恐れず、勇敢であれ!「Fear Not & Be Brave」
- ヨシュア記1章1-9節 -
2022年1月9日 佐野レインボーチャペル
聖書
ヨシュア記1章1-9節
序 論
- 今日は、2022年第2回目の日曜日である。先週に引き続き、この年頭に、皆様に、私自身に、必要なメッセージは何かを、神様の前に思い巡らしていたとき、心の中に来たメッセージは、またしても、ヨシュア記1章から「恐れるな、勇敢であれ!」であった。
- このテーマについては、かつて次女の宣子(エスター)が、中国上海の孤児院で、心身に障害をもった幼児たちの世話をする短期宣教から帰国した直後に、私につぶやくように言ったことであった。彼女は言った。「お父さん、結局、私たちは、何をするにも、多くのとき『恐れ』に邪魔されているんだよね」と。詳しくは覚えていないが、忘れることのできない会話である。
- 「恐れ」と反対の言葉が「勇気」「勇敢」である。反対というより、「恐れ」と戦って生きるために神様が私たちに与えられたものが「勇気」「勇敢」である。
- このテーマが、如何に私たちの人生において大切なものであるかは、今更言うまでもない。
- なぜなら私たちは例外なく人生において「恐れ」に囲まれ、「恐れ」と背中合わせで生きているからである。それらの「恐れ」は一言でまとめるなら、「失うこと」「喪失」への恐れである。
(1)命を失うこと(死ぬこと) (2)健康を失うこと(病気になること) (3)愛を失うこと(失恋、離婚、裏切られること、捨てられること・・・) (4)お金を失うこと(破産・事業失敗・失業・生活の安定を失う) (5)評判、自信を失うこと、等々である。 - ★今世界を見ると、コロナとの戦いも3年目に入り、オミクロン株も益々勢いを増して、行先が見えない中、誰もが不安と恐れの中にいる。★私も、73才の年で、体に数々の不調を覚えつつ、人生の半分以上の40年を過ごした米国の地を離れ、完全に帰国することに、人間的に不安と恐れを感じなかったと言ったらウソになる。皆様におかれても、同様に多くの不安と恐れを持って生きておられると思う。
- それ故、私たちは、今こそ、恐れに負けずに、勇気をもって生きる必要がある。
- 記憶が正しければ、小学校の5年生のときだったと思うが、国語の教科書の冒頭に載せられていた格言のような言葉を忘れることができない。それは、「勇気が逃げたら、すべてのものが君から逃げていく」という言葉であった。これと少し似ているが・・・
- 有名な逸話がある。イギリスの宰相ウィンストンチャーチルがある大学の卒業式の式辞を述べるためにメインスピーカーとして招かれたときに言ったそうである。「あなたが財産を失うことは小さいことである。あなたが名誉を失うことは大きいことである。しかし、あなたが勇気を失うとき、それはすべてを失うことである」と。
- なぜなら私たちは例外なく人生において「恐れ」に囲まれ、「恐れ」と背中合わせで生きているからである。それらの「恐れ」は一言でまとめるなら、「失うこと」「喪失」への恐れである。
- だからこそ、恐れと不安の問題は、聖書の中でも最重要な問題として繰り返し、扱われている。
- ご存じのように、旧・新両約聖書に亘って、神様から私たちへの励ましの言葉として、幾度も「恐れてはならない」という言葉が記されている。
- その数はある方の計算によると実に366回とのこと。
- それは正にうるう年も含めて、一年366日、1日一回に相当する。しかし、私も実際に確かめたことはないが、それはどうも多すぎるようである。それにしても、恐らく100数十回に及ぶであろう。
- 今日の聖書の箇所ヨシュア記1章1-9節もその一つである。6,7,9節。
- イエス様も言われた。「あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです」(ヨハネの福音書16:33)と。
- ご存じのように、旧・新両約聖書に亘って、神様から私たちへの励ましの言葉として、幾度も「恐れてはならない」という言葉が記されている。
- さて、今、私たちは、一年の初めに立っている。2022年という新しい地に足を踏み入れたばっかりである。そんな私たちに、神様は、ヨシュアに対してと同じように、「恐れないで、勇気をもって生きよ。勇気をもって、私があなたに与えた使命を果たせ」と語っておられるのである。
