理想の教会:「愛し合う教会」    
- 詩篇133篇1-3節 -

2022年8月28日 佐野レインボーチャペル

聖書
詩篇133篇1-3節

序  論

  • こんにちは、今日も皆様とご一緒に礼拝を守れることを感謝します。皆様の一週間は如何でしたか?
  • 今日は、シリーズで学んで来た「主の祈り」からのメッセージを締め括る予定であったが、それは来週とさせて頂くことにして、
  • 今日は、詩篇133篇から「教会のあるべき姿」についてメッセージを取り次がせて頂くことにした。
  • クリスチャン生涯にとって「教会」の重要性は、強調しても、強調しても、しすぎることはない。いくつか、そのことの証明となる聖句をご一緒に見てみたい。
  • マタイ16章18節 
  • 使徒20章28節
  • エペソ5章25節
  • 黙示録:キリストの花嫁となる教会
  • それでは、「教会」とは何か? 月並みな言い方であるが、それは、建物でも、組織でも、プログラムでもない。
  • ギリシャ語の原語で言うと「教会」は、「エクレシア」である。それは、「召し出された者たちの集まり」と言う意味である。即ち、「教会とは、イエス様の救いによって召し集められた者たちの集まりである」。これが、教会の基礎、基盤である。
  • 今日のメッセージはここからである。この基盤の上に、どんな家を建てるかについてのメッセージである。今日は、このことを旧約聖書の詩篇133篇から学ぶ。
  • その1節にある「兄弟たち」という言葉は、直接的には、イスラエルの信仰的「コミュニティー」を指している。即ち、今日で言うなら、「教会」のことである。

