何を喜ぶ!?:ピリピ書(3)
- ピリピ人への手紙1章12-21節 -

2022年12月4日 佐野レインボーチャペル

聖書
ピリピ人への手紙1章12-21節

序  論

  • 今日の日曜日はキリスト教の暦では第二アドベント・サンデーである。日本語では待降節と呼ばれるが、アドベントはイエス様のご降誕を祝うクリスマスの霊的な準備のために4回の日曜日があてられている。
  • その間、教会では、アドベント・キャンディーと呼ばれる4本のロウソクに一本づつ灯がともされる。その一本一本に象徴的意味が込められている。その意味とは、イエス様によって与えられる「希望・平和・喜び・愛」の四つの祝福である。
  • 私たちはこの礼拝で(私の担当の時)、今、タイムリーにピリピ書を通して「喜び」について学んでいる。
  • さて、今年も愈々12月に入った。12月は日本の古い表現では「師走」と言う。「普段、威厳をもって歩いている教師・先生でさえ、12月になると、無事、年を越せるようにと、借金返済、金の工面のために忙しく走り廻る」と言う意味である。今は違うが、昔の「先生」のイメージは、貧乏の象徴でもあったからである。
  • 今年の暮れは、世界中を取り囲むインフレ、また、ウクライナ戦争の影響による物不足、更には、円安が追い打ちをかけ、全商品と言いたいほどの軒並み物価高騰。
  • ところが、この円安・ドル高、ここ数日、状況が逆転している。正に、価値の乱高下である。
  • Amusement Parkの人気の「乗り物」に、日本で、昔、「ジェット・コースター」と言った乗り物がある。
  • 「ジェット・コースター」のことを英語では、「ローラー・コースター」と言うが、この英語の言葉は、しばしば、私たちの毎日の生活の中で、激しく上がったり、下がったりする感情や、激しく浮き沈みする人生の状況を表現するのに用いる。最近の為替の状況にそっくりである。
  • この点で、最近の遊園地の「ローラーコースター」は、よく私たちの人生模様を表している。見ていると、単にアップ&ダウンどころではない。ひねりが入り、アップ・サイド・ダウン、と言うか、全くひっくり返ったりしながら、すごいスピードでアップ&ダウンしながら回っていくのである。
  • パウロも、ローラーコースターのような人生を送った人であった。ユダヤ人のリーダーとして、地位も名誉、名声、財力を欲しいままにした日々もあったであろう。正にそれは、人生の頂点であった。しかし、パウロが、クリスチャンとなり、それらのすべてを失った。それは、人生のどん底のときと言って良かった。しかし、パウロの人生はそこで終わらなかった。彼はクリスチャンとしての新しい人生を切り開き、クリスチャンのリーダーとして名声を博し、慕われ、また、物質的に富んだ日々もあったようである。即ち、再び、彼は頂点に立ったと言える。しかし、今、再び、その信仰と果敢な宣教活動のために彼は、ローマ政府の手によって、囚われ、投獄され、死をも覚悟する身となった。再び谷間に落ちたのである。
  • それは、正にローラーコースターの人生であった。普通であったら、そのような環境的なローラーコースターの中で、感情的にもローラーコースターを経験するものである。
  • しかし、パウロは違った。彼は、そのような外面的、環境的なローラーコースターを経験しても、その内面的、精神的な面、心の中は、ローラーコースターではなかった。むしろ、彼の心の中には、いつも「喜び」という、クリスチャン人生の中でも、また人間としても、最も輝かしい特色が溢れていたのである。

