永遠への別れ道
- ルカ23章32-43節 -

2017年4月09日 WIJC

聖書
ルカ23章32-43節

序  論

  • 今日のメッセージは昨年も3月ごろに、同じ箇所から、同じテーマで話したものであるが、神さまに祈りつつ導かれたので、もう一度、取り次がせて頂きたい。
  • 東日本を襲った地震のとき、よくこんな話を聞いた。「今、ほんの少し前まで、隣に一緒に立っていた人が、仲間が、次の瞬間、もうそこにはいなかった」。
  • あの一瞬にしたこと、あの時にしたあのことが、人生を変えた、運命を分けたと言う話である。
  • 確か、米国の第22代大統領、グローバー・クリーブランドに関するエピソードだったと思うが、彼は、若いとき、余り良くない友人とつるんで、遊び廻っていた。しかし、ある日曜日、その日も二人でいかがわしい所に遊びに行こうとしていたのであるが、たまたまある教会の前を通ったとき、その教会の前に、「罪の支払う報酬は死である」と聖書の言葉が書かれてある看板が目に入った。グローバーはそれを見たとき、昔、教会に行っていたことを思い出した。その瞬間、彼は決断し、友人に言った。「僕は教会に行く。君も行かないか?」と。友人は馬鹿にしたように彼をののしった。そして、友人は、そのまま、遊びに行ってしまった。その日以来、彼らは、二つの全く別の道を歩んだ。そして、それから何年もの月日が過ぎた。やがて米国の第22代の大統領就任を知らせる号外が全国くまぐまに、死刑囚を収監する刑務所の中にまで届けられた。一人の死刑囚がその知らせを手にした。読んでいるうちに彼は泣き崩れた。看視が、彼に「なぜ泣くのか?」と尋ねると、彼は、自分は、昔、このクリーブランド大統領の友達であったことを話した。彼こそが、あの時、教会の前で、教会に行くことを拒み、グローバーと袂を分かって、別の道を歩んだ男であった。その結末は死刑囚であった。
  • ある時まで一緒にいて、一緒に行動し、同じ人生を歩んできた二人が、ある瞬間から別の道を歩むようになり、遂には考えられないような二つの全く別の人生の終焉、更には、永遠を迎えることがある。
  • 今日のメッセージの箇所は、イエス様が十字架に掛かられたときに、その両側にそれぞれ、同様に十字架に付けられた二人の人物のことについてである。
  • この二人も、最初同じ道を歩んでいた仲間であった。しかし、あるところからその人生の道は、二つに別れて行った。そして、それは永遠の別れとなったのである。このことを通して今朝は、メッセージを頂きたい。

