「教会の成長#5:成長の基本原則(その4):祈ること」
- 使徒の働き2章40-42節 -
2017年3月12日 WIJC
聖書
使徒の働き2章40-42節
序 論
- 私の米国におけるミニストリーの「姿勢」というか、「指針」というか、それらに大きな影響を与えた二つのことがある。
- 一つは、最初に開拓したプリンストン日本語教会でのことであった。まだ、開拓して1年半くらいの時であったか? 開拓後間もなく、参加したクリスチャンのご家族が、ご夫婦そろって色々な意味で力となってくださり、お宅で家庭集会も開かれ、ご主人も、教会の色々な備品作ってくださったり、礼拝説教のお手伝いをしてくださったり、最後には、「今に会社を辞めたら、教会のカストディアン(管理人、用務員)になりますよ」と言われるほどであった。彼は、ある有名な会社の相当な地位にある人であり、少なくとも5年はプリンストンにいるはずであったが、突然の人事変更で、一年でシカゴ支店の責任者として呼び返された。4人のメンバーで始めた教会は当時やっと20数名ほどになりつつあるときであったが、多くの人は、この家族を失うことで教会は存続できないのではないかと思った。言うまでもなく、私にとっても大きな打撃ではあった。しかし、神さまは、そのとき私に今でもハッキリと覚えていることをミニストリーの指針として告げられた。それは、「イエス様は、聖書の中で、私たちに、決して、教会を大きくするようにとは命じられていない。イエス様がが命じられたことは、出て行って、福音を宣べ伝え、彼らを主の弟子とし、世界のいたるところに遣わすことである」と。
- もう一つは、ワシントンにきてからであるが、この教会で、福音を聞いて受け入れ、受洗して間もなく、この地を去った一人の婦人が、暫くしてくださった私たちへの激励の手紙の中で、「先生、わたしが、先生の教会に祈ることは、教会が大きくなることではありません。教会が強くなることです」と。
- これらが教えることは、神さまが求めていることは、
- 「教会が大きくなる」ことではなく、「教会が成長する」ことであり、
- 「教会が成長する」とは、繰り返すようであるが、必ずしも「サイズ」のことではなく、
- むしろ、迫害の中でも、困難の中にも耐えうる「強い」教会となることである。
- その意味で初代教会は、成長した。その後300年にもわたる大迫害の中、政治的、社会的、文化的、宗教的、その他あらゆる障壁を乗り越え、打ち勝って、強い教会として成長し、キリスト教のその後のために基礎を築いたのである。
- その秘訣は、ペンテコステの日に下ったご聖霊の力によるものであるが、ここで大切なことがある。それは、彼らがご聖霊を受けて力を得るということを単なる一時的な経験にしなかったことである。
- 言い換えるなら、彼らがそれを、毎日の生活の中での継続的経験としたことである。
- その秘訣こそがここ数週間学んで来た使徒の働き2章42節に書かれていること。即ち、彼らは:
1.使徒たちの教え(聖書) 2.交わること 3.パン裂くこと(聖餐、十字架中心の生活) そして、4.祈ること、に専心、献身し続けていたのである。 - 今の時代、教会に欠けているものは何か?
- 牧師の賜物であろうか? 説教の賜物、人扱いの賜物の欠如だろうか?
- 教会のメンバーの賜物であろうか? 音楽の賜物を持っている人が少ないことか?
- 教会にもっと楽しい、Cultural Correct / Appropriateなプログラムが足りないことか?
- 教会の建物や部屋、またAudio Visualな設備が不十分なことか?
