世界の王として生まれたお方
- マタイの福音書2章1-12節 -
2022年12月25日 佐野レインボーチャペル
聖書
マタイの福音書2章1-12節
序 論
- 少し前の話であるが、あるアメリカ人クリスチャンが、クリスマス・シーズンに日本を訪ねたが、そのとき、そこで見た光景に大きなショックを受けた。
- それは、日本では、12月に入ると、町中が、文字通りに「クリスマス、クリスマス、クリスマス」で、正にクリスマス一色になる光景であった。その人は言った。「もし、日本と言う国をよく知らない外国人が、これを見たら、『日本はクリスチャン国だ』と間違いなく思ってしまうだろう」と。
- それと対照的にというか、皮肉なことであるが、かつては、万民に、「キリスト教国」だと思われていたアメリカが、今や、12月、クリスマスシーズンに、「ホリデーおめでとう/Happy Holiday」とは言えても、「クリスマス、おめでとう」を言うのは、結構気を遣う時代になってきた。
- そのような状況を生み出す理由の一つは、キリスト教は、アメリカ、ヨーロッパのもので、アジア、アフリカ、中近東、その他の地域には、それぞれの文化や宗教があるから、それを尊敬して、余り「クリスマス、クリスマス」と押しつけるべきではないという考えが結構広がっているからである。
- 現に、ユダヤ人の間では、同じ時期に、彼ら独自の「ハヌカ」と呼ばれる祭りが祝われる。
- ここでクリスマスに関して声を大にして言いたいことは、聖書の教える宗教・信仰は、後に欧米に広がってキリスト教として発展したが、元々は、西南アジアが発祥の地だと言う事実である。
- だから、キリスト教、イコール、西洋の宗教というような考えを捨てて頂きたいのである。
- そこで、今日は、クリスマス、即ち、イエス様の誕生について記す聖書記事から、救い主イエス様の誕生の目的は、単にユダヤ人のものではなく、欧米は勿論のこと、私たちを含めた世界中の人々のためであったことをご一緒に確認したい。
- そのために、今日、ご一緒に読みたい聖書の箇所は、マタイ2章1-12節である。
- それは、有名な「東方」と言われる遠方の地から「博士たち」と呼ばれる人々が、遥々、イエス様の誕生を祝い、礼拝するためにやって来たという記事である。
- 彼らは、恐らくペルシャ地域の領主に、星の動きの研究を通して、政治顧問として仕える政府の高官であったであろう。
本 論
Ⅰ.今も、申し上げたように、この博士たち来訪の記事は、私たちに、「イエス様が、単にユダヤ人のための王ではなく、私たちをも含めた、『世界』の救い主、王である」と確信させる。
- 本出来事を記した「マタイの福音書」の第一読者が皮肉にもユダヤ人であることはその逆説的証明である。
- マタイ福音書の執筆目的は、イエス様が、ユダヤ人たちに、彼らが長く待ち望んで来たメシヤであることを知らせることであった。
- だから、その福音書の冒頭に、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」というユダヤ人の伝統的「系図」を提示し、イエス様がユダヤ人の子孫であることを強調した。
- また、その直後、マタイは、イエス様の誕生が、「処女が身ごもって男の子を産む」という旧約聖書イザヤの預言の成就であることを記している。
- これだけからすると、正に、イエス様はユダヤ人の救い主と言う感がある。
- しかし、その同じマタイが、遂にイエス様が誕生したとき、即ち、今日の聖書箇所に、
- そこには、ユダヤ人は皮肉にも一人もいなかったことを記す。ユダヤ人は、王様も、貴族も、宗教家も、一般人も、誰もいなかったのである。
- マタイが記したのは、正反対に、遠方からの外国人博士たちの来訪だけだった。
- 3.神様は、わざわざ、天の星を用いて、遠方の外国から、イエス様の誕生を祝い、礼拝するためにこの博士たちを招かれたのである。しかし、これ以上の違和感があるだろうか?!
