愛し合う教会:私も受けたのだから
- 列王記第二7章1-20節 -
2022年10月23日 佐野レインボーチャペル
聖書
列王記第二 7章1-20節
序 論
- 「愛し合う教会」、それは、教会の永遠、且つ、普遍の目標である。そのために私たちがなすべきことの一つは、「良きものを他の人と分かち合う」ことである。
- 今日は、私たちが、互いによきものを「分かち合う」教会、またクリスチャンとなるためのレッスンとして、列王記第二7章からメッセージを頂きたい。
この聖書箇所の歴史的背景:
- アラムの王ベン・ハダデが、北王国イスラエルの国を包囲し、7年間にも及ぶ農作物の不毛に加えての大飢饉が、イスラエルの国の首都サマリヤを襲っていた。国民全体が死を覚悟するほどの大飢饉であった。
- 敵に囲まれ、おまけに食糧不足の深刻さは尋常ではなかった。
- それは、食糧価格の異常な高騰を招き、ハトの糞までが手の出ないような高値で売られ、
- 挙句の果てには、食べるものに困った二人の母親が、飢え死にから自らを守るために、実の子供を自分たちの食糧として、分け合って食べるという信じられないような悲劇が起こるほどであった。
- しかし、そのとき、神の人預言者エリシャが、突然、驚くべき預言をしたのである。「明日の今頃までに、全く事態は変わり、食糧が有り余るほどになる」と。
- しかし、そこにいた王の側近は、とてもそれを信じることができず、「あり得ない」ことと嘲笑し、嘲笑った。その不信仰を嘆き、エリシャは、「残念だが、あなたは、明日の今頃、神によって奇跡的に与えられる膨大かつ豊かな食糧を目の前にしながらも、それを味わうこともなく、死んでいく」と預言した。
- それから間もなくの出来事であった。普段は、身を隠して生きていたツァラアト(今で言うハンセン病?)に冒された人4人が、町の入り口の門に現れた。当然のことながら、彼らも、普通の人以上に食糧難で悩み、死をも覚悟していた。
- しかし、彼らは、どうせ死ぬなら最後に何かをしようと、最後の勇気と体力を搾り出そうとしていた。
- 彼らは思った。町の中に入って同胞のイスラエル人のところに行っても、どうせ食べ物は無い。飢え死にするだけだ。
- 「町の外に出て行って、食糧のあるアラム人のところに行っても、殺されるであろうが、もしかしたら殺される前に、少しでも食糧にあずかれるかもしれない」と、最後の賭けをするように、アラム軍のいる方向に向かった。
- しかし、その少し前に、既に、神様は先のエリシャの預言の成就のために働いておられた。即ち、神様は、アラム軍に、あたかも、多くの馬や戦車が押し寄せて来たかのような幻聴を与えた。それで、アラム軍の兵士たちは、不安を覚え、錯覚を起こし、エジプト軍やヘテ軍がイスラエル軍の援軍として来たと思い込み、怖くなって、持っていた食糧、衣料、財宝、武具・武器のすべてをそのまま置き去りにして、我先に逃げてしまったのである。
- そこへこの4人のツァラアトの病人たちが何も知らずにやってきた。
- 初めは、アラム軍の「罠」かと疑った彼らであったが、徐々にその心配も取れて、アラム軍が残していったものを楽しみ始めた。
- 一杯食べた。飲んだ。沢山の金銀宝石、衣料、あらゆるものを自分のものとして隠した。それは正に天にも昇るような興奮した経験であった。
- しかし、突然のようにして、彼らは目覚めた。この祝福はすべて神様からのものと自覚し、神様に対する感謝の心を具体的に表す必要と
- 頂いた神様からの愛と祝福を、周囲の人々に分かち合う責任に目覚めた。
- 彼らはそれを実行した。即ち、彼らは、良い知らせ、また神様からの祝福を独り占めしないで、他の人と「分かち合ったのである」。
- 間もなく、その知らせを聞いた群衆が町から溢れるようにその場に殺到し、豊かな祝福にあずかった。かくして、食糧危機は終わり、イスラエルの人々は救われた。これが今日の聖書の背景である。
- 先ほど申し上げたように、今日は、この聖書箇所から、私たちが愛を分かち合う教会・個人となるためにどうすればよいかを三つのステップとして学びたい。
本 論
Ⅰ.その最初のステップは、まず、自分自身が、神様からの愛と祝福を経験することである。
- 私たちは、他人を愛する人になる前に、まず自分自身が愛されていることを経験し、確信しなければならない。
- 私たちは、人に「与える」前に、まず、「受ける」必要がある。
- 私たち人間の究極的使命、幸せ、栄光は、無限の祝福を持っておられる神様からの祝福を人々に与え、届けることである。
- しかし、そのためには、まず、その神様からの祝福を、自分自身が受ける、経験する必要がある。
- 今日のテキストにある、あのハンセン病の4人の人物も、自分たちがまず、その祝福と喜びを経験したからこそ、人々にそれを分かち合うことができたのである。
- では、私たちはどのようにして、その神様からの祝福を受けるのか?
