主の祈り(10)「試みに会わせず悪からお救い下さい」
- マタイの福音書6章5-13節 -

2022年9月11日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書6章5-13節

序  論

  • 今日は、「主の祈り」の学びの10回目として、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と言う祈りについての締め括りを学びたい。
  • 今回「主の祈り」をシリーズで学んで来たが、今日で一旦締め括る。最後の「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです」の部分が残っていると思うかもしれないが、その部分は、最古の写本には無く、一般的に後に加えられたものとも言われ、説明を加えて改めて次の機会に学びたい。
  • 今日の祈り「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」は、その根底に「悪」の存在がある。「悪の存在と対処の問題」は、神学でも「神議論Theodicy」として議論されるが、人間の実存的意義を根底から揺さぶる深刻な課題である。
  • 特に、絶対的に善で義なるお方、それでいて同時に全き愛のお方であり、しかも、全能である神が、なぜ、悪魔による悪と汚れと醜さ、むごたらしさ、悲劇、矛盾の存在を、どうしてこの世に許されるのか?!と言う疑問と問題である。
  • これらの問いに対する完璧な理性的解答を私たちは持っていない。それができるのは神様だけであり、なぜ神様が今それをなさらないのかについても、神様だけが知っておられる。
  • 今日は、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と言う祈りについての締め括りとして、実践的な角度から、悪に対して私たちがどのように対処するべきかを学びたい。

本   論

  1. 最初に、「悪」とは何か?誰か?についてである。
    1. ここで使われているギリシャ語の「悪/ポネイルー」は、男性名詞・中性名詞が同形であるので、どちらの意味にもとれる。
    2. 男性名詞と取るなら、悪の首謀者、悪魔・サタンであり、中性名詞と取るなら、道徳的・非道徳的を問わず、すべての悪しきこと・悪しき出来事(惨事)・悪しき企みなどである。
  2. 次に、「救い出す」についてであるが、
    1. この語のギリシャ語の原形は「ルーオマイ」で、その意味は、守る、救う、解放するである。
    2. 即ち、「悪から救い出す」とは:
      1. 第一に、私たちを神様から離し、罪に陥れようとするサタンの誘惑とチャレンジに負けないように守り、その悪の手から解放し、勝利をくださいと言う祈りである。
      2. 第二に、様々な「悪しき出来事」「試練」の中で、それらに耐える力、逃れる道を頂くことである。これが「悪からの救い」である。
        • サタンは、ヨブの妻に、重なる試練の頂点でヨブに向かって、背教の言葉とも言える、「神をのろって死になさい」(ヨブ2章9節)と言う真意を代弁させた。即ち、サタンは、私たちが試練の中で耐えられなくなって、神様に対する信頼と服従を放棄するように誘惑して来る。
        • その意味で「悪から救い出される」とは、試練をもたらす物理的・肉体的状況から具体的に解放されること以前に、その時が来るまで、私たちがそれらの苦難と誘惑に耐え、信仰を守られ、勝利することである。即ち、これは、試練を耐えることができるようにと言う祈りである。
        • これが、正にパウロが第一 コリント10章13節で言っていることである。「・・・・」。
        • 前述のヤコブ1章2-4節でも、試練の中での「忍耐」「耐える」ことの大切が強調されている。更に、ヤコブは、5章10-11節で、試練の中でのヨブの祝福・幸いは、「忍耐」にあったと特別に言及している。(参考:ヘブル10章36節)