本   論

  1. 32節は言う。「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスと共に死刑にされるために、引かれて行った」と。
  2. それは、「罪人」の人生であった。
    1. 彼らは、「犯罪者Criminal」と言う意味で罪人Sinnersであった。
      1. 二人とも、法律を犯してきた「犯罪人」(Criminal)であった(32、33)。
        • マタイ27:44、マルコ15:27には、彼らは「強盗」だったとある。
      2. わたしも、教会で「あなたは罪人だ」と言われたとき、勿論、母に対し、父に対し、姉に対し、更には友人に対して罪人、悪い人間であったことは認めたが、それ以上に、「万引き」という法律を犯していた罪人であることも認めざる得なかった。
    2. また、彼らは、二人とも「神様を恐れない」と言う意味で、神の前に「罪人」であった。
      1. ルカ23章40節で一人の犯罪人が途中で気持ちを変えてもう一人に「お前は神をも恐れないのか」と言う。即ちこの時点まで二人は神を恐れない人生を歩んできたのである。
      2. 聖書の言う罪は、単に犯罪ではない。その根本は、「神さまを恐れない人生」である。
      3. ローマ3章でパウロは「罪」が何であるかをリストアップする。その最後18節で言う。「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」と。これが聖書の言う罪の本質である。
      4. 「神様を恐れない人生」とはどんな人生か? 自分が神様によって造られたとか、神さまの故に今も存在している、などと全く考えない。それゆえ、神様に感謝をすることも、神さまのみ旨を求めることも、それに従がうなど全く考えない人生である。従って、勿論、私たちの人生での歩みは、やがて死んだ後、神の前で裁かれることなど全く計算に入れていない人生である。即ち、神さまを全く無視した人生である。
      5. このような意味で、彼らは二人とも同じように罪人Sinnersであった。
    3. 更に、二人ともイエス様を信じない、受け入れようとしないと言う意味で罪人であった。
      1. マタイ27章44節「イエスと一緒に十字架に付けられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった」、マルコ15章32節「イエスと一緒に十字架に付けられた者たちもイエスをののしった」。二人ともイエス様を信じようとしなかったのである。
      2. 即ち、彼らは、二人とも、イエス様を、救い主とも、神とも信ぜず、尊敬することもなく、あざけり、ののしり、馬鹿にしていたのである。
      3. イエス様は言われた。「罪についてと言うのは、彼らが私を信じないからです」(ヨハネ16章9節)。彼らは、イエス様を救い主として信じない意味で罪人であった。
  3. そして、彼らは二人とも、「罪人」として、「死」という運命に定められていた。
    1. 聖書は言う「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)と。死こそが罪人の運命である。
    2. 聖書は、罪人は三つの「死」を経験すると言う。
      1. 第一は、文字通りの肉体的「死」である。
        • 聖書は、元々人間は、死なない、永遠に生きる存在として造られたが、罪を犯したときから死ぬと言う運命が入って来たと言う。
        • 勿論、ここの二人のように死刑によって死ぬことはまれである。しかし、病気、事故、老衰、その他さまざまな形の違いはあっても、すべての人々は必ず肉体的に死ぬのである。それが罪人として生まれて来た私たちすべての運命である。
      2. 第二の死は、「魂の死」である。
        • 「魂の死」とは、肉体は生きているが、魂、心が死んでいる、即ち、「生ける屍」状態のことである。
        • 具体的には、体は丈夫であり、健康であっても、或いは、外側は立派で、教育があり、地位や権力はあっても、惨めにも罪に負ける人生であり、一
        • すべてのものは備わっているのに、それらをもって、一体何のために生きたらよいのか分からないで、さ迷っている状態のことである。
  4. これらの意味において、二人は、ここまで「罪人」として同じ人生を歩いて来たのである。
    1. 実は、この二人は、特異な二人ではなく、わたしたち人間すべての代表である。私たちは、皆、彼らと同じ「罪人」である。罪の報いとしての「死」を背負って生きているのである。
    2. 聖書は言う。「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。・・・すべての人は、罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない」(ローマ3章10,11,23節)と。
  1. 聖書はそれをこのように記している。
    1. ルカ23章39-43節「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え』と言った。ところが、もう一人の方が答えて、彼をたしなめて言った。『お前は、神をも恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしていないのだ。』 そして言った。『イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』 イエス様は、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたは、今日、私とともにパラダイスにいます。』」。
    2. その「転機」は、まず二人の内の一人から始まった。
  2. その転機をもう少し詳しく見たい。
    1. その転機は「神を恐れる」ことから始まった。
      1. 40節で、彼はもう一人の男に言った。「お前は神をも恐れないのか」と。
      2. 初めは二人ともが神を恐れていなかった。だから、既に見たように、初めは、二人とも、イエス様をののしり、あざけっていた。
      3. しかし、その内の一人が、もう一人の男と袂(たもと)を分かつように、今までの態度を変えた。即ち、イエス様をののしることを止め、相変わらずイエス様をののしっているもう一人の男をたしなめた。なぜか? それは、この男が「神を恐れ」始めたからであった。
      4. 残念なことであるが、私たちは、あまり神を恐れない。神を恐れるよりも人を恐れる。或いは、神を恐れるより自分を取り囲む状況(例:経済状況、健康状態、等々)を恐れる。
      5. しかし、聖書は言う。「人を恐れると罠に陥る」(箴言29章25節)と、その愚かさを指摘する。そして、むしろ、
      6. 聖書は、神様を恐れる人生こそ、賢い、知恵ある人生であると告げる。即ち、既に引用したように、聖書は言う。「主を恐れることは、知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9章10節)と。
      7. この男は、神様を恐れ、自分の人生、今していること、今語っていることの中に、神様を意識し始めたとき、鏡に自分の姿を映すように、自分の真実の姿が見えて来たのである。
      8. 即ち、自分の愚かさ、自分の罪深さ、自分の永遠の運命が見えてきたのであった。
      9. 神様を恐れるまで、神様を意識し始めるまで、人間は心の盲目である。周りのことばかり見えて、自分が見えない。目の前のことばかり見えて、永遠が見えない。
      10. しかし、神様を恐れ始めたとき、彼に、それらのことがハッキリ見え始めたのである。
    2. その転機は、この男が「悔い改め」たことにより、彼を更に救いへと導いた。
      1. 彼は言った。ルカ23章40-41節をもう一度見たい。「ところが、もう一人の方が答えて、彼をたしなめて言った。『お前は、神をも恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。』」。
      2. 彼の言ったこの言葉の中に、彼が明らかに、自分の罪を「悔い改め」ていることがにじみ出ている。
      3. 第一に、彼は自分の罪を認めている。「お前も同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けている」
        • 「我々は自分のしたことの報いを受けているのだ」、「自分のしたこと」と言って、彼は死罪に処せられるほどの悪いことを自分がしたことを認めている。
        • 人間は、他人がしたことの悪は簡単に見つけ、指摘するが、自分のしたことは中々認めようとしない。それは、子供を見ていても分かる。私たちは、中々自分の罪を認めない。
        • しかし、神様に祝福される、「悔い改め」は、自分の罪を認めて、自分が悪かった、ご免なさい、と言うところから始まる。この男は、その自分の罪を認めたのである。
        • 聖書は言う。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さいます」(第一ヨハネ1章9節)。
        • しかし、彼の罪の告白は、よくあるような、言葉だけの軽々しいもの、形式的なものではなかった。渋々「私が悪かったって言えば良いんでしょ」などと、不服そうな顔をして謝るようなものではなく、本当に真摯な、心底からのものだった。
        • それは、彼が「我々は、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と言って、単に罪を認めて謝るだけでなく、自分が罰せられることを当然のこととして受け入れていることから分かる。これは自分の罪を心から認め、心が砕けている状態である。
        • 聖書:「砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれを蔑まれません」(詩篇51篇17節)。
    3. 最後に、その転機は、この男がイエス様を救い主と受け入れたこと、信じたことで、彼を完全にイエス様の救いの中に導き入れた。
      1. 彼が、イエス様を救い主と信じたことはどこで分かるか? それは、彼のイエス様に言った言葉で分かる。彼は言った。「だがこの方は、悪いことは何もしていないのだ。』 そして言った。『イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』(ルカ23章41-42節)。
      2. この言葉の中に、彼のイエス様に対する信仰告白を見出す:
        • 第一に「この方は、悪いことは何もしていないのだ」と言って、彼がイエス様には、十字架刑、否、いかなる刑に値する罪も、一切無い、まったく無実なお方であると信じていたことが分かる。
        • 第二に、「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言ったが、原語を直訳すると「あなたの御国にお入りになるとき」である。
        • それは、「あなたの御国」とあるように、彼は、明らかにイエス様が「御国の主、御国の持ち主」であること、即ち、神様ご自身であることを信じていた。
        • それでは、神であり、無実であるお方が、なぜ、十字架に付いているのか?
        • 彼はイエス様を見ていて分かった。イエス様が、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ23章34節)と祈られたのを聞き、イエス様のその崇高なお姿を見ながら分かって来たのである。即ち、
        • このお方は、今このお方自身の犯した罪のためにみじめにも十字架で死のうとしているのではない。このお方は、私たちの犯した罪を身代わりに背負って、罪人として裁かれ、その刑罰を身代わりに受けて十字架にかかっておられるのだと信じたのである。
      3. このように、この男は、イエス様を救い主として信じ、受け入れたので、イエス様から、「今日、あなたは私と共にパラダイスにいる」(ルカ23章43節)というお言葉を頂いたのである。
        • それは、「私は、あなたの悔い改めと信仰告白を受け入れたよ。だから、あなたの罪は赦され、あなたは救われた」と言う意味である。

