一番大切な戒め
- マタイの福音書22章34-40節 -
2022年9月18日 佐野レインボーチャペル
聖書
マタイの福音書22章34-40節
序 論
- 数週前の日曜日の礼拝で、私たちは、当教会が「目指していきたい教会」の目標について、詩篇133篇を通して、神様からメッセージを頂いた。それは、互いに「愛し合う教会」である。
- それは、「教会」の目標としては、余りにCliché 的な表現とスローガンであり、それを、わざわざ、目標として「掲げても」、みんな、さほど改まった気持ちにはならないかもしれない。
- 「愛し合う教会」などというのは、余りにも、ありふれた「決まり文句」だからである。
- しかし、大切なもの、大切なことは、しばしば、「空気」や「母親の愛」のように、みんなが当たり前のように思ってしまって、特に新鮮さも感じないものである。
- しかし、それらが、新たに興味を引くものであろうとなかろうと、それらが、私たちが、クリスチャンとして、人間として生きていくためになくてならないものであるという事実は変わらない。
- 「愛し合う教会」も同じである。それがどんなに言い古された、Cliché 的な言葉と概念であっても、そのことが大切であると言う事実に変わりはない。
- 特に、聖書を読むとき、「愛し合う」ことの重要性を示すことばには、枚挙に暇がない。誰が読んでも、ノン・クリスチャンが読んでも、聖書の中心メッセージは、「愛し合う」ことであることに異論を持つ人は少ないであろう。
- しかし、「愛し合う教会」が重要であることは、みんなが、当たり前のように認めてはいても、実際には、教会の中でさえ、色々な一般的な関心や活動に追われて、しばしば、ほとんどと言って良いくらい、特に何も実行されていないことが多い。
- またしても、ワシントンの教会で洗礼を受け、今はカリフォルニアにおられる一人の婦人が、私たちを励ますためにメールをくださり言われた言葉を思い出す。「先生、私は、WAJCが大きい教会になることではなく、強い教会になることを祈ります」と。
- 強い教会とはどんな教会か? 何が教会を強くするのか? 答えは、言うまでもなく、愛の教会である。愛し合う教会である。だから、聖書はこのように言う。「愛は死のように強く、・・・ 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。・・・」(雅歌8章6-7節)。また「・・・・」コロサイ3章14節
- 今日から、数回に亘って、この「愛し合う教会」への道を求めて、メッセージを頂きたいと思っている。
- 今日の聖書の箇所は、イエス様が「愛」について語られた箇所として最も有名な箇所の一つである。ここから、イエス様が私たちに語られた第一のこと:それは、
本 論
Ⅰ.私たちに「二つの愛」が必要であるという事実である:「神様を愛する愛」と「人を愛する愛」の二つ
- マタイ22章38,39節で、イエス様は、この二つの愛を明確に区別しておられる。
- 即ち、一つの愛について「第一の戒め」、もう一つの愛を「第二の戒め」と言って区別された。
- 更に詳しく言うなら、「神様に対する愛」と「隣人への愛」を、「第一」「第二」として区別されたのである。
- 要するに、イエス様は、ここで、二つを一つの愛のように扱わず、二つの別のものとして区別されたのである。
- 多くのクリスチャンが、この二つの間の区別を曖昧にしているために、クリスチャンとしての成長も曖昧になってしまっている。
- なぜイエス様は、このように愛を二つに区別されたのか?
- それは、人間には、「神様との関係」という一面と、「他の人間との関係」という一面と、二つの面があるからである。
- 100歳近くになるまで、現役の医師としてもでお元気で活躍しておられたということでも、大変有名だった聖路加病院の名誉院長、日野原重明先生は、その講演や著書の中で、この二つの面を、人間の神に向かう「垂直面」と人に向かう「水平面」として言い表し、私たちは、その「両面」を意識し、大切にして生きることが大切であると言われる。
- また、ある学者は、人間のこの両面性を、「家に二つの窓がある」ようなものだと説明する。一つの窓は、上に、天に向かう、即ち神に向かう窓であり、もう一つは、横に、人に向かう窓、即ち、隣人に向かう窓である。人間は、このような二つの窓を持つ家のようである。
- 人間には、この二つの面があるから、この「両面」の必要が満たされなければならない。
- 人間として生まれ、生きたイエス様は、どうだったのであろうか? イエス様が、人間として成長される様子を記した聖書の記述は多くない。その数少ない、貴重なご生涯の描写の一つに、ルカによる福音書2章52節がある。
- その最後の部分に、「イエスは、・・・神と人とに愛された」とある。
- これは、正に、イエス様が、神と人との両方を愛し、また神と人との両方から愛されたお方であった証拠である。
- 即ち、そのご生涯は、「神を愛すること」と「人を愛すること」の両面を持っていたのである。
- しかし、多くの人は、イエス様のお言葉に従って、この「二つ」の区別を認識した生活をしていない。
- まずは、多くの人が、「人に対する愛」は考えても、「神様に対する愛」を考えようとしない。
- 第一の理由は、言うまでも無く、ある人は、神さまなどいないと思っているからである。
- 第二の理由は、神様がおられることは信じていても、神様は、私たちにとっては、「愛してもらう」お方であって、私たちが「愛する」お方だとは余り思っていないからである。
