主の祈り(9)「試みに会わせず悪からお救い下さい」
- マタイの福音書6章5-13節 -

2022年9月4日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書6章5-13節

序  論

  • 今日は、「主の祈り」の学びの9回目として、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と言う祈りについて学びたい。
  • 今回「主の祈り」をシリーズで学んで来たが、今日で一旦締め括る。最後の「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです」の部分が残っていると思うかもしれないが、その部分は、最古の写本には無く、一般的に後に加えられたものとも言われ、説明を加えて改めて次の機会に学びたい。
  • 今日の祈り「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」は、その根底に「悪」の存在がある。「悪の存在と対処の問題」は、神学でも「神議論Theodicy」として議論されるが、人間の実存的意義を根底から揺さぶる深刻な課題である。
  • それゆえ、今日も、世界中で沢山の人々が、「私の人生には何でこんなに次から次と辛いこと、嫌なこと、問題が起こるのか?!」「苦しみと不運ばかりのこんなハチャメチャな私の人生に一体何の意味があるのか!?」と、苦悩と失望・絶望の中で、存在と生きる事の意味を問う叫び声を挙げている。
  • 特に、絶対的に善で義なるお方、それでいて同時に全き愛のお方であり、しかも、全能である神が、なぜ、悪魔による悪と汚れと醜さ、むごたらしさ、悲劇、矛盾の存在を、どうしてこの世に許されるのか?!と言う疑問と問題である。
  • これらの問いに対する完璧な理性的解答を私たちは持っていない。それができるのは神様だけであり、なぜ神様が今それをなさらないのかについても、神様だけが知っておられる。
  • 今日は、これらのことを背景に、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と言う祈りについて学びたい。

