成長の年に "The Year of Growth"
- ルカの福音書2章41-52節 -

2017年01月01日 WIJC

聖書
ルカの福音書2章41-52節

序  論

  • 「改めて、おめでとうございます!」
  • 私たちは、今年の4月で結婚して43年になるが、こどもができたときに、子育てのことで、家内と二人で言い合ったことがあった。それは「こどもをなるべく”NO”と言わないで育てよう」であった。
  • ネガティブではなく、ポジティブな姿勢での「子育て構想」のつもりであった。しかし、その後の私たちの親としての実際経験は、それが、考えたり、言うほどに簡単なことではないことを証明した。
  • そんな子育ての中で、大切なこととしてしばしば言われることは、一杯「ほめる」こと。注意したり、「こごと」を言うより、とにかく「ほめる」ことを多くすること、である。私は賛成である。
  • それは、小さい子供だけではない。大人でも、更には、クリスチャンでも皆同じである。皆「ほめられる」ことで、生活に、人生に大きな力を得て生きることができるのである。(褒めちぎる教習所)
  • 私も、クリスチャンになって、まだ2年ほどのときに、牧師から「ほめられた」経験を忘れることができない。それで、「僕でも、クリスチャンとして、やって生けるかも?!」と励まされた。
  • 当時、私たちの教会では、毎年2回春と秋に、特別伝道集会があり、毎回数名が、集会で、『証し者』として、ゲスト・スピーカーの説教の前に、自分がどのようにしてイエス様を信じるようになったのか、イエス様を信じて何が変わったのか、などを会衆の前で話した。
  • そのとき、私もその一人として証ししたのであった。実はその1年前にも証ししていた。それを覚えていた牧師が、終わってから私の所に来てこう言った。「分かりやすくて、良かったよ」と。そして更に続いて言った。「この前の証しと比べたら、随分『成長』したと思うよ。私はいつも思うんだ。人間の素晴らしさは『成長できること』だと思う。『成長』を見ることほどうれしいことはない」と。
  • 皆様も同感だと思う。これはこどもの成長を見ても思うことであり、それが親としての喜びである。
  • それは、神さまも、同じである。神さまは、私たちの霊の父として、私たち神のこどもたちの『成長』を楽しみにしておられるのである。
  • 私たちは、つい一週間前、昨年の12月25日に、イエス様の誕生を祝う「クリスマス」を越えたところである。今は、一般の暦では、勿論、元旦であり、新年であるが、キリスト教の暦では、1月6日にもたれる「顕現節」と呼ばれる祝日に向かっているところである。
  • 「顕現節」は、東方の博士たちの来訪を記念する日とも言われるが、歴史的にはもっと広い意味で祝われて来た。
  • この期間は、簡単に言うと、赤ん坊として生まれたイエス様が、やがて、人々の前に現れるまで、人間として、着々と「成長」して行かれる姿を思い巡らす時節である。
  • 今日は、元旦礼拝のメッセージとして、この「成長」と言うことに心を向けたい。
  • 具体的には、この2017という年が、・・・
    1. 皆様が、人間として、クリスチャンとして、「個人」において、成長する年であるように、
    2. また、私たちWIJCが「教会」として成長する年であるように、と言う願いからである。
  • このテーマのための聖書のテキストは、先ほども申し上げたが、今の時期にふさわしくふ、イエス様の成長ついて触れている箇所、ルカ2章41節-52節を選んだ。
  • そこには、12才にまで成長されたイエス様が、その後もどのように成長していかれたのかが短く記されている。特に52節を見るとその成長ぶりが明確に記されている。「・・・・」。
  • イエス様も初めから完成されていた神様としてではなく、人間として「成長」していかれたのである。
  • 勿論、既に申しあげたように、今日学ぼうとしていることは、皆様の職業や学業の世界における成長についてではない。
  • むしろ、それらの根本であり、中心である、人間としての成長、クリスチャンとしての成長、そして、教会の成長につながることをご一緒に学びたい。
  • 今申し上げたことを心に留めながら、今日の聖書箇所をまず読みたい。ルカ2章41-52節