本  論

  1. それは、まず当然、囚人として捕縛され、投獄されるという経験そのものから来る試練であった。
    1. まともな市民、栄誉ある市民であった人物が、後ろに手が回るとか、手錠をかけられる、囚人服を着せられ、鉄格子の中に入れられると言う経験は、どんなに屈辱に満ちたものであろうか。屈辱と言う苦渋、苦難は、私たちにとって決して小さいものではない。
    2. 更に、囚人としての投獄は、彼の自由を奪った。仕事を始め、彼がしたいと思っているあらゆるものを彼から奪った。
    3. それは、また彼を孤独にした。
    4. そして、彼に、様々な肉体的な苦痛をも与えた。特に当時の牢獄はしばしば英語でdungeonと言われるジメジメした暗い洞穴のようであったから。
  2. しかし、彼が経験した投獄による苦痛は、これらだけではなかった。それは、もっと耐え難い精神的、内面的な苦痛であった。
    1. パウロは、それについて、1章15~17節でこのように言っています。「15人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。 16一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、 17他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。・・・・」
      1. ポイントは、17節の最後、「投獄されている私を更に苦しめるつもりなのです」である。
      2. 即ち、パウロは、ここに明らかに、投獄自体、牢獄生活自体も、決して楽なものではないことを認めた上で、
      3. ある人々が、その上に、彼を更に苦しめることをしていると言っているのである。
    2. それは何か? 
      1. 投獄されて、何も言えないパウロのことを、弁明できないことを良いことにして、陰で、遠くで、批判し、自分の方に人を集め、パウロに敵対する分派を作っていることであった。
      2. しかも、それが功を奏しているのを知って、彼らは、益々、熱心になってそれをしている。
      3. 更に、彼らは、その熱心を、キリストのため、キリストの宣教のためという美しい目的のためと見せかけているが、
      4. 実は、自分の名声のためであり、パウロへの妬みへの反動からしていることであった。
    3. 考えてください。普通なら彼の中に起こる当然の反応は何であったか? 
      1. 「私が、悪く言われている。あんなに批判されたら、もう誰も私について来なくなる。伝道もできなくなる。やり難くなる」と言う個人的なイライラであり、不安であったであろう。
      2. また、「アー、悪い利己的な動機で、自分の自己中心のために、偽善的な動機と行為で、イエス様のことを伝道しているのに、すべてがうまくいっている人、栄えている人がいる」と言う、正義感から来る怒りとフラストレーションであったであろう。
    4. この後者の苦しみ、不安、イライラ、フラストレーションは、前者のいわゆる外的な迫害、苦しみ以上に、もっとパウロを苦しめたのである。
    5. 現に、同様の心境と苦境は、詩篇73篇の作者によっても表されている。「1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。5 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。」
  3. このように、普通の人なら、ここで精神的に完全に参ってしまう。喜びどころではない。しかし、パウロは、なお喜んでいるのである。そのことが18節に記されているのである。「18すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」
  1. 私たちも、しばしば、感情的なのローラーコースターを経験するが、
    1. そんなとき、しばしば考ることは、「私は、何でこんなに有頂天になっているのか?」「何をこんなに喜んでいるのか/嬉しいのか?」、あるいは、その反対に、「私は何でこんなに落ち込んでいるのか?」 「何でこんなに不安なのか?」「なぜ、こんなにフラストレーションを感じているのか?」である。 
    2. そして、その何かがハッキリしないまま、しばしば、何となく、感情や気分のままに、ローラーコースターのように感情の起伏に振り回されていることが多い。
    3. しかし、それらを落ち着いて分析してみると、みな、その中心に「自分」がいることを、しばしば発見する。
      1. 自分がよく言われ、よく扱われ、よく認められている限り私たちは、喜び、満足し、安心して、落ち着いていられる。
      2. しかし、逆に、自分が無視され、悪評され、悪し様に扱われると、あるいは、危険に晒されるとたちまち、喜びと平安を失い、イライラしてくる。
      3. 即ち、ローラーコースターの原因は、「私」「自分」である。「自分」がどうされるかで決まってしまうのである。
      4. 即ち、「自分」というものがある限り、私たちは、環境や状況のローラーコースターの奴隷である。
  2. 実は、ここに、パウロが、いつも喜んでいられた理由があった。
    1. 即ち、パウロがいつも喜んでいられたのは、彼が、「自分」が、どう扱われるかによって、一喜一憂するところから解放されていたからであった。
    2. もう一度18節を見たい。「18すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」
      1. ここを見るとき、彼が、何を喜んでいるか、また、彼が喜んでいる理由が分かる。
      2. 彼は、ここで、自分がどうなっているか、自分がどうされているか、自分がどうのこうのと言うところから、全くかけ離れていることを「喜んで」いるのである。
      3. 彼は何を喜んでいたか? 「キリストが宣べ伝えられている」ことを喜んでいたのである。
    3. これが、彼がいつも、如何なる状況下にあっても喜んでいた理由、秘訣であった。
      1. 肉体的に投獄されても、精神的に悪口、不評を浴びせられても、パウロは、そこに最早、一喜一憂する理由を持っていなかった。
      2. 彼の関心は、むしろ、20節にあるように、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストの素晴らしさが現されること」であった。
      3. だから、彼は、自分が「投獄」されても、そのことによって、12-13節にあるように、ローマ兵、しかも、「親衛隊」というローマの高級将校たちのような人々にもキリストが宣べ伝えられたら、それが喜びであった。「12さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。13私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、」
      4. また、14節にあるように、自分の「投獄」という苦難よりも、それが、教会の兄弟姉妹たちを、かえってキリストをもっと大胆に宣べ伝えることへの励ましになっていることを見て、むしろ、それを喜んだ。「14また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」
      5. 更には、先ほども見たように、15節以下にあるように、間違った動機であっても、そのことが、自分の悪評につながっても、誰によってであれ、どこの団体、どこの教会によってであれ、とにかく、キリストが、益々、熱心に宣べ伝えられているなら、それで十分であり、それが、パウロの喜びであった。
      6. パウロには、人を批判したり、評価したり、自分の評判を気にしている暇も余裕もなかった。彼は、全人格と全時間を使って、ただキリストが崇められ、宣べ伝えられることだけに関心があった。
    4. これが、パウロがいつも、どんなときにも喜んでいることができた理由であった。