- だから、人を愛することは考えても、神様を愛することを考えない人が多いのである。
- また、ある人が「二つの愛」を余り考えない理由は、どちらか一方を実行すれば、他方も自動的に実行したことになると思っているからである。
- 即ち、神様を愛していれば、人を愛したことになると思っているか、
- 逆に、人を愛していれば、神様を愛していることになると思っているからである。
- まずは、多くの人が、「人に対する愛」は考えても、「神様に対する愛」を考えようとしない。
- 人間として生まれ、生きたイエス様は、どうだったのであろうか? イエス様が、人間として成長される様子を記した聖書の記述は多くない。その数少ない、貴重なご生涯の描写の一つに、ルカによる福音書2章52節がある。
- しかし、イエス様はどこまでも、私たちには、「二つの愛」が必要であると言われた。
- 即ち、「神様を愛する愛」と「隣人を愛する愛」を、「第一の戒め」と「第二の戒め」と、明確に区別され、その「両方」を、神様からの戒めとして実行するように言われたのである。
- それゆえ、私たちは決して、どちらか一方、「神様を愛する」、或いは、「隣人を愛する」と言うどちらか一方を実行するだけで、他が自動的に実行されているかのように思ってはならない。
- どこまでも、私たちの人生と生活に、「神様を愛する愛」と「隣人を愛する愛」の両面の必要に対する自覚、認識、実行がなければならない。
更に、次にこのイエス様の愛に対する聖句、命令から学ぶことは:
Ⅱ.イエス様が、この二つに「順番」を付けられたことである。
- イエス様は、ただこの二つの愛の戒め:「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」とを羅列したのではなく、「第一」「第二」と言う「順番」を付けられたのである。
- イエス様は、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」を区別した上で、その両方の大切さを強調されたが、
- イエス様は、同時に、その二つをただ、並列に並べたのではなかった。どこまでも、「第一」と「第二」と「順番」を付けて、私たちに命令されたのである。
- しかし、ここで大切なことは、この「順番」は、どちらが「重要」であるかと言う、「重要性」を示す「順番」ではないことである。
- 即ち、「神様を愛することが第一の戒めであり、隣人愛は第二の戒め」と言うことは、「神様を愛することの方が、隣人を愛することより大切である」という「重要性」の問題ではないと言うことである。
- イエス様は、このことについて、マタイ22章39節において、「第二の戒めも、それと同じように大切です」(直訳は、ほぼ英訳と同じで、「第二もこれと同じです」である)と言われた。
- 即ち、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」との「重要性」は同じである。
- そもそも、イエス様は、ここで、「一番大切な戒めは何ですか」と聞かれていたのである。
- 今日読んだマタイの22章の記述では、原語において、特に、文法的には、「重要な、大切な」(英語ではGreat)と言う形容詞の最上級は使われていないが、ギリシャ語学者A.T. Robertsonによると、ここは明らかに「最も大切な」戒めを意味していると言ってよい。
- ここの並行記事であるマルコによる福音書の12章には、「第一の戒めは何ですか」とあり、明らかにイエス様が聞かれたのは、「最も重要な戒めThe Greatest Commandment」についてであることが分かる。
- だから、この質問に対する答えは、The Greatest、即ち、「最も大切な戒め」として、「一つ」であるべきである。学校の試験で「最も大切なものは何か」と聞かれて、二つ書いたら「間違い」となる。
- にもかかわらず、イエス様は、先ほどから言っているように、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の「二つ」の答えを出された。
- イエス様は間違えられたのか? 否、そうではない。イエス様にとって、「二つ」は、別々のことであると同時に、その重要性において、「同じ」であり、「一つ」であった。
- だからこそ、40節にあるように、「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と言われたように、二つを一つのパッケージのように考えておられたのである。
- 要するに、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」は、同様に重要なことであって、ここでイエス様が言われた「第一」「第二」と言う「順序」は、重要性の差異を指すものではない。
- しかし、同時に、イエス様は、「伊達や酔狂」で、即ち、意味も無く、軽々しい気持ちで、「第一、第二」と「順番」を付けられたのではない。イエス様は、意味をもって「順番」を付けられたのである。
- 言い換えるなら、イエス様は、どちらも「同じように重要」であるが、それを「実行するにおいては順序」がある、と言われるのである。
- 私たちが、人生と生活において、まず、第一にするべきことは、「神様を愛すること」であり、それから「隣人を愛すること」であると言われるのである。