- そのことをご一緒に短くヨシュア記1章1-9節から学びたい。特に、今日は、神様が、「恐れないで、勇気をもって生きる」人生のために、ヨシュアに与えられた三つの命令を見たい。
本 論
Ⅰ.しかし、まず、その前に、ヨシュアはここで、一体何を恐れていたのか?について考えたい。
- 彼の第一の恐れは、「未知に対する不安」からの恐れであった。
- 第一の未知は、モーセのいない未知の人生であった。二つの「未知」があった。
- ヨシュアは今まで、偉大な国民的指導者モーセの従者として生きてきた。しかし、そのモーセが死んでしまったのである。だから、モーセのいない奉仕は考えられなかった。
- ヨシュアも、イスラエル国民も、モーセと共に過去40年間生きてきたのである。苦楽を共にして来たのである。様々な試練を乗り越えて来たのである。それ故、彼のいない人生、彼のいないイスラエルは考えられない、想像がつかないことであった。
- モーセはいつも彼、彼らと共にいたのである。そのモーセが、今はもういないのである。
- モーセのいない人生、これからの日々は、彼にとってすべて未知の人生、世界であった。
- 私たちも、しばしばそのような不安と恐れを持つのではないか。今まであてにして生きてきた人、物が目の前からなくなってしまう。当てにしているものが奪われたときの恐れと不安である。
- もう一つの未知は、ヨシュアにとって、これから愈々ヨルダン川をわたって入って行こうとするカナンという土地に対する未知であった。
- そこは、「乳と蜜が流れる」と言われる豊穣な土地であり、確かに神様が私たちのために約束してくださった地ではあるが、
- ヨシュアにとっても、イスラエル国民にとっても、少しの情報以外は、全く未知未踏の土地であった。
- 私たちもみな、人生において、信仰生活において、このような今までまだしたこともない、行ったこともない、何の経験もない「未知」の場所で、仕事を、使命を果たすように挑戦されることがある。その時、皆、不安で、怖いのである。
- 第一の未知は、モーセのいない未知の人生であった。二つの「未知」があった。
- ヨシュアの恐れは、第二に、その仕事、「使命の膨大さから来る不安と恐れ」であった。
- 即に、先のポイントで触れたように、ヨシュアの託された使命は、偉大な指導者モーセ無しで、しかも、未踏未知の世界に対するものであっただけでなく、課題の膨大さからであった。
- 即ち、それは
- 何百万にも及ぶ、イスラエル全国民に、ヨルダン川を渡らせ、
- イスラエル民族より遥かに民族として、即ち、武力的、組織的、文明・文化的にもすぐれている先住民族の住むカナンの地に乗り込んで、そこを占拠し、自らの国民の占住地とする、
- 更には、レバノンからユーフラテスにまで及ぶ膨大な土地を占拠するという使命は、最近、リーダーになったばかりのヨシュアにとっては、荷が余りにも大きかった。
- それは、フットボールに譬えるなら、練習では投げさせてもらってはいたが、まだ実際のゲームで一回も、或いはほとんどプレーをしたことのなかったバックアップ・クォーター・バック(QB)が、スーパーボール直前に、メインでかつ史上最優秀といわれるQBが、怪我をして突然投げられなくなったので、急遽、スーパーボールという最重要ゲームでプレーをするように命じられたとき以上である。
- 私たちもまたそのように自分では到底できないと思われる人生の局面、試練に立たされ、また使命を負わされることがある。その時できるだろうかと不安になり怖くなって当然である。
- ヨシュアの恐れは、第三に、「失敗するのではないか」という恐れと不安であった。
- 自分に果たしてできるか。やるのは良いが、やって失敗したらどうするかと言う心配である。
- 沢山の人がこの「失敗」を恐れるのは:
- その時に、みなの前で恥をかくのがいやだから、怖いから、
- そのときに自分が傷つき、自分に失望し、自信を失くすのがいやだから、怖いから
- そのときに、期待してくれた周りの人ががっかりするのを見るのがつらいから
- その時に、周囲の人々に迷惑をかけることになるのがいやだから等々の理由である。
- 「失敗は成功の母」とは言うが、誰だって、失敗は嫌いである。だから恐れるのである。
- これらは皆私たちも持っている恐れである。
- 人間として当然の恐れである。恐れて当然である。
- しかし、神様は、私たちに恐れてはならない。おののいてはならない。勇気を出しなさい。雄々しくありなさい。と言われるのである。
それでは、どのようにして、そのような恐れに打ち勝つことができるのか?
