喜びを支える三本柱:ピリピ教会への手紙から(2)
- ピリピ人への手紙1章1-7節 -

2022年11月13日 佐野レインボーチャペル

聖書
ピリピ人への手紙1章1-7節

序  論

  • 数年前、ランカスターで勉強している10数名の若者たちを、当時のワシントンDC郊外の我が家に一泊二日でお迎えする機会があった。
  • 嬉しかったことは、それより2年ほど前にお会いしていた青年との再会であった。彼は、最初に会ったときは、キリスト教に対して極めて批判的・懐疑的であった。
  • 一行には、到着した晩と翌日、ワシントン観光して、ランカスターに戻る前に、ユニオン・ステーション地下のフードコートで夕食をした後との2回、聖書からのメッセージを伝えるチャンスを頂いた。彼もそこにいた。
  • そんな彼が、2年ぶり、2回目にお会いしたときには、イエス様を救い主と信じるクリスチャンになっていた。そのとき、彼は17歳であった。丁度私がイエス様を信じた年齢であったこともあり、親近感を覚え、感激して、その夕、彼らに、今一度、私が17歳で救われたときの証をさせて頂いた。
  • 私は、高校2年生の三学期の冬、1966年1月23日に、主イエス様を救い主として心に迎え入れた。その日から私の生涯は変わった。次の三つのことが与えられたからである。(1)罪に打ち勝つ力、(2)人生の目的が与えられた、(3)喜びが与えられた。
  • 特にこの三番目は、当時の私には大きな変化であった。私は、喜びが欲しかった。でも、それにはいつも外からの刺激が必要であった。即ち、喜びのためには、いつも何か楽しいことをしていなければならなかった。いつも何か良いことが私の生涯と生活の中に起こっていなければならなかった。
  • それは、丁度、犬が尻尾を振って喜ぶためには、美味しい餌がそこにあるか、散歩に連れて行ってもらうか、撫でてもらっていることが必要であるのと同じであった。
  • このように、喜びには、それなりの恵まれた条件・状況が必要である。それが常識である。
  • しかし、ここにその常識を覆す人物がいた。彼は、喜びをもたらす理由も環境も無いのに喜びに溢れていた。それがパウロであった。
  • 即ち、パウロは、その信仰のためにローマ政府の手により囚われの身となり、死をも覚悟するという、常識的に、人間的に言って、とても喜べる状況ではないのに、その環境の中でしたためたピリピ教会への手紙の中で、16回も「喜び」という言葉を使いながら、喜びに溢れた彼の心境を証している。
  • これは、単なるお話の世界のことではない。彼は、単に理想論を語ったのではない。むしろ、パウロは、その生涯に実際に起こった、彼が実際に経験した事実であった。
  • それは、また彼の生涯の主であるイエス様の生涯に似ている。イエス様も極刑である十字架につけられる前の晩に、これから何が彼の生涯に起こるかをすべて認識しておられながら、「・・・」(ヨハネ15:11、参照16:24)と言われたのである。
  • 何故、パウロは、イエス様に倣って、そのような生涯を送ることができたのか? 私たちは、その秘密をこの喜びに溢れた獄中書簡ピリピ書の中から学ぼうとしている。
  • 先週は、その第一の理由・秘訣を学んだ。それは、彼が、「喜び」と「祈り」と「感謝」と言う「霊的三角関係」を把握し、よく祈り、また祈られ、更によく感謝する人であったからであった。
  • 今日は、彼を喜びの人として支えたもう一つの理由・秘訣、「霊的三本柱」について学ぶ。

