人生を変える真夜中の賛美
- 使徒の働き16篇16-34節 -

2022年10月9日 佐野レインボーチャペル

聖書
使徒の働き16篇16-34節

佐野レインボーチャーチ特別礼拝(16周年記念・Gピアノ献納)佐野レインボーチャーチ特別礼拝(16周年記念・Gピアノ献納)

序  論

  • 今日は、この教会の創立16周年記念と共に、グランド・ピアノの献納記念と言うダブルの意味を兼ねた特別礼拝である。特に、ピアノに関しては、ご寄贈くださった岩崎さんに改めて心から御礼を申し上げたい。このピアノが、今後、愈々、教会の賛美の大きな力となることを確信している。
  • 教会、信仰者の歴史において、賛美は、いつも信仰の中心であった。古くモーセとイスラエルは、出エジプトの折、紅海の奇跡を眼前にし、国を挙げて賛美した。ダビデは竪琴の名手として苦楽の人生のただ中で、実に多くの信仰の歌を作り、歌い、自らと人々を励ました。彼は、今で言うシンガーソングライターであったかもしれない。また、「詩篇」が証しするように、旧約時代の神殿礼拝から始まって、殊に中世・近世におけるキリスト教の繁栄と音楽は切っても切れない関係がある。
  • 賛美は、かつて戦争・戦火をさえ、一時的とは言え、留めてしまうことさえあったと聞く。
  • 今日は、賛美が、一人の人生を、もっと具体的には、一人の自殺未遂者の人生を、全く180度変えてしまったノン・フィクション・ストーリーを聖書からお伝えしたい。
  • 彼は、エーゲ海を南にするマケドニア州の都市ピリピの町の公務員の一人で、具体的には、牢屋の看守・番人であった。