- 初代の教会の様子を見る時、彼らの発展と成長の理由と根拠は別のこと、もっとBasicsなことにあったことが分かる。
- 私たちも、もう一度、個人としても、教会としてもBack to the Basicsになりたい。その意味で、過去数回にわたって、このBasicsを学んで来た。
- 今日は、その最後である、祈ることに専念していた初代教会の姿を見たい。即ち、原語表現にもっと近い英語で言うなら、”They devoted themselves to the Praying.”である。
- 今日から2回にわたってこの「祈りに献身する教会」について学びたい。
- 第一回目の今日は、前半にまず「祈りの大切さ」を学び、後半は使徒の働き12章から、初代教会が実際に直面した問題の中で、どのように祈り、かつ勝利を得たかを学び始め、更に次回につなぎたい。
本 論
Ⅰ.まず「祈り」が、如何にクリスチャン生涯において生命的であり、重要なものであるかを学びたい。
- 残念ながら、現実はこの逆である。即ち、クリスチャンは、余り祈らないのである。
- 多くのクリスチャンたちの生活においては、祈りがさほど重要なものとは理解されておらず、実施もされていない。どこか「祈りもする」程度の付けたし的存在である。
- そもそも私も、その信仰生活に入る頃より「祈り」とは何かについて聖書とはズレていた。
- 私は姉に誘われて教会に行って帰るときに「またぜひ来てください」と言われ、トラブルを避けるために「ハイ」と答えたものの、もう来るまいと心では決めていたので、帰りに姉に「もう行くつもりはないよ」とハッキリ言った。姉はそのことをその週の週日の集会に出たときに教会の人に伝えた。その集会から帰ってきた姉は、私に「純ちゃん、だからみんなであなたのために祈ったのよ」とわたしに告げた。「祈られた」と聞いた瞬間、私は「ゾーッ」とした。呪われた気がしたからである。私にとって「祈り」とは怪しげな宗教の魔術師が、十字架か何かに誰かある人を想定した藁人形を釘付けして、その人に災いが起こるように祈願するイメージであったからである。
- 私の祈りのイメージは、そんなものであったから、クリスチャンになっても、祈りはどこか、異教的、自分に良いことがあるようにと言うご利益的、自己中心的な願をする手段のように思えてなじめなかった。
- 多くのクリスチャンたちが、その頃の私のように、お祈りの関心は、聖書を読んだり、奉仕をしたり、またクリスチャンとして正しく歩むことへの関心から比べると遥かに低い。
- 勿論何か特別に苦しいことがあるとノン・クリスチャンの方々でもそうであるように、皆夢中で祈る。でもここで言いたいのは、クリスチャンが、平常時に祈らない現実である。
- クリスチャンにとって「祈り」がなぜそんなに重要なのか? クリスチャンにとって祈りとは何か? 答えは、祈りは私たちにとって、生きる為の「呼吸」に等しい。だから生命的に重要なのである。
- 上述したように祈りは、しばしば自分に必要なもの、欲しいものを手に入れるための手段と思われがちである。しかし、それなら、今も指摘したように、ご利益宗教と余り変わらない。
- クリスチャンにとって聖書を読むことが重要であることは誰もが認める。それは聖書の言葉を読み、信じ従うことは、私たちの肉体的生活においては「食べる」ことに等しいからである。
- 同様に、「祈る」ことは、私たちの肉体的生活においては「呼吸する」ことに譬えられる。
- 「食べる」ことも重要である。しかし、数日、否数十日食べなくても、生きることは可能であると言われる。しかし、一方呼吸は、ほんの数分でもできなければ生きることはできない。
- 即ち、「祈り」は絶えず毎瞬するものである。だから、聖書は言う。「いつも/絶えず祈りなさい」Pray without ceasing」(第一テサロニケ5:16)と。
- 即ち、祈りは、私たちが、生き続ける為に、片時も、瞬時も止めることなく、呼吸のように続けるべき生命的な重要事である。
- 更に、祈りの重要性は、イエス様によっても、強調されている。
- 1.あの有名で、沢山のクリスチャンたちも暗記している聖句、イエス様が十字架に掛かられる前の晩、遺言のように遺された言葉の一つ、「あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなた方の実が残るためであり、また、あなたがたが私の名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(ヨハネ15章16節)と言われた言葉である。
- 即ち、その前半では、私たちがイエス様を信じて救いにあずかるということは、実は、自分が、選んで信じたつもりであるが、真相は、そこに、神さまの「選び」と呼びたい神様の側の先回りした愛と恵みのお働きがあった結果であることが記されている。そして、
