克服であり、延命であっても、死の克服と永遠の命とは別のものである。
    3. 死は、克服できない恐怖として、私たちを奴隷にし、人間の敵となった。
      1. 聖書は言う「生涯死の恐怖につながれて奴隷となって」いる(ヘブル2章15節)と。
      2. 死は、常に「これですべてが終わりである」という絶望感を人に与える。
      3. ラ・ロシュフコーという哲人は言う。「人は太陽と死を直視できない」と。
  3. そのような死に対する勝利の希望こそが、「イエス様の復活」である。
    1. 第一コリント15章54-57節は宣言する:「死は勝利にのまれた・・・死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よお前のとげはどこにあるのか。神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました」と。
    2. イエス様は言われた。「私は、よみがえりです。命です。私を信じるものはたとい死んでも生きるのです」(ヨハネ11章25節)と。
    3. イエス様の復活によって、「死は最早人生の終わりではなくなった」のである。
    4. イエス・キリストの復活によって、死の向こう側に、死んでも生きる永遠の命の希望と喜びが約束され、保障されたのである。
    5. 勿論、死はキリストを信じる者にも、暫くの別離の寂しさを与えることは事実である。しかし、クリスチャンにとって、死は最早、絶望的永遠の別離ではない。再会が約束されているのである。
    6. 私たちがこの永遠の命を確信できる理由は、イエス様の十字架である。
      1. 第一コリント15章56節にあるように「死のとげは罪である」。
      2. 即ち、罪があるから死が怖いのであると聖書は言う。
        • 死んだ後、赦されていない罪の裁きが待っていることを知っているからである。
        • クリスチャンが「なぜ」究極的に死を恐れないのか? それは、キリストによる罪の赦しによって「罪のとげ」(罪の牙、罪の毒)が抜かれているからである。
      3. イエス様の十字架の身代わりの死とそれを信じる信仰によって、犯した罪がすべて赦されており、最早その罪と罪の結果である刑罰の責任を問われることがないからである。
      4. ファニー・J・クロスビーの作った私の大好きな天国のことを歌った賛美歌がある。その歌の折り返しの部分を紹介したい。And I shall see Him face to face, and tell the story saved by grace.
      5. 私たちが神の子となり、やがて死んで後にイエス様に天国で会うとき、開口一番出る言葉は、「主よ。感謝します。あなたの恵みによって救われました」と涙を流して、その懐に飛び込んで行く情景が思い浮かぶ。
  1. 第一コリント15章58節をみたい:「・・・・」。
    1. この節の鍵は「自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っている」である。
    2. 第一コリント15章は「復活の章」と言われ、主の復活の重要性が全章のテーマである。
    3. そして、言うまでもなく、この58節はその復活の章の締めくくりの言葉である。
    4. 即ち、聖書は言う。主のご復活の事実のゆえに、「あなたがたは、自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っているのです」と。
    5. 即ち、主のご復活により、私たちは、どんなときでも、どんな状況下にあっても、私たちの人生に無駄はない。すべてに意義があるという希望を持つことができる。
  2. 人生には、今までして来たことが、すべてが無駄にみえるときがある。
    1. 物事がうまく行っているとき、人生がすべてバラ色に見えるとき、私達は自分自身についても、している仕事についても、価値とやりがいを感じる。即ち、生きがい、生きる価値を感じるものである。
    2. しかし、一旦あるいは徐々に自分を囲む物事がスムースに運ばなくなってくると、イライラし、フラストレーションを感じ、自分自身にも、何もかもに意味と価値を見出せなくなることがある。
    3. 自分がしてきたことは何だったのか、していることは何なのか? すべてが無駄に見えてくる。
    4. しかし、そのように人生が無駄にみえる人に向かって聖書は言う:キリストの復活のゆえに、それを信じる者には「自分たちの労苦が、主にあっては(ひとつも)無駄ではない」という希望と確信を持てると。
  3. なぜ、主のご復活の事実が私たちの人生に、意義を与え、自分がしていることは、決して無駄ではない、という希望と確信を与えることができるのか?
    1. イエス様は、かつて弟子たちに言われた。「この世の無くなる食物のためにではなく、永遠の命にいたる食物のために働きなさい」(ヨハネ6章27節)と。
    2. 私たちが、遅かれ早かれ、いつか結局は無くなってしまう、この世のもののために生き、働いているなら、
      1. それは、たとい、今、成功していたとしても、その果ては空しい。(豊臣秀吉:露と落ち、露と消えぬるわが身かな。難波(なにわ=大阪)のことは夢のまた夢)
      2. そのような人生は、目の前の成功・不成功の状況に、一喜一憂し、振り回される人生である。
    3. しかし、私たちが、ご自分の復活によって、永遠の命を与えてくださる神様と共に、更には、この永遠の命に至る食物を人々に与えるために生きるなら、
      1. 言い換えると、主の復活によって可能になった、この世だけでなく、永遠を計算に入れた人生を、永遠の支配者なる主イエス様と共に生きるなら、
      2. あなたの職業が、仕事が何であれ、それが、今順調であれ、逆境であれ、その人生における労に決して無駄はない。
      3. 死の向こう側で、神様がすべてを合い働かせてよくしてくださる事実を経験できるのである。
      4. だから、たとい今、物事がうまく行ってなくても、今やっていることが無駄だとは思わない。失望しない。焦らない。
    4. そもそも、イエス様の地上生涯の最後はどのようであったか? ある意味で、それは人間的には失敗以外の何ものでもなかった。弟子に裏切られ、弟子に逃げられ、民衆には見捨てられ、おまけに惨めにも裸にされ、鞭打たれ、十字架に晒され、殺されるのである。
    5. しかし、それらのすべてがひとつとして無駄にはならないのである。それはやがて死人の中からの復活により、すべてが救いと勝利につながって行くのである。
    6. 一人の宣教師が、ある奥地で懸命に宣教活動をしていた。しかし、宣教の実は皆無であった。そのような中、飛行機で運ばれてくるはずの食糧補給が間に合わず、寝起きしていた小さなボートの中で寂しく亡くなった。彼の遺体のそばからは宣教日誌が発見されたが、驚いたことにはそこに一つの不平や不満、失望や絶望の言葉はなかった。むしろ感謝と希望の言葉だけが記されていた。
    7. なぜか? 復活の主を信じていた彼は、自分が主にあってしてきたことは、たとい今まだ実が結ばれていなかったとしても、ここで自分が命を落とすとしても、決して無駄ではない、必ず実を結ぶことを信仰によって知っていたのである。
    8. 現に、この宣教師が天に帰った数年後に、彼の伝道していた地域に大リバイバルが起こり、その辺り一帯からたくさんの改心者が起こされたのである。
    9. 主のご復活は、私達に、主と共に、主にあって、主のために生きるものには、人生において無駄ということはない。すべてが合い働いて益となる。無駄な人生はないことを宣言しているのである。

結   論

  • イエス・キリストの復活は、私達に3つの「希望」を与える。
  • 即ち、主のご復活は:(1)罪の赦しの希望、(2)死んでも生きる永遠の命の希望、最後に、(3)この世の評価を超えた人生、復活の事実のゆえに、主にあって、人生に失敗も、無駄も、不毛もない。即ち、生きがいある人生の希望と確信である。 

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。