教会の成長#4:成長の基本原則(その3):パンを裂く
- 使徒の働き2章40-42節 -
2017年3月5日 WIJC
聖書
使徒の働き2章40-42節
序 論
- 初代教会は成長した。勿論それはペンテコステの日に下ったご聖霊の力によるものである。即ち初代のクリスチャンたち、初代の教会は、ご聖霊を受け、ご聖霊に満たされていたので成長したのである。
- しかし、ご聖霊に満たされ、3000人という新しい入信者が加わると言う興奮すべき出来事を経験した彼らが、その日から、毎日していたことを、聖書はこのように記す:
- 「・・・・」(新改訳)
- ほとんどの英訳は、原語で用いられているproskarteleowという言葉の意味と時制、更には、文章構造から、日本語訳より正確に原語の意味を訳し出している。例えば、NIVは、”…….”と訳している。
- 即ち、彼らは、次の4つのことに熱心に、しかも継続的に、専心、献身していたのである。その4つとは、①使徒たちの教え(今日の私たちにとっては「聖書」)、②交わること、③パンを裂くこと、④祈ること、である。
- 興味深いことは、これらは、どれも、特別なことではない。ある意味で、それらは、今更言うまでもないような、クリスチャンにとってはごく当たり前のことである。
- 即ち、それは、肉体的に言うなら、生きる為、成長する為の基本である「呼吸する」こと、「食べる」こと、「運動する」ことにも相当することである。これらなくして成長は期待できない。
- しかし、悲しいことは、信仰的には、しばしば多くのクリスチャン生涯において、この当たり前のことができていないのである。言い換えるなら、それが私たちの成長を妨げているのである。
- 一般の社会でも、よく言われることは、いつも、そして、いつまでも「基本に留まれ!」である。そして、特に、壁にぶつかったときは、尚更、Back to the Basicsである。
- 音楽家もそうである。ピアニストは、いつも、音階練習から始め、声楽家は発生練習からである。
- スポーツ選手も同じである。どんな技術を身に着けるにも勝って、基礎体力を付け、維持することが基本である。彼らは、それを怠らない。
- これらの4つの内の2つについては、既に学んで来た。簡単に復習するなら:
- 使徒たちの教え(今日の私たちにとっては「聖書」である)に献身することついては、そのために時間を捧げて、読むこと、聴くこと、味わうことであり、更には、勇気と誠実さをもって、信頼し、実践することである。また、
- 交わることに献身することについては、食べること、即ち、寝食・起居を共にしながら「全人」をもって交わる、また、お互いに持っているものを実際に分かち合いながら、更には、伝道など神さまの仕事、ご奉仕に共に参加・参与すること、これが聖書的交わり、コイノニアである。
- 今日は、次の「彼らは、パンを裂くことに熱心に献身し(励み)続けていた」、即ち、They devoted themselves to the Breaking bread. ことについて学びたい。
本 論
Ⅰ.ます、最初に考えたいことは、そもそも、「パンを裂く」こととは何かである。
- 「パンを裂く」という行為は、ユダヤ人の家庭で見られる普通の、一般的行為であった。
- 食事のとき、ユダヤの家庭では、父親である家長が、まずパンを取り、祝福の祈りを捧げ、それを裂いて食卓に連なるすべての人に分け与え、自分もその一片を取り、家族の楽しい食事が始まるのである。
- これがユダヤ人の祝福された一般的家庭のイメージであった。
- イエス様は、群れのリーダー、神の国のリーダー、父として、「パンを裂く」と言う行為を行ったとも言える。
- しかし、ここに記されている、彼らが「パンを裂いた」ことには、それ以上の特別な意味があった。
- 何故なら、もし、今申し上げたような極く一般的な意味での「パンを裂く」と言うことなら、定冠詞”the”(原語tei)は要らない。
- 定冠詞が付されていることの意味は、それが一般的な「パン裂き」でなく、その「パンを裂く」と言う行為が、彼らにとって特別、特定な意味を持っていることであった。
- 「パンを裂く」ことが特別な意味を持ったのは、イエス様が十字架に掛けられる前の晩、「最後の晩餐」として「過ぎ越しの食事」を弟子たちと共に守った時から始まった。