- 後半で、イエス様は、そのようにして私たちをクリスチャン、神の子として回復されたのにには▶「目的」があり、それを実現するための▶「原動力」があると告げられた。
►クリスチャン人生の「目的」とは「実を結ぶ」こと、「品性の実」であり、また、他の方々をイエス様にお導きすると言う「伝道の実」である。
►そして、クリスチャン人生の「原動力」としてイエス様が指摘されたのは、「イエス様の御名による父への祈り」であった。 - 即ち、イエス様は、ここで、主の御名による「祈り」なくして、クリスチャン人生を全うすること、目的である実を結ぶことはできないと言われるのである。
- 1.あの有名で、沢山のクリスチャンたちも暗記している聖句、イエス様が十字架に掛かられる前の晩、遺言のように遺された言葉の一つ、「あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなた方の実が残るためであり、また、あなたがたが私の名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(ヨハネ15章16節)と言われた言葉である。
- 前半の「祈り」の重要性についての締めくくりとして、祈りのもたらす経験的祝福である。
- 「よく祈る人」は、何としても、まず、霊的に「より恵まれた」人生を送るし、物質的、健康的、経済的にも一般的に言って「より祝福された」人生を送ることが実証されている。
- 言い換えるなら、祈りが重要なのは、見えない神様の現実性を実生活の中で具体的に実体験するためには、「祈り」が最も力強い、ベストの道だからである。
- その典型的な具体例の一つは、「祈りと経済」の関係である。
- 私たちの米国に来てからの35年は、正にその証しに満ちている。今その一つ一つを述べることはできないが、・・・
- 私たちの米国生活は、毎月500ドルの予算から始まった。
- 僭越ながら、先日もある方を励まそうとお話したのであるが、フードスタンプやその他の福祉のプログラムにお世話になった時期もあったし、
- 先日もお話ししたように、子どもが突然、2時間のうちに4回ひきつけを起こし、原因不明で急遽数日の入院となり、その為の支払いで、厳しい経済状態に陥ったり、
- 父の事業失敗と息子としての責任など、様々な困難があった。
- しかし、それらの一つ一つに神様は、助けを与え、試練の山々を乗り越えさせて下さった。
- 10年余の留学のほぼ全「学費」を一銭も払うことなく、スカラシップを頂くことができたのも、神さまの祈りの答えと言うほかない。
- アズベリ―大学の時代を例に挙げるなら、7つの教会が学費のために献金してくださった。毎学期それぞれの教会がくださる献金額は違っていた。しかし、それなのに不思議なように合計額はいつも同じであり、ほぼ必要額であった。卒業したとき、誰かが、コントロールしていたか、お互いに連絡を取り合っていたのかと尋ねたが、答えはNOであった。
- もう一つの具体例は、「祈りと健康」の関係である。
- Dr. Harold G. Koenig, Director of Duke University’s Center for Spirituality, Theology and Health, says, “Studies have shown prayer can prevent people from getting sick, and when they do get sick, prayer can help them get better faster.”
- このように言うと、それは単に「祈りの心理的効果」に過ぎないと片付けてしまう人がいる。
- 彼らは:祈った人が、「神様が必ず直してくださる」と信じると、何か元気が湧いてきて、体内の免疫力、治癒力が増して、病気にならない、或いは病気がよくなるのだと、理論的に説明し、「それは祈りの答えとしての奇跡でも、神様の力のあらわれでもない」と片付けてしまい、祈りの力を認めず、反故にしようとする。
- しかし、それに対して、そのようなPsychosomaticな心理的な効果以上の力が、祈りにはあるという証拠も一杯ある。
- Cansas City Hospitalが一年をかけて行なった膨大な調査もその一つである。心臓に問題があって入院した患者たちの内、誰かに祈られていた患者たちの方が、誰にも祈られていなかった患者たちよりも遥か高い率でよくなると言う結果であった。ここで大切なポイントは、患者本人たちは、自分が誰かに祈られていたか、否かは知らされていなかったことである。即ち、この結果は、心理的な影響による結果ではなかったと言うことである。
- このように、祈りは、現実の生活を変えていく力がある。
- 初代のクリスチャンは、この「祈り」に熱心であり、継続的に専心し、献身していたのである。
- 今日のメッセージの最後は、直面する困難の中で実際に祈った初代教会の姿からの学びを始める。