- マタイ福音書の執筆目的は、イエス様が、ユダヤ人たちに、彼らが長く待ち望んで来たメシヤであることを知らせることであった。
- なぜ、神様は、御子の王・救い主としてのに、この外国人博士たちを招かれたのかをご一緒に考えたい。
- 「東方からの博士たち」と言うが、どこのこと、どこの国、どこの地域の人々か?
- それは、ペルシャ、メソポタミア地域、チグリス・ユーフラテス川流域のことで、
- 今で言うイランのことである。
- ここで一言:世界平和上、いつもネックとなる中東問題の究極的原因は、欧米諸国/イスラエル/アラブ・モスリム諸国背後の3大「一神教」間の宗教対立にあると言う考えについて。
- 彼らの宗教については:
- キリスト教の神はキリスト、ユダヤ教の神はヤーウェー、アラブ人、モスリムの神はアラーで、それぞれ三つの絶対的唯一神教が、頑なに競い合い、世界に問題を起こしている。「だから宗教は嫌だ。多神教の方がマシだ」と思っている人も少なくない。
- しかし、神様の数を増やしたところで、あやふやさだけが残り絶対的な真理は得られない。
- そもそも、これら三大唯一神教は共通の根を持っていた。ユダヤ教とキリスト教は、旧約聖書全体を共通の土台としているし、
- キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、みなアブラハムを信仰の始祖と仰ぎ、この3つの宗教とも、モーセ5書と呼ばれる旧約聖書の根幹的部分を信じ、受け入れている。
- 更には、モスリムの方々に叱られるかもしれないが、そもそもアラーとは、語源をたどるなら、日本語なら神、英語ならGODに当たる超越的存在を表す一般名詞であるが、後に、モスリムの間で神様の固有名詞として用いられるようになった。
- 結論的に言うなら、彼らの争いは歴史の中で生まれた「親類の争い」であって、これら世界3大唯一神教は、同じ神の下にひれ伏すことを神様は期待しておられる。
- 私たちの信ずる聖書の神様は、どこか一つの地域、国、部族の神ではない。創造の初めから全世界の神であった。アダムもイブも世界人であって、ヘブル人/イスラエル人でもない。
- 民族の区別は「バベルの塔事件」以降であり、ヘブル/イスラエル民族的誕生はアブラハム、国家的には少なくともモーセ以降であった。
- しかし、神は、創造の初めから、今に至るまで、いつも全世界を愛して来られた。イスラム人、アラブ人、イスラエル人、ヨーロッパ人、アジア人を、区別なく等しく愛して来られた。
- それゆえ、この王なる救い主、イエス様の誕生は、
- 単にユダヤ人のためではなかった。博士たちが、「ユダヤ人の王として」と言ったとき、
- その意味は、「ユダヤに生まれる世界の王」であった。
- イエス様は、一つの部族の救い主ではない。一つの民族、一つの国家のお抱えの守り神や、守護神でもない。イエス様は、部族、民族、国家を超えて全世界の神であり、救い主である。
- だから、このことを示すために、神様は「東方の」、即ち、今で言うならイラン人、アラブ人、モスリムの方々にあたる博士たちに、救い主の誕生を知らせ、礼拝に来るように招かれたのである。
- 「東方からの博士たち」と言うが、どこのこと、どこの国、どこの地域の人々か?
Ⅱ.人々がこのような世界の人々のための救い主を求めている証拠について少し触れたい。
- ウィリアム・バークレーという聖書学者は、その聖書注解書に、この東方から来た博士たちの来訪と礼拝について、それが当時の世界の人々が、求めていることであった証拠を挙げている。彼は言う:
- ヴェスパシアヌス皇帝の治世に、歴史家スエトニウスはこのように記した。「東方諸国一帯には、昔から揺るがぬ信仰があった。それは、その頃ユダヤから世界を支配する者が出現するということであった。」 更に、また
- 更に、タキトゥスという歴史家を引用して言う。「人々が固く信じていることは、・・・その頃、東の国が強力になり、ユダヤから出た支配者が全世界を包括する帝国を築くということである」と。
- このような信仰が生まれたのは、恐らく、この博士たちもそうであったろうが、ユダヤ人がバビロニヤ、ペルシャに捕囚の民として滞留していたとき、周囲の人々に聖書の教え・預言が浸透し、それがやがて当時の世界に広まって行ったと言われる。
- それでは、世界の人々は、どんな王を求めているのか?