- マタイは、その時のことをこのように記している:また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これはわたしのからだです」と(マタイ26章26節)。
- このことは、共観福音書であるマルコ(14章)も、ルカ(22章)も同様に記している。
- これがいわゆる、私たちが現在守っている「聖餐式」の始まりである。
- イエス様は、この晩、「パンを裂く」ことに特別な意味を与えられたのである。即ち、イエス様は言われた:
- このパンは、私のからだを象徴している。
- そして、パンである私のからだは、あなたがたのために裂かれる、と。
- 言うまでもなく、これは、イエス様の「十字架の死」を意味していた。
- イエス様は、これを一度限りのことでなく、継続するように弟子たちに求められた。
- ルカ22章19節:それからパンを取り、感謝を捧げてから、裂いて弟子たちに言われた。「これは、あなたがたのために与える私のからだです。私を覚えてこれを行ないなさい」。この最後の部分は、今後「裂かれたイエス様」のことを忘れず思い出すためにみなで「パンを裂いて食べる」ことを続けるようにと言うイエス様の意図を示している。
- パウロもそのことについてコリントの教会に書いている(Ⅰコリント11章23-26節)が、そこでも「(食べるたび)飲むたびにwhenever you eat this and drink this cup」と継続が暗示されている。
- そして、初代の教会は、これを守ったのである。その証拠を「使徒の働き」を見ると、
- まず2章46節に「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜び、真心をもって食事をともにし、・・・」。
食事とは別にパンを裂くことをしていた。 - 20章7節「週の初めの日(日曜日、礼拝の日)、私たちはパンを裂くために集まった」。
- 20章11節「そして、また上がって行き、パンを裂いて食べてから、・・・」
- まず2章46節に「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜び、真心をもって食事をともにし、・・・」。
- 更に、言うまでもなく前述のコリント教会へのパウロの言葉(Ⅰコリ11章)からも分かるように、至るところに離散していたキリスト教会、またクリスチャンの群れでは、その初期から、集まっては「パンを裂いて」イエス様の十字架を覚えていたことが分かる。
- それは、その後、クリスチャンたちが、激しく「迫害」された時代にも実行されたことであった。面白いエピソードとして聞いたことである:迫害時代に洞穴のようなところに隠れていたクリスチャンたちの群れが、ロウソクを頼りにする薄暗い光の中で集会をもち、聖餐式を執行していた。そこで、彼らが「これは私の肉である食べなさい。これは私の血である飲みなさい」というようなことを言い合っている姿は、まるで「人肉を食い合う、人食い人種」のような宗教だと気持ち悪がられたとか・・・。
- しかし、それは、正に、そこまでしても、初代のクリスチャンたちは、このパンを裂き、ぶどう酒・の飲み物を飲んでイエス様の十字架を記念し続けたことの証しであった。
このように、「パンを裂く」クリスチャンの姿は、実にあのペンテコステの次の日から、聖霊を受けた弟子たちが、皆で始めたことであり、かつ、一生懸命に守り続けたことであった。それが今日の聖書箇所に記されていることである。
Ⅱ. なぜ、「パンを裂いて食べる」ことが、4つの成長の基本条件の一つとして、クリスチャンの、教会の成長のために、それほど大切なのか、その意義、その具体的な意味を、今日のメッセージの後半として考えたい。
- その重要性:
- その重要性は、言うまでもなく、裂かれたパンが十字架に掛かられたイエス様を表しているからである。即ち、イエス様は「裂かれたパン」である。
- ここで「裂かれた」と訳されているギリシャ語は、元々「(枝を)折る」とか「砕く」「割る」という意味の言葉である。
- 即ち、イエス様が、パンを取り、裂いて、「これは、あなたがたのための私のからだです」と言われたとき、イエス様は、「私は、パンとして、あなたがたに命を届けるために、まず裂かれ、砕かれなければならないのです」と言われたのである。