- それは、まず「渇望する」ことから始まる」。即ち、自分が何も持っていない、貧しい、無力な者であることを自覚することから始まるのである。
- 私たちがしばしば神様からの祝福を受け入れられない、或いは受け損なう理由は、「自分は何ものも持っていない無力な存在」であるという自覚の欠如である。
- 即ち、私たちが神様の祝福を受けられないのは、私たちが絶望的に必死になって(DESPERATELY)、無力感から神様を求めることの欠如・不足からである。
- 私の知っている教会、比較的近くの教会の牧師が、電車の駅に教会の看板を出した。そのキャッチ・フレーズは、「来るなら。絶望してから来い」であった。
- その牧師は、人は自分の弱さ、無力さに絶望して、初めて本当の信仰の必要に目覚め、真剣に助けを求め、神様から祝福を受けることができることを知っていた。
- 今日の聖書箇所に出てくるイスラエルの人々、特にサマリヤの町の人々も、神様の祝福を受けるために、まず自らの絶望的無力状態を自覚しなければならなかった。その絶望的状態が、冒頭でもまとめたように6章25-30節に記されている。即ち、
- それは、数年に及ぶ農作物不作からの「飢饉・飢餓」と、打ち続く劣勢な戦況状態からの深刻な物価の高騰と食糧不足であった。
- それは、25節にあるようにロバの頭が銀80シェケル、ハトの糞3-400グラムが銀5シェケルで売られるという極端な経済的インフレを引き起こした。
- 更には、6章26-30節に記されている二人の女性がそれぞれの子供を煮て食べようとするなどという霊的・精神的荒廃・頽廃と混乱が起きていたのである。
- このような絶望的状態の自覚、「自分/自分たちは、何も無い。無力な存在である。自分の力や努力ではどうにもならない。」と言うへりくだった自覚こそが、イスラエルの人々、サマリヤの人々が、神様の大きな祝福を受ける最大の準備であった。
- イエス様は、あの有名な山上の垂訓の冒頭、マタイの福音書5章3節で言われた。「心の貧しい人は幸いです。天国、神様の祝福はその人のものです」と。
- W.バークレーによると、ギリシャ語には「貧しい」と言う意味の言葉が二つある。「ペネース」と「プトーコス」である。
- (2)その内、「ペネース」は「極貧ではないが、金持ちでもない」と言う程度の意味であるが、この箇所でイエス様が用いた貧しさを表す「プトーコス」と言う言葉は、「極度で、惨めな貧しさ」、即ち文字通り、「無一文、持ち物0」と言う意味であった。
- (3)この真理こそが、正にここで言われていることである。神様の祝福を受けるために、私たちに必要なことは、自分には何も無い。全く無一文のものであること、霊的破産の自覚である。
- だからパウロもコリント第二 12章9節でイエス様の言葉を引用してこのように書いている。「私の力は、弱さのうちに完全に顕されるからである」と。
- ブルックリン・タバナクル教会の牧師ジム・シンバラは、その著書の中でこのように言う。「神様は、不思議なくらいに弱さを自覚している人に惹かれる」と。
- それは、自分が裸になることも含んでいる。あらゆるプライドを捨てて、自分のありのままを神と人との前に曝け出す人である。神様はそこにご自身の力を顕される。
- 次に、神様から祝福を「受ける」ために必要なことは、神様は、自分の生涯に、必ず、すばらしいことをして下さるという信仰である。
- 神様は、私たちがそのような信仰を持つことを期待して、イスラエル、サマリヤの人々に、エリシャを遣わし、このように言わせた。7章1節「・・・・」。
- 即ち、神様は、イスラエル、サマリヤの人々に、その絶望的な状況の真っ只中で、信じられないほどに素晴らしい約束を預言者エリシャを通して与えられた。
- しかし、そこに居合わせた王の侍従(側近)は、それが信じられず、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」(7章2節)と嘲った。