- そのための聖書箇所は、使徒の働き12章1-17節の記事である。鍵の句は5節である。
Ⅱ.この出来事から「祈り」の実際について学ぶ第一のことは、「誰が」祈るのかの問題である。
- 5節ではっきりと強調的に言われていることは、「教会」が祈っていたことである。
- 即ち、「教会は、彼のために神に熱心に祈り続けていた」と強調されている。
- 初代教会の様子を記す使徒の働きは、この教会の祈りを強調する。
(1)1章14節、(2)2章42節、(3)3章1節、(4)4章24-31節等々。 - 多くの人は、「祈り」と言うと、すぐに「個人的な」祈りを思い浮かべる。
- そして、ともすると、個人的な、隠れた祈りこそが重要であり、
- 教会の集会でするようなお祈りは、形式的、二次的、補足的なものと思われている。
- しかし、イエスさまは、「教会の祈り」を極めて尊ばれていたことに目を留めたい。
- その良い例が、マタイ18章19-20節である。即ち、「もし、あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださいます。二人でも三人でも、私の名において集まるところには、私ももその中にいるからです」と言われた。
- イエス様がここで強調しておられるのは、複数の人の祈り、即ち、教会の祈りである。
- 私たち夫婦を導いてくださった牧師はいつも言っていた。「私は、この教会を私と家内と長男の3人で始めた。教会は、あなたともう一人いれば、二人からもう始まっているのだ。教会の最小単位は二人だ」と。
- 一体、教会は何人で教会になるのか? 聖書は何と言っているのか? 10人? 20人? 30人? 教団は、「何人だったら教会になる」という規定を作るかもしれないが。
- しかし、聖書的には、神の前には、「群れ」の最小単位である「二人」から教会なのである。だから、イエス様は、「二人、三人が私の名によって集まるなら、私もそこにいる」と言われたのである。
- 会衆が、2人であろうと、20人であろうと、200人であろうと、2000人であろうと、20000人であろうと、そこには全く同じ主の臨在があるのである。
- イエス様は、それが何人であろうと「教会」が祈ることを期待しておられるのである。
- 教会の祈りが、なぜ、そんなに大切か?
- それは、他の人と一緒に祈ることによって、特に、信仰の先輩、祈りの先輩から、どのように祈るかを学び、成長することができるからである。
- 恐らく弟子達もイエス様からそのようにして祈りを学んだのであろう(ルカ11章1節)
- それは、必ずしも表面的な言葉や言葉使いの問題ではない。
- それは、祈りの内容であり、姿勢である。祈るとき、そこに祈り手の神と人に対する愛、或は、神への献身と信頼等が顕われる。それを一緒に祈りながら学ぶのである。
- それらは必ずしも、その人の言葉の美しさや、聖書の言葉を巧みに使った流暢なクリスチャン的表現を超えたクリスチャンの成長した姿である。
- それは、またアカウンタビリティー(Accountability)の問題である。
- 「祈っているからね」と言って約束しながら実際にはついつい祈らなかったことはないか?
- 私にはこのことで本当に申し訳なく、辛い経験と思い出がある:日本での聖書学校時代、同級生の一人に精神的病いを抱えている友人がいた。彼は一年目の暮れ、学校がクリスマス前から2週間ほどの冬の休暇に入ろうとしていた時、心の病で苦しんでいた。彼は私に簡単にではあったが自分の事情を訴えて「西郷兄弟、休み中も覚えて祈ってて欲しい」と言った。勿論、即座に「はい」と答えた。しかし、学校から離れて教会に戻った私は、クリスマスの特別伝道集会を始め、数々のクリスマス行事、年末の片付け、整理、新年聖会と呼ばれる年頭の3日間朝・昼・晩ともたれる特別集会の準備、その他の奉仕の為に忙殺され、彼のことをすっかり忘れていた。新学期に学校に戻って彼に会った時、彼に開口一番、「西郷兄弟、祈っててくれた?」と聞かれた。そのとき初めて、彼に祈りを頼まれ、祈ると約束していたことを思い出した。嘘はつきたくないと思い、つらかったが、正直に「ごめん、すっかり忘れていた」と言ったときの彼の顔、姿を忘れることができない。とても悲しい、がっかりした様子で言った。「やっぱり。だから僕はとても苦しい、辛い状態が続いていたんだ」と。彼は、その後、暫くして学校を去り、田舎に戻り、後の知らせでは、自らの命を絶ったのであった。
- 私たちが「祈るよ」と言っても、しばしば如何にいい加減なことをしているかである。
- 「自分で祈る」「一人で祈る」と言っても、しばしば、アカウンタビリティーが欠如する。
- 自分だけで祈っていると、しばしば、1回や2回は祈るが、いつの間にかやめてしまっている自分に気がつくことが一杯ある。
- 一人で祈るとき、いろんな都合が入ってきて、時間的に妨げられ、祈るはずの時間がいつの間にか他の事に使われていることはないだろうか?