本  論

  1.  愛ほど、多くの人々に多く語られて来たものはない。小説でも、テレビでも、映画でも、・・・。しかし、同時に愛ほど中味の曖昧なものはない。愛とは何か? ある教会学校の先生が、子どもたちに、「愛とは何ですか?」と尋ねた。すると一人の子供が元気一杯手を挙げて、「先生、愛って、チューすることでしょ」と答えたとのこと。それでは、聖書は、愛について何と言っているか?
  2. 愛について、まず今日の聖書箇所詩篇133篇は何と言っているか? 
    1. 同詩篇の1節はこのように言う。「兄弟たちが、一つになって、共に住むことは、何と言う幸せ、何と言う楽しさであろう」。多くの聖書学者は、この詩篇は愛の最も美しい絵画的描写だと言う。
    2. 「一つになって、共に住む」:心・思いを一つにして、一時的・暫時的でなく、長期的に、共に交わり、共に生きている姿こそが、愛し合っている人々の姿である。
    3. 当然のことながら、愛は2人以上の複数の人の中に見られるものである。別々の人格が、生い立ちも、性格も違う、別々の人々が、バラバラではなく、「一つ」になって生活を、長時間を共にする、「一体」となっている、これが愛の姿である。
    4. この「信仰コミュニティー」の特色について詩篇133篇は、金、権力、政治、議論、教育、活動、プログラム、賜物などを挙げなかった。
    5. 寧ろ一言、私たちを一つにする愛だと言った。参考:第一 コリント12章、13章
  3. 更に、神様が、世界で最初の人間としてアダムとイブをお造りになったとき、そこに愛のサンプル、モデルがあった。
    1. そこにも、二人が「一つとなる愛」の姿があった。
    2. 聖書は、二人は「一体」となったと宣言した。「神である主は、人から取ったあばら骨でひとりの女を造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから』。それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2:22-24)と。
    3. この「ふたりは一体となる」と言う姿こそ愛の本質である。一体とは、「彼の得は私の得、彼の損は私の損」と言う、利害関係を共にした共同体である。
    4. このように、聖書の言う「愛」の姿は、共同体としての「一体」「一つとなる」ことである。
      1. 性格は違うかもしれない。趣味も趣向も、職業も違うかもしれない。賜物も、意見も違うかもしれない。人生の背景、生い立ちも違うかもしれない。
      2. しかし、彼らは、一体、一つとなって、違いを理解し合い、乗り越えながら、相談しあい、助け合い、支え合い、補い合って生きている。
      3. これが愛し合う姿である。
  4. また、イエス様が人生で一番大切なこととして愛について語られたとき、イエス様は「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさいLove your neighbor as yourself」(マタイ22章39節)と言われた。
    1. ここでイエス様が、「自分自身のようにas yourself」と言われたことに注目したい。
    2. 「あなた自分自身のようにas yourself」と言うことは、相手を自分の一部として考えることであり、愛する者と愛される者が一体となることである。
    3. ここでも愛とは、愛する者と愛されるものが一体、一つとなることであることが言われている。
  5. さらに、「一つになる」ことについては、イエス様が、最後に弟子たちのために願われた中心的な祈りの課題でもあった。
    1. 最後の晩餐のとき、イエス様は、遺言のようにして、弟子たちに何度も「互いに愛し合う」ように言われたが、
    2. その晩餐の後、イエス様は、父なる神様に祈られた。その中で、イエス様は繰り返し、弟子たちが「一つになる」ようにと祈られた。
    3. ヨハネ17:11,21,22 (x2), 23 (5回)
    4. なぜなら、互いに愛し合うことと、一つとなることは同じ意味だったからである。
  6. 更に、パウロは、「一つになる」ことこそ、「福音の目的」であると言った。
    1. エペソ書2章14-16節「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
    2. 福音によって、不仲でバラバラであった、イスラエルと異邦人が一つになることが福音の目的であった。
    3. ガラテヤ書3章28節「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」:福音によって、ユダヤ人、ギリシャ人という人種的区別も、奴隷と自由人という社会的区別もなくなり、すべての人が一つになる、これが福音の目的である。
  7. 罪は私たちを様々な意味でバラバラにする。しかし、キリストによる福音は、私たちを一つにする。
    1. バラバラなものが、「一つとなる」こと、それが聖書の言う愛の本質的姿である。
    2. このように、私たちが、まるで「一つの体」のように、「一つの家族」のように、「一つ体」のようになることこそが、聖書の言う愛することの本質的姿である。
    3. 正に、それが、第一 コリント12章25-26節の言っていることである。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
  1. 第一に、愛する人は、「権威」ある生涯を歩むことができる(「アロンの髭に流れる油のようだ」)。
    1. 1.それが、詩篇133篇2節で言われていることである。
    2. 2.ここで描かれているのは、モーセの兄アロンが「大祭司」としての特別な任命を受けたときに、聖なる特別な油が、聖霊の注ぎの象徴として、彼の頭から注がれたときの様子である。
      1. それは、何を意味していたか?