本   論

  1. このことをお話しする前に、今日の聖書箇所の背景にあるイスラエルの慣習について少しお話ししておきたい。
    1. 1イスラエルでは、成人男子は、少なくとも年一回、「過ぎ越しの祭り」のときに、エルサレムに宮もうですることが義務づけられていた。
      1.  これに加えて、イエス様の時代には、女性も参加することが奨励されていたようである。
      2. また、イスラエルでは、子どもは、13才になると成人とみなされた。
        • イエス様は、その時、12才であったとあるが、
        • 多くの場合、父親は、息子が13才で正式メンバーになる前に、準備として、1年前の12才のときに宮もうでに同伴することが多かったと言われる。
        • 恐らくイエス様の場合もそうであったのであろう。
    2. イエス様の家族の住んでいたナザレから神殿のあるエルサレムまでは、いくつもの山や谷を通る150キロの距離で、恐らく4-5日かかった旅であった。
    3. 村から、皆で群れをなして、旅をしたのであるが、男性グループと女性グループに分かれて旅をした。
      1. 子供はどちらに入るのも自由であった。
      2. 女性グループが先発、男性グループが後発で、昼間は別行動。その日の夕方、野営地で初めて合流した。
      3. このことが理由・原因で、マリヤもヨセフも「一日路」行くまで、即ち、夕方まで、イエス様が、それぞれ相手のグループにいると思い込んで、確認できなかったのである。
  2. さて、ここからが本論であるが、聖書は、イエス様の成長の記録の中で、神様を中心にして生きておられたイエス様の姿が、如何に大切であるかを強く描いている。43、46節を見ると次のことが分かる:
    1. イエス様は、神様の宮にいることを愛した。
      1. それは、今で言うなら、「教会へ行くこと」「教会にいること」を愛する人に匹敵する。
      2. 聖書は、そのような心と姿勢をもつことの大切さと美しさを次のように強調している。
        • 詩篇27:4「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私の命の日の限り主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、その為に」
        • 詩篇84:1-4「万軍の主。あなたのお住まいは、何と慕わしいことでしょう。・・・・なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。・・・・」
        • 更に、同122篇6,9節でも、「エルサレム(その中心は神殿であった)の平和のために祈れ。お前を愛する人々が栄えるように・・・私たちの神、主の家のために、私は、お前の繁栄を求めよう。
      3. イエス様自身もここでそのことを自らの口で言われた。「どうして、私をお探しになったのですか。私が必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか」(49)と。
      4. 神殿」、或いは、「教会」の本質は何か? それは「神様の臨在」である。それをイエス様は愛され、慕われたのである。教会、神の宮の本質は:
        • 建物でもないし、設備でもないし、プログラムでもない。
      5. 神の臨在を慕い求める人生、それは、神さまを畏れ、崇める(honor)人生である。
        • そして聖書は、そのような人生こそが、「知恵」を産みだす人生だと言う。
        • 「主を畏れることは知恵の初め聖なる方を知ることは悟りである」(箴言9章10節)
        • 今の時代は、「知識」が溢れている時代である。しかし、同時に、問題は、その知識に圧倒され、当惑し、支配され、反って迷わされている時代でもある。
        • その知識をどのように扱うべきかを教え、指導するのが、「知恵」である。
        • その知恵を与えるのが聖書であり、神を畏れ、神の宮、教会を中心とする人生である。
      6. 神の臨在の場所である「教会」を愛した人としての「証人」:「デパート王」と言われたビジネスマン、時の大統領に請われて郵政大臣?をも務めたジョン・ワナメーカー。彼は大統領との約束で、遠くに出張していても、可能な限り教会に戻って礼拝を守る。
    2. 第二に、イエス様が熱心に、謙虚に、聖書・神様・信仰のことを求めた姿がそこにある。
      1. 46節:「・・・・」。
      2. イエス様が、両親なくしてこの二日半の間、どこでどのようにしていたかは分からない。
      3. しかし、両親が彼を発見したとき、彼のしていたことは、
        • お祭りの屋台・お店で買い物していたり、ゲームで遊んでいたのではなかった。
        • ただ、ウロウロして両親を探していたのでもなかった。また、逆に悲壮な顔して、誰かに助けを求めていたのでもなかった。
        • あり得ない、考えられないと言うほどに、それらのどれでもなかった。むしろ、
        • イエス様は、「宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり、質問したりしておられ」たのであった。
      4. ここに、私たちが見るのは:
        • イエス様が、家族を忘れて、親に心配をかけるなどの、非常識とも言えるほどの、熱心さをもって、聖書のこと、信仰のことを知ろうとしている姿である。
        • それらを知りたいと言う「渇望」がイエス様を支配していた。
        • 今私たちに、否、いつでも私たちに、一番欠けているものは何か? それはみ言葉、聖書のこと、神様のこと、信仰のことを知ろうとする心の渇きの欠如である。
        • もっと言うなら、み言葉を中心に、人生を築こうとすることへの渇きの欠如である。
        • ルカの福音書10章最後の部分の物語を思い出して頂きたい。お客の接待に忙しく、ストレスでイライラしていたマルタが、イエス様のひざ元で座り込んで、イエス様から聖書のお話しを聞こうとしていた妹のマリヤについて文句を言ったときのことを。
        • イエス様は言われた。「マルタよ。マルタよ。あなたは多くのことに心を用いて思い煩っています。しかし、無くてはならないものは多くない。否一つだけである」と。