本   論

  1. 原語は、「ペイラスモス」で、
    1. その基本的意味は「テストする」であるが、「試練Trial」「誘惑Temptation」の両方の意味を持つ。「試練」によってテストされ、「誘惑」によってテストされるのである。
    2. 翻訳において、「試練」「誘惑」のどちらを選ぶかは、文脈からである。
    3. その例は:ヤコブ1章である。即ち、この語は:
      1. 2, 12節では「試練」と訳され:「・・・・」「・・・・」
      2. 13, 14節では「誘惑」と訳されている:「・・・・」と訳されている。
      3. 「主の祈り」のこの部分も:日本語では「試み=試練」英語では「Temptation=誘惑」
    4. しかし、これは、考えて見ると、少し奇異であり、不思議にも見える。なぜなら・・・
  2. 「試練」と「誘惑」の二つは、同じ言葉の訳語としては、実際には、「正反対」なものを感じさせるからである。
    1. それゆえ、多くの人はこの二つの間に、下記のような「区別」をする。即ち、
      1. 試練は、神様からのもので、私たちの信仰を成長させるためのもの、自然災害、病気・事故からの肉体的損傷、経済的破綻などから来る様々な非道徳的な苦境のこと。一方、
      2. 誘惑は、悪魔からのもので、私たちを神様から離し、不道徳・不信仰の罪と生活へと落とすためのものと。
    2. これは、ヤコブ書の「神は誘惑されることも、誘惑することもない」(1章13節)という言葉にも符合し、試練・誘惑についてある程度の説明をしているが、誤解を招く面もある。
    3. なぜなら、
      1. 試練は神様からと言うが:ヨブ記1-2章でヨブに次々と降りかかったのは所謂「試練」であり、自然災害・天災、盗賊の難などなど不幸な事故の連続であり、また病であった。しかし、それらは、みな、ヨブを神様から、信仰から離す(誘惑)目的をもった「悪魔の仕業」であった(1:12、2:6)。
      2. 同様に、試練は、信仰の成長のための神様からのものと言うが、私たちは、「神様が、親の信仰を成長させるためには、試練として、小さな娘をも交通事故で無残に奪うことも辞さない」と言うべきだろうか?! ある牧師は、夫婦で牧師のカンファランスに出席中、留守を守っていた年若き娘をレイプされ、殺された。これを、神様からの試練と呼び、信仰の成長のためのものと軽々しく結論するべきだろうか?!
      3. 私たちは周囲の悪しき出来事について、なぜそのようになったか、自分が神様になったかのように、すべてを理解しているかのように説明することは注意しなければならない。
    4. そこで、「試練と誘惑」について、以下のようにまとめたい。
      1. 道徳的・霊的問題とは無関係に襲いかかる(amoralな)自然災害や事故による「試練」であれ、しばしば、その人の道徳的・霊的状態に関わりがあるかのように見える「誘惑」であれ、神学上はどちらも「悪の問題Problems of Evil」と「一括り」で呼ばれている。
      2. 即ち、それらはどちらも人間の罪の結果とサタンの仕業であること。事故と言う試練であれ、罪への誘惑であれ、神をその「首謀者」にすることはできない。ヤコブ1章13節
      3. 神様は、それらを、あのヨブ記1-2章に見るように、サタンに限定付き条件であえて許して(許容して)おられるのである。
      4. 悪魔の目的は、それが人間に「試練」と呼ばれようと、「誘惑」と呼ばれようとも、首謀者として、それらによって人間を神と信仰から離し、罪に陥れることである。
      5. 他方、神様は、それらを見守りつつ、私たちを助け、私たちが、それらの誘惑、試練と言う「テスト」に打ち勝って、信仰的に成長することを願っておられる。
      6. それが如実に示されているのがペテロの場合である。「・・・」ルカ22章31-32節
      7. 言い換えるなら、試練も誘惑も、それらに屈するなら、どちらも罪への道となり得るし、逆に、打ち勝つなら、どちらの場合も、成長と言う祝福の結果を見るのである。
  1. この言葉も、いくつかの点で、私たちにどこか「矛盾」を感じさせないだろうか?
    1. イエス様はここで「試み・苦難に会わせないで」と祈るよう弟子たちに教えておきながら、別の所で「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16章33節)と「苦難・試みに会う」ことは人生において防ぎようのない現実であると言われる。これは矛盾ではないか?
    2. 他の聖書でも、ヤコブ1章2節「様々な試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」のように試練に積極的姿勢が求められているのに、ここでは、試練に「会わせないで」と逃げるような消極的姿勢が勧められているのはどう言うことなのか?矛盾しないか!
    3. それに、私たちの人生も、「試みに会わせないで」と祈っても、それとは裏腹に、試み・試練・誘惑で溢れているのが現実である。現実との矛盾?!
  2. しかし、「試みに会わせないで」の祈りは、矛盾ではなく、明確な意味と意義、目的を持った祈りである。
    1. まず、この祈りは、試み・誘惑との戦いにおける敬虔な「おそれ」を意味している。
      1. ある人は言った。「怖さを知らない人ほど怖いものはない」と。怖さを知らない人は、無謀に走り、準備と警戒を怠り、イタズラに自分と周囲の人を危険にさらす。
      2. また、ある外科医は言った。「これまで何回も外科手術をして来たが、今でも手術の前に、恐れと言うか、緊張というものがある。ある意味で、その恐れと緊張感が、私を成功している手術医として育て、守り、成長させてくれたと思う」と。医療手術と同様、
      3. 私たちが毎日の生活で、人生で、直面する試練や誘惑は命がけの真剣勝負・戦いである。
        • それは勝っても負けても良い程度の「遊びやゲームやスポーツ」における勝負とは違う。
        • 勝つことが期待されている戦いである。なぜなら、その一つ一つが、それぞれの人生を形造る大切な一部であり、Momentであるという厳粛さがそこにあるからである。
        • パウロの記した第一 コリント9章24-27節の言葉にそれが良く表されている:「・・・・・」。
      4. 「試みに会わせないでください」と言う祈りは、そのような厳粛な人生の戦いに対する敬虔な「恐れ・畏れ」の気持ち・姿勢を表している。
    2. これに関連するが、第二に、この祈りは、私たちの「敗北」を言い表す祈りである。
      1. 試練と誘惑との戦いは、「俺は怖くないぞ!さあ、どこからでもかかって来い」と、「横綱相撲」を取るような戦いではない。
      2. この戦いは、悪魔との戦いなので(エペソ6章12節)、むしろ、逆に、私たちの立場は、「横綱の前の赤ん坊」以下である。人間的には、絶望的に勝ち目はない。
      3. そのような中、「試みに会わせないで」の祈りは、「私には、この戦いに勝つ力はありません」「主よ、私にはできません」と言う「敗北宣言」である。
      4. しかし、同時にこの宣言は、戦いの放棄でも、勝利の放棄でもない。
      5. なぜならこの敗北宣言は、悪魔に対してではなく、神様に対するものだからである。
        • 悪魔との戦いは放棄してはならない。参戦して勝たねばならない戦いである。
        • しかし、私たちは自分の力で悪魔との戦いに勝つことは絶対にできない。
        • それで、「私を試みに会わせないで」と主に祈り、万軍の将、勝利の主であるイエス様に代わりに先頭に立って戦って頂くのである。そして自分は主の陰に隠れるのである。
      6. このことが正に起こったことが、ヨシュア記5章13-15節に記されている。
        • 難攻不落の城と言うべきエリコの町との戦いを目前にして、不安と恐れの中にいたイスラエル軍の将ヨシュア
        • 彼の目の前に突然、抜き身の剣を持って主の万軍の将として現われたイエスさま。
        • そのとき主のお言葉に従ってヨシュアがしたことは何か?「足から履物を脱いだ」。それは、戦いで敗北の将が勝利の将にする行為であった。主への「敗北宣言」である。
      7. これが、「試みに会わせないで」の意味である。即ち、それは、「主よ。今日も、私ではなく、あなたが、軍の将として戦ってください」と言う祈りである。

まだ、途中なのですが、残念ながら、時間の関係で、最終部分は、次週とさせて頂くことをお赦しください。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。