本  論

  1. これは、パウロが、私たちの霊的生活において、最も大切な三つの要素として強調した点である。 それが、あの有名な聖句第一 コリント13:13に記されている。「・・・」
  2. この3つが揃っているとき、私たちは強い。喜びの人にもなれる。
    1. 「三つよりの縄は切れない」と言うように、一本や二本では簡単に切れてしまう紐も、三本合わせられると、強靭になり、そんなに簡単に切れなくなるように、信仰と希望と愛が私たちの人生に揃うとき、私たちは強くなり、いかなる状況の中でも喜べる人になれる。
    2. あるいは、それは、写真撮影等に使う「三脚」にも譬えることができる。一本や、二本では駄目だが、足が三本揃うとき、安定した、しっかりとした土台ができるように、信仰と希望と愛と言う三脚が私たちの人生に揃うとき、磐石な信仰生活、揺ぎ無く、喜びの泉が溢れる人生を送ることができる。
  1. それは、私たちの「信仰生活」を完成させてくださるお方として神様を信じる信仰である。ヘブル書の記者も12章2節で同じことを言っている。「信仰の完成者」
  2. 物事というものは、頭だけで考えたり、口で言ったりしている間は簡単であるが、実際に始めることは難しい。しかし、もっと難しいことは、それを継続し、完成して、最後までやり遂げることである。
  3. 信仰もまた同じである。信仰を最後まで貫く、やりぬくことは、決してやさしいことではない。
  4. そして、このことにおいて、多くの人がパウロのような信仰を持っていないので、
    1. 自分がクリスチャンとして、試練や誘惑の中でも、死ぬまで信仰を全うできるか心配している。
    2. 自分の信仰に自信が無く、自分は駄目だ、足りない、といつも自分の信仰を卑下している。
    3. このような人には、喜びが無い。神様ご自身が、私たちの信仰を全うしてくださると言う神様に対する信頼・信仰は、喜びに先行する。
  5. イエス様もハッキリと私たちの霊的生活の確かさは、私たちの意志の強さや努力にあるのではなく、神様ご自身の選び、即ち、神様の意志と責任の中にあると言われた。
    1. それが、ヨハネ15章16節である。
    2. 本田弘慈先生の説明
  6. 西郷の証:信仰を持った直後に、非常に熱心になって、両親が心配を始めたとき、祖母が言った言葉、「純ちゃんは、何をやっても飽きるから、心配しなくても、信仰のことも、直ぐに飽きるから、大丈夫」と言った。
    1. 申し訳ないが、祖母は間違っていた。それは、最初にも申し上げたように、1966年の初めの出来事であり、それから、56年の月日が流れたが、今も私は信仰を続けているだけでなく、益々熱心になっている。
    2. 嬉しいことに、逆に、その祖母も、それから数年後に、私と同じ信仰をもった。
    3. 祖母が間違ったのは、なぜか? 理由は簡単である。私たちの信仰を確かにしているのは、わたしでなく、神様だからである。即ち、
      1. 私があらゆる状況の中で信仰を継続し、ここまで来ることができたのは、一重に「神様」が、私の背後・内側で、私を支え助けて来てくださったからである。
      2. それは、また、ヘブル12章2節の主張と同じである。
  7. このように、喜びの人生の背後には「信仰」が必要である。
  1. ここで「喜び」を生み出す愛としてパウロが紹介しているのは「アガペー」の愛である。
    1. ここで、パウロが使っている愛と言う言葉は、神の愛を表すアガペーであった。
    2. それは、エロスと呼ばれる、男女間の性的、肉欲的な愛とは別の愛である。
    3. それは、また、フィリアと呼ばれる、人間の愛としては、最高の夫婦愛、兄弟同志の愛、親子の愛、等々とも別のものである。
    4. エロスやフィリアと呼ばれる愛は、英語でも、日本語でも同じ「愛」と呼ばれるが、これらは、みな人間の愛である。それゆえ、人間性の限界と罪のために、アガペーと呼ばれる神さまの愛とは、全く違い、大きな一線を画したものである。
      1. 聖書は、神様の愛を「惜しみなく与える愛」として語っているが、有島武郎は、小説家として、人間の愛を「惜しみなく奪うもの」として描写している。
      2. また、人間の愛は、みなどこか条件つきである。即ち、「・・・だから」(because)の愛である。美しいから、やさしいから、背が高くて格好がいいから、金持ちだから、親切だから、いい人だから・・・・等々である。
      3. しかし、聖書が示す神の愛は、Despiteの愛である。即ち、にもかかわらず、あるいは、No matter whatどのような条件の中でも、変わらない愛である。即ち、無条件の愛である。否、無条件どころか、悪条件でも、罪びとでも、悪人でも愛する愛である。
      4. このような神の愛、アガペーの愛は、神にそむき、神に反逆していた罪びとである私たちを赦し、救うために、御子であるキリストが、十字架にかかって死んでくださることによって、明確に私たちに顕されたのである。
    5. パウロは、ここで、このような神の愛、アガペーについて語っているのである。
      1. 私たちが、この世的に優秀であるからでも、魅力があるからでも、道徳的、あるいは、宗教的に優れているからでもなく、私たちが、どうであろうと、あるがまま、そのまま、背伸びしたり、振りや無理をする必要もなく、無条件に愛してくださるお方の愛、アガペーについて語っているのである。
      2. パウロと共に、私たちは、このような無条件の神の愛、アガペーの愛をもって愛されているのである。そのことを知るとき、丁度、無条件で母親に愛されている子どもが、いつも安心して無邪気に喜んでいるように、いつも無条件で喜んでいることができるのである。ここに、パウロの喜びの秘訣があった。