Ⅱ.神様はここでヨシュアに、そのために三つのことを命じられた。
- 第一は、神に実際に従い、信頼して歩んだ信仰の先輩たちの「証し」の中に神様の確かさを見ることである。
- 神様はヨシュアに言われた。5節「私は、モーセとともにいたように、あなたと共にいよう」と。
- モーセの生涯そのものが証であった。彼の生涯は、神様の約束が必ず果たされることの証しであった。神様の愛と真実と力がどんなものであるかの証し、証明であった。
- それは、実際にあった、歴史の事実である。単なる「学説」や「考え方」「理想論ではなかった」。
- これ以上の力はない。神様は歴史の現実の中で働き、信仰は現実の世界で働くのである。
- ヨシュアは、この危機に、もう一度、このことを思い出さなければならなかった。神が、この40年の間、モーセの生涯の中に、モーセを通してイスラエル民族の中に実際に何をなさったのかをもう一度思いだし、そこに神を見、神に信頼し、従う必要があった。
- 私たちは、信仰の先輩たちの生涯に実際に起こった事実の証しから学ばなければならない。
- 聖書を見るとき、モーセだけでなく、アブラハムから、ヨセフから、ダビデから、ダニエルから、ヨブから、・・・と沢山の先達の証しから学ぶことができる。
- それだけではない。初代教会から今日に至るまで、キリスト教の歴史の中に生きた沢山の信仰の先輩達が残した、彼らの生涯の中に神様が何をしてくださったかを記している伝記から私たちは沢山のことを学ぶことができる。もっとそれらの本を読んで欲しい。例えば、ハドソン・テーラー、ジョージ・ミューラー、ウィリアム・カーレーなど
- 今日のキリスト教、クリスチャン達は、信仰や人生を、どのように見るか、どのように考えるかという理性的「考え方」や「納得」に頼っている。
- それらも大切であるが、同時にそれらの伝記に表わされた事実と証しの中に見る神に、理性を超えて「従い」「信頼」することが大切であり、そこに恐れを乗り越える秘訣がある。
- ヘブル人への手紙の記者も、12章1節で、「私たちも、このように多くの証人に囲まれているのだから」と言って、信徒達を励ましている。
- 第二は、神の約束を信頼することである。
- 3節を見たい。「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、私がモーセに約束した通り、あなたがたに与えている」と神様はヨシュアに言われた。
- ここで、日本語訳では、「与えている」となっている。これは正しい訳である。
- NIVは残念ながら”I will give you “と単純な未来形で訳している。文法的には可能な訳であるが、NRSVのように”I have given you”と訳す方がより良い訳だと信じる。
- なぜなら、神様の約束は、人間の約束のように将来そうなるだろうという不確かさがそこには全くない。
- 神様の約束は、時間と空間を越えた神様の側では、既に成就した約束であるからである。
- だから神様の約束を信じるとは、イエス様が言われたように、まだもらっていなくても、まだ見ていなくても、「すでに得た」もの、「もうもらったかのように」信じることである。
- だから、失敗は恐れない。なぜなら、私たちは失敗と思っているが、それは、すべてがそれで終わったと思っているからであって、実際はまだ終わっていないのである。
- 終わりは、神様が約束されたように、神様が、私たち神の子供達に約束された祝福と繁栄の成就以外にないのである。
- このように神の約束の成就を信じて疑わない信仰が必要である。
- その人に、失望はない。絶望はない。
- 彼(彼女)は、絶対にあきらめない。恐れて立ち止まることをしない。
- 成功を信じて勇気をもって前進し続ける。
- 第三に、神の言葉と共に生きることである。
- 7-8節を見たい。特に、次の二箇所、「命じたすべての律法を守り行え」「律法の書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない」に目を留めたい。
- それは、第一に、実際生活の中で聖書に書かれている言葉を「守る」こと、「従う」ことである。
- 聖書はTESTAMENTと言われるように、ある意味で、「神と人との契約書」である。
- だから、聖書から、神様から一方的に何かしてもらうことを期待するのではなく、
- 勿論神様の恵みの助けを頂いてであるが、私たちの側でするべきことがある。それは、神の言葉によって求められていることを守り、従い、実行することである。
- 例えば、「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば・・・」である。
- しかも、自分がこれはするが、あれはしたくないというようなセレクティヴで、ピッキーというか、選り好みをしての服従ではあってはならない。
- だから神はヨシュアに言われた。「すべての律法を守り行え」と。
- 第二に、生活の中で、もっともっと聖書の言葉に親しまなければならない。具体的には:
- 「すべて」とあるので、とにかくもっと聖書を読みたい。何が書いてあるかを知るために。
- 「昼も夜もこれを口ずさむ」とあるように、それを味わう時間、思い出す時間、暗記・暗誦する時間を取りたい。
- 更には、聖書を勉強する時間を取りたい。教会の集会で、牧師の指導のもとで、あるいは個人で、グループで、必要なら参考書のような資料も使ってでも行いたい。
- 家で、夫婦で、家族で、週日に聖書を一緒に開く時間(短くても、たとい2-3分、5-10分でも、15分でも)をもちたい。家の中に聖書の言葉を掛けることも良い。
結 論
- ヨシュアは、人間的には「恐れ」て「私にはできません」と言って尻込みをしても当然という状況にいた。
- しかし、神様は、恐れてはならない。怖がってはならない。勇気を出して前進しなさい。私のために、神の国の建設、発展のために使命を果たしなさい。と励まされた。
- そして、三つのことを命令された。
- 信仰の先輩たちの証しに目を留め、そこから教えられ、励ましを受けなさい。
- 神の約束の成就を信じること
- 神のお言葉とともに生きることである:聖書をもっと読み、味わい、心と頭に蓄え、学び、親しみ、自分のものにすることである。
- 2022年、自分のため、教会のため、家族のため、親族のため、友人達のため、コミュニティーのため、世界のため、神の国建設前進のために、恐れず勇気をもって生きるためこれらを実行したい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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