        • もっともっと聖書を読み、聖書に聴く人になりたい。
        • ここで、イエス様の姿を聖書はどのように描写しているか?イエス様は、「教師たちの真ん中に座って、話しを聞いたり、質問したりしておられ」た。
        • イエス様は、神の子として、神童として、天才少年として、学者たちをうならせるような、「講義」「講演」「演説」をしていたのではなかった。
        • むしろ、人間として、もっと知りたいという謙虚で熱心な学徒の姿であった。
      5. 私たちもそうありたい。
        • パウロは言う。「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストの言葉による」(ローマ10:17)と。
        • かつて、この教会で信仰を持ち、今は日本にいる一人の婦人は、初め礼拝に来なかった。むしろ、聖書の学び会に来られた。それも、人数が少ないときにより喜ばれた。理由は質問が自由にできるからであった。
        • 質問があるということは、関心があるからであり、また普段も考え、勉強しているからである。
        • 皆様には、礼拝に来て頂きたい。そこでしか、学べないことがあるからである。しかし、礼拝で神様のことばを学ぶだけでは十分ではない。
        • 信仰の成長のためには、個人的に、少人数で、質疑応答の可能な「聖書の学び会」が必要である。
  1. 52節を見て頂きたい。
    1. 「・・・・」。
    2. そこには、私たちが必要とする人生の二組の「バランス」が記されている。
      1. 「イエスさは、ますます知恵も進み、背丈も大きくなり」:そこには、「知恵」の成長と「背丈」の成長、即ち、人格的・霊的・信仰的な成長と肉体的な成長
      2. 「神と人とに愛された」とあるように、私たちの信仰面と社会面の成長である。
  2. このバランスの取れたイエス様の姿勢は、イエス様が聖書の教えの中で何が一番大切かと尋ねられたときのお答えの中にも見られた。イエス様の御答え:
    1. 一番大切な戒めは、神様を人生の全部をもって愛すること
    2. 第二もこれと同様である。それは隣人を愛することである。
    3. イエス様は、更に言われた。「神を愛する」ことと「人を愛する」こと、と言うこの「両方」が、「律法の中心」であると言われた。
    4. 言い換えるなら、「神を愛する」ことと「人を愛する」こととは「一つ」である。即ち、
      1. 人を愛することに結果しない、神への愛はない。同時に、
      2. 神様への愛がないとき、人への愛は、しばしば、所詮、「自己中心な愛」の「延長」でしかない。と言うことである。
  3. 私たちは、もう一つのバランスについてもクリスチャンとして、心を用いるべきである。それは、「信仰と肉体」の健康のバランスである。私たちはともするとどちらかに偏り易い。
    1. クリスチャンとして陥り易い誤り:心さえ健康であれば、肉体は所詮、地上のもの、どうでもよいと、肉体を奴隷のように酷使する姿勢。
      • 的場姉:「先生はそういう(医者の進言を聞かない)牧師じゃないですよね?!」
      • 第一コリント3章16節「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか。」
    2. クリスチャンでない方々の陥り易い誤り: 見えない心より、実際の体の健康や容姿がもっと大事だと思う。何だかんだ言っても、肉体の命があっての「ものだね」、人生とする姿勢。
      1. でも、重度の障害者である星野富弘氏は言う:「命が一番大切だと思っていたとき、生きるのが辛かった。命より大切なものがあると知ったとき、生きるのが嬉しかった」。
      2. イエス様も言われた。「体を殺せても、魂を殺せない人たちを恐れてはなりません」(マタイ10章28節) 魂の大切さを言っている。
    3. ある人は、ついつい体の健康をなおざりにする。一方、ある人は、体のことばかりに時間とエネルギーと資材を使う。バランスを取りたい。
  1. 50-51節を見て頂きたい。
    1. 特に51節「それからイエスは一緒に下って行かれ、ナザレに帰って両親に仕えられた。」
    2. 「今年は、成長するゾーッ」と言うと、今までとは違う、何か特別なことをしなければならない。今年中に何か特別な結果を産みださなければならないと気負ったり、焦ったりする。
    3. しかし、ここにあるイエス様の姿には、そのようなものは一つもなかった。
  2. ここに見るイエス様は、当時12才でありながら、やがて30才で、救い主として、人々の前に出る日を、一つの目標として成長して行かれるイエス様であった。しかし、そのためにイエス様がされたことは、
    1. エルサレムで経験した興奮とはほど遠い、余り夢や希望の持てないナザレの村に戻られた。
    2. しかも、50節に「しかし両親には、イエスの話された言葉の意味が分からなかった」とあるように、色々なことを理解してはもらえなかった両親と一緒に生活するためであった。
    3. そこで、イエス様がなさったことは、両親に仕えることであった。それは恐らく:
      1. 早く亡くなったと言われる父親ヨセフの代わりとなって、長男として家計を支えることであった。勿論、父親が生きていたときも仕事を大いに手伝ったことも意味した。 
      2. それと関連して、6人ほどいたと思われる弟妹の面倒を見た。
      3. そして、それをその後18年間にもわたって続けられたのである。
      4. しかも、イエス様は、他にすることが無かったから、そうしていたのではない。救い主として皆の前に現れると言う重要な使命と人生の目的をもっておられたのである。
    4. 即ちイエス様にとって、成長するとは必ずしも特別な新しいことをすることではなかった。むしろ次のことを真にするべきだと確信するまで、今やっていることを自分のことを分かってもらえない無理解な人々の間であっても、忍耐と謙虚さをもってやり続けることであった。

結   論

2017年が成長の年であるようにと祈りつつ!

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。