      3. 8節「キリスト・イエスの愛の心をもって」を見ると、パウロは、この愛をイエス様の中に見出し、更に頂いて、周囲の人々に広めていったことが分かる。
  2. パウロは、更に、この神の愛について、それは、バランスの取れた愛として、私たちの中で、成長し、他の人と分かち合っていくべきものであることを語っている。
    1. パウロは言う。「あなた方の愛が、真の知識とあらゆる識別力によって、愈々豊かになり」と。
    2. 私たちは、愛と言うと、とかく情的な面だけで捕らえやすい。即ち、「熱心である」と言うような、愛のもたらす情熱的な面だけを強調しやすい。勿論、この面は、愛の大事な要素である。
    3. しかし、それだけだと、「愛は盲目」と言われるように、罠に陥る。
    4. だから、この愛が、正しく互いの間で、伝えられて行くためには、バランスの取れた成長が大切なのであるとパウロは言う。
    5. それはパウロが真の知識と識別力と呼んでいる愛の知性面とのバランスである。
    6. それは、丁度、少し前に、第二 コリントの5章13節で、「クリスチャン人生の二面性」として学んだことに通じる。正気である自分と正気でない自分の区別である。
    7. 真の知性と識別力に裏づけされない、ただ情熱的だけの愛は、しばしば、かえって人を傷つけたり、誤解を招いたりしてしまう。
    8. ポール・リースと言う説教者は、この箇所のコメントとして、このような例話を紹介している。
      1. 宗教改革者たちに二種類の人々がいた。第一の人々は、カールシュタット、ミュンツアーに代表される人々であり、第二の人々は、ルターやメランヒトンに代表される人々であった。
      2. どちらも神様にアガペーの愛をもって愛された人々であり、また、自らも神様を愛した人々であったが、後者は、キリスト教の歴史に大きな貢献をして、後世に名を残したが、前者はまもなく歴史から消えていった。
      3. なぜ? 歴史家は、前者が、愛の情熱面にだけ急ぎ過ぎ、人間として、宗教者としての教育面や常識面を無視、軽視したことにあると評価する。
      4. もう一つの例話は、リース博士のご両親のことである。彼らはクェーカー派の信徒であったが、その信仰と神に対する愛のゆえに、彼らは一切の装飾を身につけることを虚飾、贅沢として、結婚指輪さえ拒否した。
      5. しかし、後に彼らは変わった。結婚指輪を身に着けるようになった。なぜか、彼らは結婚指輪を身につけないで歩くことの方が、不謹慎であると考える人々、文化の中に生きるようになり、人々に対する知識と理解、識別力を働かせて、彼らに対する愛の表現として指輪を身につけることを選んだのである。
    9. このような健全でバランスの取れた理解力、判断力に裏付けられた愛の中でこそ、安定した、健全で、永続する喜びの人生が生まれ、育まれていくのである。
  1. 即ち、パウロの希望は、やがて死んだ後に、神の栄光の御座の前に立ち、さながらマタイ25章の譬えに出てくるような、神様から「よくやった」と言うお褒めの言葉を頂くことであった。
    1. パウロはそのことを、同じピリピ人への手紙、2章16節、3章19-21節でも語っている。
    2. 更には、第二 テモテ4章6-8節でも語っています。
  2. 度々引用するように、ビクトル・フランクルというユダヤ人の心理学者が、有名なその著書「夜と霧」の中で書いているように、過酷、熾烈なナチの強制収容所の中で、生き延びた人々の共通した特色は、「希望」を持ち続けることが出来たかどうかであったという。
  3. 人は、みな普通何らかの希望を持って生きている。しかし、しばしば、その希望があっという間に思わぬ環境の変化と共に吹き飛んでしまうのである。
    1. ナチの収容所に入れられたユダヤ人も同じであったであろう。
    2. 戦後すぐの頃の八王子の自転車屋のおじさん:自分は教育も、教養も無い、一日中、油まみれになって働くしがない自転車屋。息子だけには大学に行ってもらって、出世して欲しい。そんな夢と希望を持って一生懸命、コツコツとまじめに、朝から晩まで働いた。近所でも評判の働き者だった。しかし、その息子が突然、大学時代に交通事故で亡くなったな。そのとき、彼のすべての希望が失われた。彼は、その日以来、酒びたり、飲んだくれの怠け者になった。
  4. 大切なことは、動かない希望、不動の希望、失われない永遠の希望を持つことである。
    1. パウロは、上記で見たように、それを持っていた。
    2. だから、捕まろうと、投獄されようと、死刑にされようと、人から批判されようと、誤解されようと、物事が自分の思ったとおりに行こうと行くまいと、たとい物事に失敗したかのように見えても、そして、最後に、万事休すの事態に陥ったとしても、それでも、見失ったり、消えてしまうことのない、永遠、不動の「希望」をもち、それを見続けながら人生をひた走りに走っていた。
    3. ここに、パウロが、いつも喜んでいることができたもう一つの秘訣、理由があった。

決  論

  • 信仰と愛と希望、これより大切なものはないと聖書は言う。
  • これら「霊的三本柱」に支えられるとき、私たちは、あらゆる状況の中で、たといそれが、獄中であっても喜びの人生を歩むことができるのである。
  • 神様は、私たちもまた、パウロのように、この三つを追い求めるものとなることを期待しておられる。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。