- それに対して、エリシャは、「・・・・」、即ち、「あなたは、神様とその言葉を信じなかったから、その祝福を受けられない」と言ったのである。
- ヤコブは言う。「・・・疑う人は・・・主から何かをいただけると思ってはなりません」(ヤコブ1章6-7節)
- イエス様も、信じることの大切さについてこのように言われた。「・・・」(マルコ11章22-23節)。
- キリスト教信仰における「信じる」ことの大切さは誰もが知っている。しかし、多くのクリスチャンたちの信仰は、しばしばイエス様を救い主と信じ、受け入れるところで終わってしまっている。
- 言い換えるなら、「神様を信じる」と言うことが、単に「自分がクリスチャンになる」「自分の宗旨をキリスト教にした」ということと置き換えられて、終わってしまっているのである。
- クリスチャンになった後のクリスチャンの実際生活において、「神様を信じ」て生きるということが、ほとんど有名無実になっているのである。
- 18-19世紀の英国を中心に一世を風靡した神学思想があった。それは、「理神論」(Deism) と呼ばれるものである。その神学体系はこのように主張する : 神様は、確かにこの世界、宇宙を造られ、その造られた化学的・物理的法則・原理によって、それらは今も動いている。しかし、神様は、この世界・宇宙を、今はそれらの法則と原理に任せ、直接的には最早関与しておられない。即ち、私たち人間の一つ一つの細かい、具体的なことには、いちいち関わっておられない。言い換えるなら、神様は、一人一人の都合や事情から生まれる「祈り」に一々答えることは必ずしもしないと主張するのである。
- 私たちは、そのような「理神論者」ではない。確かに、神様が、私たちの祈りに答えてくださると信じている。少なくとも、そう口では言っている。しかし、実際に私たちは本当に、「神様が必ず祈りに答えてくださる」と信じているだろうか?
- 「物事がうまく行く、状況が良いと、信じる信仰」、「物事がうまく行かない、状況が悪いと、信じない信仰」ではないか?
- 「多少の困難はあるが、このくらいのことなら、自分も努力した上で、神様が助けて下さる可能性は十分にある」と思えるときだけ、「神様を信じて祈りましょう」と言う。これが私たちの信仰ではないか? それは、いつも「自分を安全な場所においた」上での信仰である。
- そのような信仰の中では、祈りが答えられたときでさえ、クリスチャンだから「神様が祈りに答えてくださった」とは言うが、そのことが、自分の努力や能力のせいか、祈りの答えなのか、それとも、自然な流れでたまたまそのようになったのか、極めて曖昧な感覚しかもてない。
- このように、私たちの信仰は、いつも、ほとんど「常識の範囲内」に留まっている。だから、その問題や状況が、とてつもない困難なことであると、「それは、そもそも御心ではない」と、初めから、それを祈りと信仰の対象からはずしてしまうのである。
- しかし、今日の聖書の箇所で、神様が、イスラエルの人々、サマリヤの人々に求められた信仰は、そんな程度のものではなかった。神様は、人間的、人間の常識では、考えられないようなことをエリシャに預言させ、それを信じるように求められ、期待されたのである。
- イエス様も、上述したように私たちに「山が海に移る」ことを信じる信仰求められた。詩篇81篇10節でも神様は言われる。「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」と。
- インドへの偉大な宣教師であり「近代宣教の父」と呼ばれるウィリアム・カーレー(William Carey)は、“Expect great things from God. Attempt great things for God.”と言って、私たちが、もっと大胆な信仰を持つように挑戦している。
- 私たちが、神様の大きな愛と祝福を人々に与えるためには、まず自分がそれを受けなければならない。そのために必要なことは、まず、自分の無力さを自覚することである。更に、神様をもっともっと大胆に信じて生きることである。