本    論

  1. 結論的には、彼は、ここにおられる大半の方々とさほど変わらない、人生と生活に「安定」を求めるごく「普通の人」であった。
    1. そもそも「私たち人間は幸せを求める動物である」。そんな私たちが求める幸せの条件の一つは、「生活の安定」である。私たちは「安定した生活」を求めるのである。
    2. それは、女性が求める結婚の条件、と言うか結婚相手の男性に求めることにも表れている。
      1. 昔は、「3高」と言った:三つの高いものをもった男性、即ち、学歴が高い、給料が高い、そして、背が高いであった。
      2. ところが、その後変わった(今はもっと変わっているかもしれないが)。以前とは逆に「3低」と言われるようになった。即ち、
        1. 低姿勢(やさしい)、
        2. 低依存(自分のことは自分でする、やたらに妻に頼らない)、
        3. 低リスク(安定した収入を与える職業に就いている)である。
      3. この最後の「低リスク」、その結果としての「安定」こそが、正に多くの人が、結婚でも、何でも、生活と人生の中で、求めていることである。
  2. この牢屋の番人も、「安定」を求める人間の一人であったが、その証拠を見たい。
    1. 生活の安定を求めるため、彼は、何が何でも「仕事」に対して忠実であった。
      1. 23節,24節を見て頂きたい。
      2. その日、パウロとシラスと言う二人の伝道者が、彼らの信仰のため、宣教活動のために、捕らえられ、罰として、上着をはぎ取られた上で、何度も鞭打たれ、恐らく血だらけ、瀕死に近い状態で、囚人として牢に放り込まれて来た。
      3. 彼の仕事は、そのパウロとシラスをしっかりと、「厳重に」見張るようにと言う、ローマの上級役人たちからの命令を忠実に果たすことであった。
      4. 彼は、傷だらけ、血だらけのパウロとシラス、恐らく、彼にも、パウロとシラスは見るからに善人、聖人と分かる風貌であったであろう。しかし、二人を見ても、何の同情を示すことなかった。そして、
        • 「厳重に・忠実に」言われた通り、彼らを牢屋の一番奥に押し込み、
        • しかも、更に、血だらけに傷ついた足に、更に、重い足かせまでかけた。
      5. パウロとシラスは確かに囚人であった。そうされるのは当然であった。しかし、この二人に対する周囲の囚人たちの姿と比べるとどうか?
        • 後にも触れるが、周囲にいた他の「ならず者」たちとも言える荒くれの囚人たちは、パウロとシラスが真夜中に苦しみの中でも、振り絞るように声を出して祈り、賛美する声に聞き入っていたのである。
        • 普通だったら、「うるせーぞ、この夜中に。眠れやしねえ。静かにしろ」と怒鳴られるのが関の山、普通である。
        • それなのに、怒鳴るどころか、眠りもしないで、目をパッチリ開け、耳を澄まして聞き入っていたのである。
        • 更には、地震で牢屋の鍵が壊れ、扉が開いてしまったときも、「大脱走」のチャンスだったにもかかわらず、彼らは逃げようとさえしなかったのである。彼らの心の内に霊的な大きな変化が起き始めていた証拠である。
        • パウロとシラスの姿と振る舞いは、傷だらけの中でも、それほどに周囲の人々に聖なるインパクトを与えるものであった。
        • それなのに、この牢番には、たとい囚人とは言えパウロとシラスに、そのような同情や、配慮を表わそうとした様子は微塵もなかった。
        • 私たち夫婦を育ててくれた牧師中原は、戦時中、天皇陛下を神と拝まなかったために投獄された。その体験をよく話してくれた。その中で聞いたことであるが、同じ囚人でも中原が、普通の囚人とは違い、善良であることを知っていた看守は、しばしば、中原に、そーっと、色々な便宜を図ってよくしてくれたとのこと。しかし、この看守にはそのような心は全く無かった。
      6. この牢番は、パウロとシラスがどんな人物であるかよりも、自分の仕事を忠実にこなすことの方がより重要であった。それでただひたすらそれを実行した。
      7. それも、これも、生活の安定のためであった。牢番と言う政府の役人としての仕事、命じられたことを果たすことが、彼の人生の最優先であった。
      8. こんなことを聞いたことがある:日本で「刑務所の所長」として任命されたとき、彼らの任期中、一番大切なことは、より良き「改善・改革」を計画し、果たすことではなく、「問題を起こさない」無難な仕事をすることであると。
    2. 既に触れたが、そのため彼は時折、心にポップ・アップして来る、人間として、クリスチャンとして、「これで良いのか?!」と言う内なる声を無視して来た。
      1. これと比べて、そこにいた囚人たち、いわゆる悪人たちであり、荒くれものたちである彼ら全員が、尊敬・畏敬の念を持ってパウロとシラスに目を留めていた。だからこそ、彼らの賛美と祈りの声に、真夜中、寝たいとき、眠たいときにもかかわらず、うるさがりもしないで、真剣・真実に耳を傾けたのである。
      2. ところが、いわゆる善人の代表であるべき番人は、どうであったか?
        そんなことには全く関心が無いと言わんばかりに寝込んでいたのである。
      3. それは、彼が、正に、神様に対して、また人生の真理・真実に対して目先の「安定」のために心を閉していた証拠である。
      4. 私も初めて福音を聞いたとき、「ここに(教会に)、また来なければならない」と感じた。しかし、その一方で、これ(信仰のこと)は良いことかもしれないが、今はその時ではない。私は、これから受験勉強を始めなければならないから。」と神の声を打ち消そうとした。
      5. クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、今も何と多くの人が、自分の生活の安定のために、心に聞こえる神様の声を無視し、かき消していることか。そして、そのうちに完全に霊的に眠ってしまうのである。
  1. その「安定」は、一瞬にして、突然の地震により、目の前から消え去ろうとしていた。
    1. 26-27節にそのことが記されている。
    2. 何が起こったのか?!地震である。
      1. それは、いつでも、どこでも起こりうる。特に日本なら極めて現実的である。
      2. 人生は次の瞬間何が起こるか分からない。ある元首相の言葉:人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして、まさかである。
        現に、日本では、東日本、熊本で既に、この10数年の間に大地震を経験した。
      3. しかし、我らの「安定」を瞬間に覆すのは、地震だけではない。大洪水、コロナ問題、リーマンショックのような経済的急変、自らのガンの宣告。
      4. この番人の場合、前述のように、この突然の地震の結果、牢の戸が全部開いて、囚人が皆逃げたと思ったのであるが、ここで彼にとっての悲劇は、彼はその責任を取るために、その囚人たちに課せられていた刑のすべてを身代わりに被らなければならなかったことである。
      5. それは、彼の職業と人生の終わりを意味した。絶望であった。
  2. なぜなら、この突然の地震は、この牢番が、長い間、注意深く、地道に努力して、築いてきた生活と人生の安定を、完全に、しかも、一瞬にして奪い得たからである。
    1. 即ち、この地震の瞬間、彼が「安定」のためにしてきたことは全部消え去り得たのである。地震であろうと、何の理由であろうと、牢の中にいる囚人を逃がしたら、法律でその囚人の刑を身代わりに負わなければならなかった。それは、現実的に、彼が地位も、職業も、給料もすべてを失い、更には、囚人として牢に入れられ、恐らく家族も失うことになる。
    2. これが、この世の安定の実態である。私たちが「安定」と言っている安定は、簡単に、一瞬にして、安定ではなくなる。即ち、私たちを支えられないのである。
    3. 私たちは、教育が、お金が、地位が、健康が、会社が、職業が、夫が、妻が、家族が、私たちに安定を与えると思う。
      1. そして、それらを必死になって、他のものを犠牲にしても安定のために追い求める。
      2. しかし、それらが与える「安定」には限界がある。
      3. 安定のため、それらに全面的信頼を求める人は必ずそれらの無力さに気が付く日が来る。
    4. この番人のように、今まですべてが順調にうまく行っている、安定した日々を送っていると思っていたとろから、絶望のどん底に奈落に落ち込み、自死さえも考える時も来る。
  1. そのプロセスのために、29-30節を見たい。
    1. そこには、今の神学の表現で言う「悔い改め」の姿がある。
    2. それは、自分のこれまでの生き方の誤りを認め、ただそうとする謙虚な姿である。これらは、この番人の次のような言動で明らかであった。
      1. この番人は、今まで聞こうとも、知ろうと尋ねようともせず、囚人として上から目線でしか見ていなかったパウロとシラスの前に「震えながら、ひれ伏した」のである。
      2. そして、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」と尋ねたのである。
      3. これらは、人間として、当時の男として、恥辱的とも言える、恥も外聞も捨てた謙虚な姿であった。
      4. このように囚人の前にひれ伏し、救いのために「何でもします」と言う姿に、自分の誤りを認め、それを悔い、新しい人生を歩みだしたいと言う、彼の悔い改めの気持ちがよく表れている。
  2. 更に、救いへのプロセスのために31節を見て頂きたい。
    1. そのようにこの牢番の心の準備ができていると見たパウロとシラスが、彼に言った言葉は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」であった。
    2. 即ち、救いの為に彼が次にするべきことは、「主イエス様を信じる」ことであった。
    3. イエス様を信じるとは何か?それは:
      1. イエス様を救い主と信じること
        • 即ち、イエス様の十字架が私の罪のためであり、「罪の赦し」のためであったと信じることである。
        • その結果、神様との関係が回復して「神の子とされた」ことを信じることである。
        • ここにこそ、私たちの人生の「永遠の安定」の始まりと基礎がある。
      2. 更には、イエス様が、イムマヌエルなる神として、常に世の終わりまで、世界の果てまで、どんなときでも、私たちと共にいて、守り、導いてくださることを信じることである。ここにもまた、私たちの人生安定の理由がある。
      3. そして、それはまた、イエス様ご自身の持つ永遠不動の「平安」と「安定」に与ることである。ヨハネ14章27節「・・・・」
    4. この牢番は変わった。
      1. 自らの安全と安定、安寧(保身)のために、他の事、心の声、神の声さえ無視してでも、ただローマ政府・ローマ市民に逆らわないように、まるで「国の犬」のように生きてきた人物が、今や、堂々・大胆に、家族と共に、ローマの世界では、まだまだ異教・異端とさえ思われていたキリストの信仰に洗礼をもって入信したのである。33-34節「・・・・」
      2. 最早、臆病な、国のイエス・マンではなくなった。今や、ローマと言う反キリスト教的、世的な文化と社会のど真ん中で、彼は勇気あるイエス様の従者となったのである。
      3. 更には、想像だが、恐らくこのときまで、彼は余り家族を顧みない、ひたすら仕事をする家族には冷い男であった。しかし、今や、信仰のことでも、家族を巻き込み、家族と共に福音を聞き、受け入れ、喜び合うほどに、家族を顧みる男となった。
      4. 「信じなさい。あなたも、あなたの家族も救われます」とは、
        • 「あなたが信じ続けるなら、あなたがイエス様に従い続けるなら、この救いは、あなただけに留まらない。必ずやあなたの家族にも及びます」と言う意味である。
        • 家族の救いは、私たち信じる者への「約束」であり、「チャレンジ」である。
        • 当時、「家族」と言うとき、家で働く使用人も含めていた。即ち、広い意味で、私たちがイエス様を信じるとき、その救いは、直接の家族を始め、私たちが属するコミュニティーに広がると言う約束、責任、チャレンジである。