      2. それは、神からアロンが「権威」を与えられたことの象徴であった。
      3. アロンに大祭司としての権威を与えたのは、彼の家系でも、彼の賜物や能力でもなかった。それは、神様の聖霊の油の注ぎであった。
    3. この詩篇の作者は、その同じことが、愛に生きる人々にも言えると言うのである。
    4. 即ち、詩篇133篇1節に「兄弟たちが一つになって共に住む」と描かれているように、みなと「一つになって」、愛に生きる人生には、神様が「権威」を与えられる。
    5. しかし、私たちが、もし、「私はあの人とは合わない」「好きじゃない」と言って、我がままから(ここが大切、意見・使命の違いは別)、皆と「一つに」ならない、共に生きようとしないなら、そのような人生に、神様からの「権威」は無い。
    6. 自分勝手に生きて、好きな人たちと好きなことをして楽しいかもしれない。しかし、そのような人生には、権威が無い。チープな人生である。
    7. 私たちの人生に権威を与えるのは、お金でも、有能さでも、何かを成し遂げたという業績でも、地位でも、名誉でも、ましてや快楽や楽しみではない。
      1. 愛こそが、その人の人生に権威を与えるのである。
      2. だから、愛に生きるものは、結果がどうであろうと、人が評価しようが、批判しようが、無視しようが、誤解しようが、それにこだわらない、一喜一憂しない。ビクビクしない。
      3. 愛のゆえに謙遜ではあるが、そこには、権威と高貴な気品を持った強さがある。
      4. 聖書は言う。「全き愛は恐れを除く」と(第一 ヨハネ4:18) それは何をも恐れない権威である。
      5. それは、地を這いつくばるようにして、貧しい人、病める人に仕えたマザーテレサの風貌から滲み出る高貴な権威であった。
    8. 8.私たちの人生の権威は、それぞれに性格や、背景の違う人々が、互いに一つとなって、労わり合い、助け合い、協力し、力を合わせて生きていることの中に神様が与えられるのである。
  2. 第二に、一つとなって愛し合う人々の生涯には「いのち」がある(第二の比喩「ヘルモンの露」)。
    1. そのことが詩篇133節3節に書かれている。
    2. 「シオンの山々におりる、ヘルモンの露」とは、木々や草花、野の獣を始めとする、自然界のすべての生き物に、命と潤いを与える豊かな水を象徴していた。
    3. その水こそが、砂漠と荒地の多いパレスチナの自然界の動植物の命の源であった。
    4. それはオアシスのように、渇いた人々にいのちを与える水を象徴していた。
    5. それこそが、一つとなって愛し合う群れの祝福である。心の渇いた人々に「いのちの水」を与えることができるのである。
      1. 一つとなって愛し合う群れ、仲間たちを人々が見るとき、愛に渇いた人々が、そこに潤いといのちの希望を見出すのである。
      2. もし、そのように渇いた人々が教会に来て、そこにいる教会の人々が、ただ、他の人同じように、噂話をし、互いの悪口を言い、批判しているだけ(それが主人についてであれ、奥さんについてであれ、友人や隣人についてであれ、教会に来ている人であれ、来ていない人であれ、他教会の人であれ)なら、彼らは、失望するであろう。「なーんだ。ここも同じか」と。
      3. しかし、そこに集まっている人が少なくても良い。貧しくても良い。何も無くてもよい。ただ、そこにみなが一つとなって愛し合って、思いあって、愛し合っているなら、それで十分である。なぜなら、それこそが、人々が求めていることだからである。
      4. 私たちは、そのような教会を求め、目指したい。ここに、愛のオアシスを求めて来た人々にいのちの水、愛の水を与える教会になりたい。
      5. それが正に、ヨハネ13章35節でイエス様が言われたことである。
  1. 私たちが、今まで語ってきたような愛に生きようとするなら、まず、私たちは、そのような愛、即ち、私たちとは違った人々を、自分のように愛し、その人々と「一つとなる」ような愛を、私たちは生まれながらには、持っていないということを認識しなければならない。
  2. 私たちの生まれながらにして持っている愛は、似た者同士の仲間を愛する愛である。しかし、神が私たちに期待している愛は、異なる二つの別々のものが「一つ」になる愛である。
  3. そのような愛を私たちはもっていない。神から与えられなければ、わたしたちには無い。
  4. そのことは、今日の聖書箇所である詩篇133篇からも明らかである。
    1. 詩篇の作者は、2節でその愛の流れを、アロンの頭に注がれた任職の油に譬えたが、その油こそが、神様からのご聖霊を象徴していた。ご聖霊の注ぎこそが、私たちに愛を与えるのである。
    2. そのことを、パウロは、ローマ5:5, ガラテヤ5:22で述べている。
    3. 更に、詩篇133篇の作者は、3節で「シオンの山々におりる、ヘルモンの露」と語ったとき、それは「天から」降りる露を意識していたことは明らかである。即ち、露が天からであるとおなじように、愛は天から神様によって与えられなければならないのである。
    4. だから、私たちは、パウロがコリント第一12章31節、14章1節で勧めているように、愛を祈り求めなければならない。

結   論

最後に、私たちが、一つとなって「愛し合う教会」を目指すために、いくつかの具体的な提案を箇条書きのように述べたい。

  • 他人の悪口をいわない。 
  • 自分に迷惑をかけた人を赦す。 
  • 他の人の良い所を考える。
  • 共に、互いに祈る。 
  • 他の人と交わるときを持つ:教会の集会・交わり(日曜・週日)、個人的な交わり
  • ありのまま、NOはNOと言えるようにする。
    附:第一 コリント13章4-7節

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。