神様の愛と祝福を人々に届けるために、
Ⅱ.次にすることは、頂いた神様の愛と祝福を「感謝」することである。
- 聖書は、何回も、わたしたち人間が、如何に「神様に対する感謝」に「欠如」しているかを指摘している。
- その典型的な例は、「10人のハンセン病の人々がいやされた」事件である。
- 10人全員いやされたのに、神さまに「感謝」したのはたった一人だけであった。
- しかも、それは、ユダヤ人ではなく、サマリヤ人であった。今日的に言うなら、クリスチャンが感謝せずに、ノン・クリスチャンが感謝していることにも言い換えられる。
- イエス様は、この「感謝」の気持ちを具体的に表すために、わざわざ戻ってきたサマリヤ人の姿に本当に感動し喜んだと共に、
- 感謝を心に思い浮かべたかもしれないし、また口で他の人々に言ったかもしれないが、実際にそれを形で表すべく戻ってこなかったユダヤ人についてあからさまな失望を表された。
- またイスラエルの人々がエジプトを出て40年間荒野をさまよった理由は、イスラエルの人々の罪にあることを聖書は指摘しているが、その罪の一つが、彼らの「感謝」の無い姿であった。
- 彼らは、食べ物がない、飲み物がない、等々、困ったことにぶつかるたびに神様に祈った。そして、神様はあわれみ深くそれらの祈りに答えられた。
- 彼らは、それを頂いて当然のこととして喜んだ。しかし、すぐにそのことを忘れ、感謝することもなく、また、同じような問題にぶつかると不平を言い出すと言う生活を繰り返した。
- このように私たちは、すぐに「感謝」を忘れる。だから、聖書は、何度も繰り返して、私たちに「感謝する」ことを命じ、奨めている。
- その典型的な例は、「10人のハンセン病の人々がいやされた」事件である。
- 今日のテキストの9節で、この4人のツァラアトの人(ハンセン病の人)たちは、「今日は、良い知らせの日」だと言った。
- それは、受けた「祝福」に対する彼らの「感謝」の表現であった。
- 彼らは、その時まで、受けた祝福である有り余るほどの食糧を何時間も何時間もかけて食べたり、飲んだりして楽しんだ。そして、銀や金、衣料品を、自分たちのものとして取っておくために、どうするか、どこに隠すかで一杯で夢中であった。
- すなわち、頂いたものを楽しむことで一杯であった。
- しかし、ここに来て、やっと、彼らは立ち止まって考えた。自分以外の人・事に目を向け始めた。
- 「そもそも、何故、今このすばらしい祝福がこの目の前にあるのか? それは、神さまが下さったからである。これは良い知らせ、GOOD NEWSである!!」と、初めて、この祝福の源泉である神様のことを考え始めた。
- だからこそ、もし、これを他の人とシェアしなかったら、その神様から罰せられると感じ始めたのである。
- 即ち、彼らは、ただ、受けたものを喜んでいるところから一歩進んで、神様に感謝を捧げることに目覚めはじめた。
- このように、神様の愛と祝福を人々に届けるために必要な第二歩は、神様に感謝を捧げることである。
- 私たちは人に対しては一杯感謝するが、神様に対する感謝は、時間的にも、物質的にも、2番目、3番目、と後回しにしがちである。
- 私たちは、時間的にも、物質的にも、まず最初に神様に感謝するものでありたい。
最後に、私たちがするべきことは、
Ⅲ.神様から頂いた愛と祝福を、他の人々とシェアすること、他の人に届けることである。
- 7章9-10節:そこに自分たちの受けたものを他の人たちとシェアする姿を見る。
- 私たちは、自分が頂いた神様の愛と祝福を味わい、楽しむところで留まってはならない。
- その与え主である神様に対する感謝へと進まねばならない。
- しかし、そこで留まってもならない、私たちは、それを他の人々に伝える、届けるところまで、更に進まねばならない。
- それは、まず、ここで彼らがしたように、彼らが受けた神様からの「物質的」な祝福を他の人と分かち合うことである。