- それは、正に、マタイ6章33節の「まず、神の国と神の義を求めなさい」に通じる、神様に関することを第一に実行するスピリットである。
- なぜか? それは、もし、その「順番」を逆にしたら、成り立たないからである。
- 言い換えるなら、もし、「神様を愛すること」を後回しにして、まず、「隣人を愛そうと」しても、それは、できない、不可能であるか、偽善になるのが関の山、落ちであるというのである。
- 私たちが、「隣人を愛そう」とするなら、まず、「神様を愛すること」から始めなければならない。この「順番」が大切である。
- なぜなら、「隣人を自分自身のように愛する愛」は、生まれながらには、私たちの内には無いからである。だから、いきなり「隣人を愛そうとしても無理なのである」。
- 私たちの隣人に対する愛は、まず、神様から頂くしかないのである。
- だから私たちは、まず「神様との関係」、人生の「垂直面」から始めなければならないのである。
- 私たちが、神様を愛そうとし、神様に向かって心を開き、神様にすべてを捧げ、神様を仰ぐとき、神様は私たちにご自分の愛を注ぎ与えられるのである。
- このようにして、まず、「神様との関係」を確立したとき、初めて、私たちは、「隣人を愛すること」ができるのである。
- この「順番」が大切である。この順序を無視して、真の隣人愛は存在しない。
- (1)即ち、まず、神様を愛すること、(2)それから、隣人への愛である。
- 9.よく聞く話であるが、私たちが料理をするとき「甘い味」を出そうとするなら、
- 「さ・し・す・せ・そ」の原則に従って、まず「砂糖」を入れ、それから「塩」だそうである。
- それを逆にして、「塩」を先に入れたら、後から、どんなに「砂糖」を入れても、甘さが出ないそうである。
- 砂糖の分子構造が、塩のそれより大きいからで、もし小さい分子の塩を先に入れてしまうと、大きい分子の砂糖が、後からでは、材料の中にしみ込めなくなるとのことである。
- このように、順番は大切である。私たちは、まず、第一に、神様を愛してこそ、第二の隣人を愛するということが実現するのである。
- マザーテレサの修道会の話:
クリスチャン・ライターとして有名な、フィリップ・ヤンシーは、かつてインドのカルカッタでマザー・テレサ修道会の修道女たちの働きを見てきたときのことをこのように書いている。彼らは、地球上で最も貧しく、最も惨めな人々に仕えている。彼らは、路上で拾い上げた半死状態の体の人々に仕えているのだと記し、そのような仕事がどんなに過酷で熾烈で、人間の肉体的、精神的エネルギーを消耗し、到底人間の尋常な力でなし遂げることができるようなものでないことを目の当たりにし、その仕事の困難さに驚嘆する以上に、その仕事に愛と平静さをもって臨んでいる彼らの姿に唖然とさせられたのであった。そして、フィリップ・ヤンシーは、このように書いた。「彼女たちの平静さの源は、一日の仕事を始める前のできごとにさかのぼる。太陽が顔を出すよりもズーッと早い、朝の4時にシスターたちは起きる。清潔な白い修道服をまとい、礼拝堂へ向かう。そこで共に祈り、賛美するのだ。最初の「顧客」に、まだ出会う前に、彼女たちは、礼拝と神の愛の中に身を浸すのである」と。
結 論
- 人を、隣人を愛する前に、まず、神様との関係を豊かにしなければならない。
- まず、神様の愛をもっと知り、神様をもっと愛することから始めなければならない。それから、初めてマザーテレサの修道会の修道女たちのように、人々のところに出かけて行って、愛するのである。
- だからイエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが大切な第一の戒めです」と言われた。
- それは、全身、全霊をもって、全力を尽くして、神様を愛することをイエス様は命じられたのである。
- 多くの人は、このように、「全身、全霊をもって、全力を尽くして、神様を愛する」などと言われると、「そんなの無理だ」と言って、引いてしまう。そして、結局余り何もしないで終わってしまう。
- しかし、私たちは、自分でも、又お互いの間でも、しばしば勉強や、仕事に関し、また、人間関係、その他の改善にも、“I will do my best”OR“Do your best”と言う。それは、「どこまでできるかは分からないが、自分のできる限り、精一杯やってみます」と言う意味で、みんな普通にやっていることである。
- 同じことを神様に対してすれば良いのである。
- イエス様も、ここで、「Do your best」と言っているのであって、「不可能なこと、無理なことをせよ」と言われているのではない。「私たちのできることを、精一杯神様に対してすること」を求めているのである。
- 今日、メッセージを締めくくるに当たり、もう一度、一人一人が、自らを点検したい。
- 「私が、今、神様を愛し、神様との関係を豊かにし、確立するために、もっとBESTを尽くせることがあるのではないだろうか」と考えてみていただきたい。例えば、神様に祈ること、神様の御言葉を読み親しむこと、神様を賛美すること、神様に捧げること、神様の民と交わること、・・・等々の点において。
- なぜなら、それが第一の戒めであり、「愛し合う教会」への第一歩だからである。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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