- 東方からの博士たちは、こう言った。「ユダヤ人の王として、お生まれになったお方は、どこにおいでになりますか?」と。
- 彼らが求めていたのは、彼らの王様、世界の王様となって治めてくださるお方であった。
- しかし、それは決して政治的な王様ではなかった。もし、政治的な王様を求めていたのなら、
- 第一に、王家の人々が住むエルサレムにある宮殿を訪ねて行った時、そこにいないことが分かっただけでなく、結局は、ベツレヘムと言う小さな町の小さな家に、たまたまナザレのど田舎から来ていたみすぼらしい、貧しい夫婦に生まれたばかりの男の子を見たとき、「その子を拝むようなことをしただろうか?」。少なくとも常識的、人間的に、それは考えられない。
- 第二に、逆に、彼らが、そのみすぼらしい夫婦に抱かれたイエス様を、政治的な王と見たのなら、彼らのしたことは、自らの王への裏切り、背信行為である。しかし、彼らの行動には、その気配さえ感じられない。むしろ、聖書は、彼らが、イエス様を礼拝した後に、再び何もなかったように、自分たちの王のところへ戻って行ったと記している。
- これらのことは、博士たちが求めていた王は、東方の国の王様や、ユダヤの国の王様(当時ヘロデ王)と言う政治レベルの王様でない、それを超えた、それとは別の王様であったことを意味していた。
- 彼らの求めていた王は、むしろ、もっと実存的な王様であった。簡単にいうなら、それは、心の王様であり、人生の王様である。
- 言い換えるなら、それは、人種の違いも、文化の違いも、時代の違いも超えた、人間としての普遍の実存的な世界における王であった。
- それは、王様を表す英語の一つであるRulerと言う言葉にも意味・暗示されているように、私たちに、人生の、人間としての基準や方向、目標・目的を与えてくださるお方である。
- この東方からの博士たちは、そのような王を求めて、遥々と東方の地から来たのであった。そして、イエス様の中にその王の姿を見て、喜び、満足し、受け入れ、礼拝し、自国に戻ったのである。
結 論
- あのときも、今も、世界中の人々は、あの博士たちのようにこのような王様を求め、必要としている。
- その王こそ、King of kings, Lord of lords 王の王、主の主と呼ばれるイエス・キリストである。
- このイエス様の誕生を記念するクリスマスに、あなたも、イエス様をあなたの心と人生の王として迎えないか?
- もし、すでにそうしておられたなら、益々、イエス様を、王として崇め、王として信頼し、王として従い、忠誠を尽くし、仕えて頂きたい。
身近な経験からも、一言、証ししたい。
- それは、あの2011年3月11日、大地震が東日本を襲ったときのこと、そのニュースがこちらに届いたときのことを忘れることができない。
- ご存じのように、それは、私たち米国にいた日本人には勿論のこと、世界中の人たちの心に大きなショックを与えた。
- すぐに、当地の時間で、金曜日の朝、私たちがコミュニティー・センターで、「小羊キッズ」のプログラムをしていたとき、地域の2-3のTVのリポーターがカメラマンと共に訪ねて来て取材したことにもビックリしたが、もっと驚いたことがあった。
- それは、その次の週の火曜日、コミュニティー・センターの英会話クラス中に、ロックビルにある、イスラム人のコミュニティー・センターを代表して、立派な花と慰めの言葉を記したカードをわざわざ持ってきてくださった。
- そして、その年のクリスマスに、驚くべきことに、この東方からの博士たちの絵の入ったクリスマスカードが、同センターから送られてきた。
- 私は、それを、みなどこかで、一つの神の下に、一つになりたいという願いの顕れと解した。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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