- この世界には貧しい人と富んでいる人がいる。持っているものに差がある。しかし、それらはみな与えられたものである。そのことについては、パウロも第一 コリント4:7で言っている。
- 多く与えられた者は、少ない人とそれを分かち合うことが、神様の御心である。初代教会はそれを実行した:使徒の働き2章45節,4章34-35節。
- 愛し合うことの一つの形はこういうことであろう。
- 共産主義は、このこと(富のRedistribution/再分配) を社会的規制・体制・法律によって実施しようとし失敗した。聖書は、それは、一人一人の愛による自発的なものに期待している。
- 資本主義が、共産主義より、経済体制として長生きできたのには理由があると思われる。共産主義が神様とその愛を否定したのに対し、資本主義は、その神様からの愛の精神を当然の社会的な背景(理論的には二つは全く関係ないであろう。むしろその意味では共産主義の方がキリスト教に近い?と言えるかもしれない)として生まれ、発展してきた。
- それゆえキリスト教の愛と言う精神的バックグランドの中で生まれ、育ってきた「資本主義」が、もしそのキリスト教の愛という精神的バックグランドと土台を失ったら、それは、「利益」のみを追求する巨大な化け物であり、遅かれ早かれ自己崩壊することになるであろう(残念ながら、それが今起こっている)。
- 即ち、一方で、ひたすら「利益」を追求する資本主義があり、他方で、その利益を、自発的な愛によって再分配していく姿勢とのバランスがあってこそ、社会が成り立ち、発展して行くのである。
- キリスト教の愛のスピリットが希薄になってくるとき、金持ちは益々金持ちとなり、貧しいものが益々貧しくなって、共産革命前夜のような不安定な社会が生み出されていくのである。
- 今、私たちは、物質的にも、もっともっと互いに思いやるコミュニティー、社会を造って行く必要がある。
しかし、そのような物質的な援助・分かち合いは、人間にとって、更に大切なものを分かち合うための準備に過ぎない。
- 私たちが他の人々と分かち合うべき、更に大切なものとは、私たちがイエス・キリストにあって神様から受けた霊的な祝福である。
- 即ち、私たちに永遠の命を与える、イエス・キリストにある救いの福音を、人々と分かち合うことである。
- それは、端的に言うなら、福音を伝えること、即ち「伝道」であり、「宣教」である。
- 人々に、イエス様のことを伝えること、
- イエス様が自分にしてくださったことを証しすること
- 教会に、集会に、クリスチャンの交わりに人々を誘うことである。
- 伝道や宣教は牧師や宣教師だけがすることではない。クリスチャン全員がするべきことである。
- なぜなら、牧師や宣教師だけでなく、クリスチャンたち「全員」が、この祝福を同じように受けたからである。それは、丁度、あの4人のハンセン病の人たちが、社会的にそういう立場や地位にあったから人と祝福をシェアしたのではなく、唯一つ、自分たちもそれを受けたからと言う理由でそれをしたのと同じである。
結 論
- 私たちが、互いに愛し合い、よきものを分かち合う個人、クリスチャンとなり、また、教会となるために、(1)まず、自分が思う存分、愛と祝福を享受することである。(2)次に、それを神様に感謝することであり、(3)最後に、実際かつ具体的に、それを他人と分かち合うことである。それには、物質的な分かち合いと霊的な分かち合い=伝道・宣教がある。
- 必要に応じて、物質的な分かち合いを教会内の人々、教会外の人々に対して具体的に実行することを祈って行きたい。
- また、みなが果敢に、忠実に、個人で、また協力して、伝道・宣教をする教会となりたい。
- これが「愛し合う教会」の姿である。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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