そんな生涯に入ることは出来ない、無理と、ある人は言うであろうが・・・

  1. 答えは、「自分に死ぬこと」によってである。
  2. 「死ぬ」と言う言葉、概念は、ネガティヴであり、消極的、否定的であるために、「生きる」という言葉や概念と比べて、Unpopularであり、余り歓迎されないであろう。
  3. しかし、パウロは、その手紙の中で、何度も、信仰的に、あるいは、霊的に、「死ぬ」ことを、信仰の中心課題として強調している。
    例を挙げると・・・
    1. ローマ6:3-7「3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5 もし私たちあ、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」
    2. ガラテヤ2:20「20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
    3. ローマ6:11「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい(計算しなさい)。」
  4. クリスチャン生涯において、「死ぬ」とは、どういうことか? それは、自分に死ぬことである。
    1. ローマ6:6で、それは「古い自分が十字架につくこと」だと言っている。
    2. 「古い自分」、即ち、自分のために、自分の意思を通し、自分が中心になって、自分が崇められ、ほめられ、自分がどう言われ、自分がどうなり、自分がどう扱われるかを最大の関心事にして生きてきた古い自分に死ぬこと、これがイエス様の十字架の目的であった。
    3. それは、罪、即ち、罪の本質である「自己中心」に対して死ぬことである(ローマ6:11)。
    4. しかし、それは、決して、自己の否定ではない。神様の傑作として造られた「私」は、否定されてはならない、永遠の存在である死ぬべきなのは「古い自分」「自己中心な自分」である。(参考:ガラテヤ2:19-20「十字架でキリストと共に死んだ私と今も生きている私」)
    5. むしろ、古い自分に死ぬとき、パウロのように自分に死んでいるので、その人の関心は、自分ではなく、キリストであり、自分が投獄されても、悪評されても、キリストが崇められ、讃えられ、宣べ伝えられているなら、それが彼の喜びとなる。ここに喜びの秘密がある。
  5. 即ち、自己中心の古い自分に死に、そこから解放され、いかなる状況でも喜ぶ生涯へと変貌するための第一歩は、上述ガラテヤ2:19-20、ローマ6:3-7のように、「イエス様の十字架で、私も死んだのだと信じる(思う、みなす、認める、計算する)」ことである。
  6. パウロは、更に、ピリピ1章19節で、このような生涯、即ち、如何なる状況の中でも、古い自分に死に、全くキリストに委ねて喜びの生涯を生きるために、もう一つ必要かつ重要なことがあると言う。「19というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」
    1. 「祈り」と「聖霊」の必要である。これらは、二つの別のものとも言えるが、中核は「聖霊の助けを求める祈り」である。今日のメッセージでは、このことについて多くを語る時間はないが、ご自身の十字架・復活後に、イエス様が弟子たちに遺言のように言い伝えられたことは、最急務として彼らがご聖霊に満たされることを祈ることであった。
    2. パウロは、ローマ人への手紙8章13節で、「もし、御霊の働きによって、からだの行いを殺すなら」と言っている。即ち、パウロは、御霊の働きによって、肉的な、神様に逆らおうとする私たちの自己中心的な傾向を殺すことができると宣言する。
    3. だから私たちは、罪、自己中心、古き自分に死んで、そこから解放されるために、まず御霊、即ち、聖霊の満たしを祈る必要がある。
    4. それだけでなく、その後も、み言葉への信頼と服従を通して、聖霊の流れの中にいつも身を置いて、自らの魂を継続的に清めて頂くよう祈る必要がある。
    5. この祈りは、単に、個人的なもので終わらせてはならない。この19節でパウロが、ピリピ教会の人々に彼のために祈ることを期待しているように、自分のために、牧師のために、友人のために、他の何事のために祈るに勝って、彼らが聖霊に満たされ、その助けを得るよう祈り合いたい。

決  論

  • ジョン・ウェスレー:彼についての悪い噂が新聞に流されようとしたとき、弟のチャ-ルスから、そんな噂が流れたら伝道の妨害となるから差し止めるように忠告されたとき、ジョン・ウェスレーは、「チャールス、私が神様にすべてをお捧げしたとき、評判も捧げたのではなかったか」と静かに言ったとのこと。
  • これが、自分の評判をも含めて、すべてを神に捧げ、ただ神が崇められることだけを求め、そこに喜びを見出している人の姿である。
  • イ・チソン:23歳で車で事故に合い(全面的に相手の車の非)、全焼する車の中から奇跡的に救われるが、全身の55%の火傷。7ヶ月にわたる入院。10数度にわたる手術。にもかかわらず、彼女の体も顔も事故以前を想像することもできないほどに変わってしまった。そのような中で彼女は喜びに輝いている。その彼女は言う。「私の人生は、本当はあの事故で終わっていた。今の人生はおまけ、エクストラ。おまけなら何でも感謝できる。だから、私は、神様の下さった今の人生を感謝して生きている」と。
  • 私たちの人生も同じ。イエス様の十字架で、私達の人生も終わっていた。私たちもあそこで死んでいたのである。今の人生は、エクストラと言える。だから、キリストと共に、自分に死んだものとして、自分ではなく、キリストの崇められることだけを喜びとして生きるものとなりたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。