- 一人で祈るとき、今日は気分が乗らない、体の調子が悪い、などの理由をつけて祈りをやめてしまうことはないか?
- だから、複数の人で時間を決めて、約束して、一緒に祈る習慣が必要である。「あそこで」、「あの場所で」、「誰々と」必ず祈ると約束して祈ることが必要なのである。
- 私たちは、自分との約束を簡単に破る。しかし、他の人との約束は破りにくい。私たちはお互いに励まし合いながら、注意しながら、祈りをいい加減にしないように「教会の祈り」を捧げていく必要がある。
- 「祈っているからね」と言って約束しながら実際にはついつい祈らなかったことはないか?
- また、複数の祈り、教会の祈りは、私たちを自己中心的な信仰から守る。
- 一人で祈っているだけの人の多くは、しばしば、自分と自分の家族、そしてごく親しい友のために祈ることだけで終わっているのではないか?!
- 即ち「自分と自分の周囲だけ」のある意味で、「利己的」とも言える祈りのフォーカスである。
- しかし、私たちが、二人、三人、更に多くの人々と共に祈るとき、否(いや)が応でも、もっと広い視野で祈るようになる。
- 余り知らない人のために、全く知らない、人間的には無関係な人々のために、世界の果ての人々のために
- 自分の家族のことだけでなく、教会のために祈るようになる。
- 現に使徒の働き12章でも、彼らは、まるで自分の家の夫が、父親が危機にさらされているときのように、教会の父とも言えるペテロのために、真剣に祈ったのである。
- 自分の教会のためにだけでなく、他の教会のために、全世界の宣教の働きのために、まるで自分の家の繁栄のために祈るように祈る人となるためには、祈祷会のようなところで一緒に祈る必要がある。
- それは、他の人と一緒に祈ることによって、特に、信仰の先輩、祈りの先輩から、どのように祈るかを学び、成長することができるからである。
結 論
- 今日(今朝)は、ここでメッセージを締めくくる。来週は更に続けて、使徒の働き12章に記されているペテロ救出の出来事から、「祈りに専心していた」初代教会の姿を学びたい。
- 今朝は、特に、複数で祈る、教会で祈ることの重要性、祈祷会の重要性を強調したと言える。
- 出エジプト17章にイスラエルの人々がアマレク人たちと戦ったときのことが記されている。聖書は「モーセがイスラエルのために手を挙げて祈っている間はイスラエルが勝ったが、彼が疲れてその祈りの手を下げるとアマレクが優勢となった」と記している。そこでアロンとホルと言う彼の補助者たちは一計を案じた。モーセを石の上に座らせて彼の両側に一人づつ立ち、一人が彼の右の手を、もう一人が彼の左の手をそれぞれ支え、モーセが祈り続けることを可能にしたとある。協力の祈りである。
- 私達が勝ち続ける為には、一人ではなく教会として皆で力を合わせて祈り続けることが必要である。
- 今日のテーマにも関連して、皆さんにぜひとも読んで頂きたい本がある。”Fresh Wind, Fresh Fire”(邦訳「神よ、私の心に聖霊の火をともしてください」)である。著者はJim Cymbalaであり、ブルックリン・タバナクルの牧師として有名である。閉鎖寸前であったその教会にリバイバルを呼び込んだ彼と彼の教会のTurning Pointは、彼がある日曜日の朝、礼拝で「これから私は、この教会の礼拝に何人集うかではなく、祈祷会に何人集うかをバロメーターにする教会建設をしていきたい」と宣言したときであった。同じことを私たちも、私たちの教会のために祈りたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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