- ここでもう一度、「パンが裂かれる」ことと「イエス様の十字架」の関係を詳しく見たい。
- 救い主として来られたイエス様は、なぜ、私たちを救うために「裂かれ」「砕かれ」なければならなかったのか? 当時、一般に誰もが期待していた「救い主像」は、むしろ:
- 人に、敵に裂かれたり、砕かれたりする弱々しいイメージではなく、反対に、相手を、敵を裂いたり、砕いたり、潰したりする力強いイメージであった。
- 或いは、その一方で、人の模範としての聖人・君子として、神の国に生きる正しく、知恵ある道を、私たちに教える道徳的、精神的、宗教的威風ある指導者の姿であった。
- しかし、イエス様は、どこかそのどちらにも当てはまらないお方であり、間違いのないことは、人間的にはあの十字架で惨めにも、完全に裂かれ、砕かれたことである。なぜか?
- 預言者イザヤはその質問に答えている。イザヤ53章5-6節である。そこには、
「しかし、彼(救い主イエス)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさ迷い、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とある。- これが旧約聖書の預言者イザヤが述べた、キリスト、救い主像である。
- それは、砕かれ、刺し通され、懲らしめられ、打たれ、傷つけられた救い主である。
- そして、それは、彼の罪の為ではなく、人の罪のため、私たちの罪のために、身代わりに、それらを受けている救い主であった。
- これこそが、あのナザレのイエスが、十字架に掛かったときに成就したことであった。
- あの十字架で、自らは何の罪を犯されなかったイエス様が、私たちの身代わりに罪人なって、人からも、神さまからも見捨てられ、呪われ、身も心も何もかもをズタズタに裂かれ、砕かれた時、これが成就したのである。
- あの十字架でのイエス様の叫び、「わが神、わが神、何で私をお見捨てになったのですか?!」こそが、それをよく表していた。それが「裂かれたパン」の意味であった。
- 裂かれたパンとは、私たちを救うためになされたイエス様の十字架の上のお姿であった。
- これがキリスト教の救いの始まりであり、原点であり、中心であり、基礎である。
- この十字架によって、即ち、イエス様が私たちの身代わりに十字架で、パンのように裂かれ、砕かれて、私たちの罪の罰を背負ってくださったので、私たちの罪は赦された。
- そして、断絶されていた神様との交わりが回復され、神の子となる特権を与えられた。
- すべての神様からの祝福はここからか始まったのである。
- だから、キリスト教と言うと、
- (1)クリスチャンでない人も、「オタクは、これですか?」と言って、十字を切って見せる。
- (2)誰でもが、クリスチャンでない人までが、キリスト教の中心は、十字架だと知っている。
- (3)「キリスト教会」と言うと、建物の尖塔に「十字架」、会堂に入ると正面に「十字架」が定番になっていると言っても過言ではない。
- 6.それゆえ、新約聖書最大の宣教者、教師、神学者とも言えるパウロは、「十字架の無いキリスト教は無い」ことを明言する。
- (1)Ⅰコリント1章18節「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」
- (2)Ⅰコリント2章2節「なぜなら、私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、即ち、十字架に付けられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
- (3)ガラテヤ5章11節「兄弟たち。もし私が今でも割礼を述べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら十字架のつまずきは取り除かれています」。
- (4)ガラテヤ6章14節「しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、私も世界に対して十字架に付けられました。」
- (5)これらこそが成長するクリスチャンが経験している「イエス様の十字架」との関係である。