結   論

  • 今日のメッセージの締め括り・結論として、この世に生きる限り、逃れることのできない「試練と誘惑」にキリスト者としてどのように対処するべきかを実践的角度から箇条書きのように学びたい。
  • 第一は、少なくとも、次の二つのことを「認識」することである。
    1. まずは、私たちの敵としての悪魔の存在とその企みの現実を認識することである。
      1. 戦いにおける最大の戦略は相手に敵としての自分の存在を知られないようにすることである。
      2. 即ち、悪魔の策略は、悪魔なんかいない。悪いのは、あの人、あのこと、・・・と戦う相手、戦いの矛先を間違えさせることである。
      3. 時には、ディズニーのおとぎ話ではないが、パウロも言うように、悪魔は、光の御使いにさえ変装し、自分の恐ろしい姿を隠すのである。第二 コリント11章14節「・・・・」。
      4. このようにして悪魔は、私たちを油断させたり、敵を間違えさせるのである。
      5. だから私たちは、まず、吠えたける獅子のように私たちを絶えず狙う悪魔を、現実のものとして認識する必要があるのである。第一 ペテロ5章8節
    2. もう一つは、試練・誘惑に会ったとき、「試練を受けること、誘惑を受けることは、私たちの霊的な低さを意味していないこと、霊性とは無関係であること」を認識することである。
      1. 即ち「私が、こんな試練、こんな誘惑に会うのは、私の霊性が低いから、霊的・信仰的になってないから」「それ故神様から嫌われているからだ」との思い込みを止めることである。
      2. しかし、聖書は言う。「正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される」(詩篇34:19)と。即ち、正しい人ほど試練は多いと言うのである。
      3. イエス様も、洗礼を受け、父なる神とご聖霊の承認と祝福を受け、直ちに御霊に導かれ、40日もの断食祈祷をして、極めて霊的に高められていたと思えるそのときに、悪魔に試みられたのである。「この石をパンに変えよ。搭から飛び降りろ。私を拝め」などの誘惑である。
      4. 誰もが、どんな試練・誘惑を受ける可能性がある。寧ろ霊性の高い人ほど攻撃を受けると言える。この地上に試練と誘惑を受けないほど高い霊性はない。ヨブを見よ(ヨブ1章8節)。
      5. だから、試練・誘惑の中で、自分をいたずらに責めてはならない。むしろ、神様から愛する子として扱われていることを覚え(ヘブル12章7節)、大胆に神様に近づくべきである。
  • 第二は、み言葉、聖書の言葉をもって対処することである。
    1. 上述のイエス様が試練を受けられた時も、イエス様が悪魔と戦うために用いられたのは、全部聖書の言葉であった。即ち、イエス様は悪魔に向かって、議論するのでもなく、自分の考えや思いをぶつけるのでもなく、ただ「聖書に『・・・』と書いてある」と言って対処された。
    2. パウロも、聖言を「御霊の剣」と言う武器として用いるように勧めている(エペソ6章17節)。
    3. また、ヘブル書の著者は、試練と誘惑の中で、心と状況を整理・識別・判別するのに、最も力強いものは聖書の言葉であると言う。ヘブル4章12節。私たちも試練・誘惑の中でそうしたい。
    4. 聖書は、単にイエス様の言葉であるだけではない。イエス様ご自身である。イエス様の言葉を心に蓄えることは、イエス様を心の内に持つこと、イエス様と共に歩むこと・生きることである。
    5. そのために、もっともっと聖書を読みたい、心に蓄えたい、口ずさみたい、使いたい。
  • 試練と誘惑への対処法の最後は、ただ単純に、信じて繰り返し祈り続けることである。
    1. ここで最重要事は、そもそも「主の祈り」は「祈り」であり、祈りそのものであることである。
    2. 換言するなら、それは「使徒信条」のような「信仰告白」として、教義的/Cognitiveな意味で認知するものでも、或いは、単に霊的に「瞑想」(meditate)するものでもない。「祈り」である。
    3. それは、むしろ、毎日の生活の実践の中で、応えられることを必要とし、期待した祈りである。
    4. それゆえ、私たちは、毎日、一日を始めると共に「試みに会わせないで、悪よりお救いください」と主に祈る必要があるのである。
    5. なぜなら、既に学んだように、このことは人の力ではできないからである。私たちは、このために「祈り」において神様を引き込まなければならない。正にマタイ19章25-26節でイエス様が言われた通りである。「誰が救われる・・・人にはできない・・・神には・・・できます」。
    6. 神の言葉だからと言って、いくらみ言葉を振り回しても、祈りを持って与えられるご聖霊の働きの中で用いられるのでなければ、み言葉もどこかの人間的な格言と50歩100歩である。
    7. 祈りにおいて最も大切なことは、私たちの信仰深さや敬虔さを表す美辞麗句・霊的な言葉を並べることではない。寧ろ幼子のような単純な祈りを神の子として神様にぶつけ続けることである。
    8. 私の最も尊敬するキリスト者はハドソン・テーラーである。彼は19世紀の英国からまだ5つの港町しか外国人には開かれておらず、安全も保障されていない時代に中国に行った宣教師。後に宣教団(CIM)を設立し、家族を合わせて1000人以上の宣教師を現地に送った。無謀だ、無理だとも批判も反対もされた。しかし、熾烈な迫害の中でも絶えることのない地下教会を中心とする今日の中国宣教の基礎を築いたと言われる彼の働きを支えたものは「祈り」であった。
    9. そのことを証しする彼の言葉をもってしめくくりたい。”To move man through God by prayer alone”  主よ、私たちを試みに会わせないで、悪より救い出してください。アーメン。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。