結   論

  • イエス様の両側に十字架に掛けられた二人の強盗たちは、ここまでは、同じような人生の道を歩んで来た。そして、その結果は十字架と言う惨めな最後で締めくくられようとしていた。
  • しかし、今ここで、人生の最後の最後に、転機が訪れていた。その二人に人生の大逆転の転機のチャンスが訪れたのである。
  • それは、イエス様との出会いが与えた転機であった。
  • このチャンスにどう応えたか、即ち、イエス様との出会いにどのように応答したかで、二人の人生は、大きく変わり、永遠の別れ道となったのである。
  • あなたは、あの十字架上の二人の強盗のうち、どちらの応答を取るか? 
  • イエス様は、本当は、あの二人両方に、「今日、あなたは私と共にパラダイス(天国)にいる」と言いたかったのである。二人だけではない。すべての人にそう言いたかったのである。
  • パラダイス、天国とは、死んでから行く場所のことだけではない。それは、今生きていて、イエス様と共に生きる生活のことである。地上にいる間も、いつもイエス様が共にいてくださる天国のような生活のことである。
  • イエス様は、今までの人生がどうであろうと、たといそれが、イエス様を拒む、神を恐れない、罪深い人生であったとしても、今この瞬間、イエス様を救い主と受け入れるなら、そのような人生を手に入れることができるのである。
  • 冒頭に紹介したあのクリーブランド大統領も、それまで神様から離れた人生を歩んできたが、神さまが与えてくださった悔い改めと信仰のチャンスを逃さなかった。
  • あのまま、悪友と悪に流されることもできた。しかし、彼は、神さまの招きに応答する方を選んだのである。あなたもそうなさいませんか?!

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。