- 救い主として来られたイエス様は、なぜ、私たちを救うために「裂かれ」「砕かれ」なければならなかったのか? 当時、一般に誰もが期待していた「救い主像」は、むしろ:
- しかし、心配であり、悲しいことは、この「十字架」とクリスチャンとの関係が曖昧、希薄になって来ている。
- 十字架は、(日本人なら、むしろ「クロス」と呼んで)、飾り、装飾、アクセサリーには、今でも、「美しい」「カッコいい」ものとして、どんどん使われている。
- YMCAが、Cが意味するクリスチャン名とは全く関係の無い団体になり、KFCがケンタッキーとは全く関係の無い会社になりつつあるように、「十字架」も、キリスト教とは全く関係の無いものになって行く日は遠くないかもしれない。
- 十字架を飾らない、十字架を付けない教会が多くなっている。十字架を語らない牧師が、説教が多くなって来ている。
- なぜ? それは、昔も、今も同じである。「十字架」は「躓き」なのである。
- パウロも、いやと言うほどそれを経験した。
- それらが前述のコリントや、ガラテヤの教会に宛てた手紙に明らかであった。「十字架による救い」なんて言うから、ユダヤ人は躓き、ギリシャ人は馬鹿にする。
- 十字架以外の救いの道、例えば「割礼による救い」「行いによる救い」を伝えれば、もっと沢山の人々、特にイスラエルの人々は、もっと受け入れやすく救われたであろう。
- パウロは、決して頭の固い人間ではなかった。人々を一人でも多くキリストに導くために、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、すべての人にはすべての人にはすべての人のようにと、宣教方策に関しては極めて柔軟性があった。
- しかしそのパウロも「十字架を宣べ伝える」ことに関しては、半歩も譲らなかった。
- なぜか? 十字架には、人間の理屈や小賢しい知恵を超えた神の力があるからである。
- イエス様の生涯に於いても、悪魔は、いつもイエス様を十字架の道から離そうとした。
- 40日の断食の後、イエス様が荒野で受けた、あの3つの誘惑すべての本質は、「十字架を回避した救い」の道をイエス様に歩まさせようとするサタンの戦略であった。
- 弟子たちにイエス様が、初めて、自分が「(十字架で)殺されることを含んだ受難のメシヤ」であることを告げたとき、サタンはペテロをもってそれを阻もうとした。
- 十字架刑前夜、あのゲッセマネの祈りでも、イエス様は、人間的にも、悪魔からの挑戦としても、最後まで十字架の回避の問題と戦った。
- しかし、最後まで、神さまのお心、み旨は変わらなかった。それは、十字架無くして救い無しである。
- そして、イエス様は、ご自分を裂かれるべきパンとして私たちのために差し出されたのである。ここに神の愛がある。
- パウロも、いやと言うほどそれを経験した。
結 論
- この事実の前に、私たちがすべきことは何か? それは、「聖餐式」として、月一回、週一回、・・・守るときは勿論、パンを食べるごとに、更には、何かことあるごとに、イエス様、しかも、私のために十字架に掛かられたイエス様、パンのように引き裂かれ、砕かれたイエス様の愛を思い出して、感謝を捧げ、自らを感謝の「いけにえ」として神様に捧げることではないか?!
- 儀式として守る聖餐式ではなく、愛を思い起こし、深めるための聖餐式でありたい。ローマ8章35-39節、第二コリント5章13-15節、ローマ12章1節を味わいたい。
- 最後に、何べんも引用しているが、億万長者の息子であり、ケンブリッジの特待生、空前絶後のクリケットの選手であったが、それらをすべて捧げて、中国、インド、アフリカの宣教に捧げた偉大なる宣教師C.T. Studdの言葉を引用して閉じたい。” If Jesus Christ be God, and died for me, then no sacrifice can be too great for me to make for Him.”
- ここにこそ、生涯をかけて、儀式と生活と生涯をかけて、イエス様の前に、「パンを裂き続ける」クリスチャンの成長する姿がある。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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