結   論

  • パウロとシラスは、彼らの信仰と宣教活動ゆえの迫害による不当な逮捕、過剰な処罰と投獄などの苦難を経験し、今や牢獄の中。ところどころに薄暗いロウソクの明かりこそあれ、暗闇に包まれた、冷たい牢獄の中で、自らの体にはむち打ちの傷による耐えきれないような激しい痛みが間断なく走る、肉体的にも、精神的にも、正に「暗黒」「暗闇」の只中にいた。
  • そのパウロとシラスについて聖書はこのように言う(25節)。「・・・・・・・・・・・・」
  • この「賛美」こそが、まず囚人たちを変えた。彼らの「場外れ」とも言うべき「賛美」は、彼らの心を暖め、慰め、神を畏れることを教え、聞き入らせ、彼らを賛美に釘付けにしたのである。ハレルヤ!そこには、言葉の宣教を越えた宣教があり、彼らは、神の前に悔い改めたのである。だから、彼らは、地震で牢屋の戸が開いた時も逃げなかったのである。
  • そして、このことが、この牢屋の看守の救いを産み出した。即ち、人生の暗闇の中でのパウロとシラスの賛美無しに、囚人たちの救いも、ましてや、この看守とその家族の救いもなかったであろう。
  • この素晴らしいGピアノのご寄贈、SRC創立16周年を機に、我らも愈々、「賛美の人」「賛美の教会」となりたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。