新しいことをなさる神 「God who do a new thing」
- イザヤ書43章14-21節 -
2022年1月2日 佐野レインボーチャペル
聖書
イザヤ書43章14-21節
序 論
- 今日は、2022年の最初の日曜日である。何でも「初めが肝心」である。その意味で、日本では昔から、一年の最初の日である元旦をどのように過ごすかの大切さを示す「一年の計は元旦にあり」と言う表現がある。
- 聖書も、「初物」「初穂」「初めてのもの」を、まず最初に、神様に捧げるように命じている。
出エジプト記23章16節 - その意味で、今日皆様が、2022年の最初の日曜日、まず教会に来られ、共に礼拝を守られたことは、素晴らしいことである。
- 日本には、「初詣」と言う習慣がある。(ここ数年は、コロナのために減少してはいるが)、通常、毎年全国で1億近い人々が、一年の初めである正月に、お寺や、神社を訪ねて、仏神(神々、仏様)に、感謝を捧げ、新年のためにお祈りをする。これが「初詣」である。
- それにしても、1億近くの人々が初詣すると言う、この「動員力」の秘密は何か?何故、こんなに多くの人々が、新年に、もっと寝ていたいのに、のんびりしていたいのに、わざわざ神社仏閣を訪ねるのか?何を願い、何を期待してそれらの場所に行くのか?
- 多くの人々は、新しい年の「家内安全無病息災」「商売繁盛」「入学・入社試験の合格」「結婚」「出産」「仕事がうまくいくように」「昇進・昇給」のご利益を求めて初詣に行くのであろう。
- また、家族・親族、学校や職場、また親しい人々との人間関係のために祈る人も多いであろう。
- しかし、それらにも増して、これまでの自分自身を変えたい、自分が変わりたい、こんな自分でいたくない、新しい年には変わりたいと初詣で祈る人も多い。
- 沢山の人が、新年に、新しい何かが、自分のうちに始まることを求める。期待する。だから初詣に行く。「今年こそは!!」と、New Year’s Resolution新年の決断をして、日記に書いたり、紙に書いて壁に貼ったりしながら、新しいことを求めるのである。
- しかし、同時に、人々が現実に経験していることは、しばしば、いくら「今年こそは!」と、決断しても、結局は、何も変わらない」という失望であり、落胆ではないか?
- ほとんどの決意が「三日坊主」に終わってしまうのが現実である。こんな1コマ漫画を見たことがある。机に向って座っている男性の前にある壁に、彼の新年の決意を記した一枚の紙が貼ってあった。
- そこに何と書いてあったかというと、「明日から禁煙」であった。ただ「禁煙」で十分なのに、「明日から」が加えられていたのである。初めから守ることができないことを知っている男のユーモラスな、苦肉の策である。
- 2022年が始まった。今日はその二日目である。この「初詣」とも言える礼拝で、あなたは、神様に何を求めるか? 神様に何をな新しくしてくださいと祈るのか!
- 今日は、そのような私たちに、神様が、何を仰っているか、神様の御言葉に耳を傾けたい。
- 聖書テキストは、イザヤ43章14-21節である。
本 論
Ⅰ.まず最初に、私たちは、新しいことを経験するために、「どんな神様に」祈るべきなのかを考えたい。
A.私たちが祈るとき、一番大切なことは、「誰に」それを祈るかである。
- 日本には昔から「いわしの頭も信心から」という言葉がある。「イワシの頭のような、つまらない、価値の無い、何の役にも立ちそうにないものに祈っても、要は、信じる心さえあれば、人は救われる」と言う意味である。
- そこで言われていることは、祈りにおいて大切なことは、私たちの「信じる心」であって、誰に祈るかではない。即ち、祈る相手が、「いわしの頭」でも構わない、ということである。
- しかし、私たちは皆知っている。「いわしの頭」ではどうにもならないことを。
- まして、「信心」即ち、「私たちの信じる心」はもっと当てにならない。今日信じていたと思ったら、次の日には、不信仰のどん底にいたり・・・」と言う具合に。
- むしろ、私たちがものを頼むとき、祈るとき、「誰に」、頼み、祈るかが鍵である。
B.それでは、私たちが祈っている聖書の神様は当てになるのか? なぜこのお方は当てにできるのか?
- その第一で最大のの理由は、神様が「創造者」だからである。
- このことは、このイザヤ43章でも何遍も繰り返されている。1,7,15節
- 人を新しくすることができるのは、創造者だけである。私たちの神は創造者である。だから、私たちの人生を新しくすることもできるし、私たちがこの一年に新しいことを期待することもできるのである。
- 聖書は言う。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二 コリント5章17節)。
- (これは、昔ある先生から聞いた話)ある人が人生に行き詰まり、自殺を決意した。彼は几帳面な性格で、その晩12時に命を絶つことを決め、目覚まし時計をセットして、疲れ切っていたので、ウトウトして寝入ってしまった。ハッと気が付くと、12時を過ぎていた。目覚ましがならなかったのである。壊れていたのである。今晩自らの命を断とうとしているのに、笑い話のようであるが、彼は思った。「明日この時計を、製造元に送ろう」と。幼い時教会に行っていたことのある彼はその時気づいた。「時計が故障したら、時計を造った所に持って行く。それなら、私が故障し、人生に行き詰まったら、私を造った神様の所に行けば良いのだ」と。彼は、すぐに教会に行き、神の下に帰り、人生が変えられた。
- 私たちの神様は創造の神である。だから私たちを新しく造り変えることできるのである。
- 第二の理由は、神が「聖なるお方」だからである。
- これもまた、このイザヤ43章に何回か言われていることである。3,14節
- 旧約聖書で「聖なる」というとき、いくつかの意味があるが、その最大の意味は、真実、誠実で、嘘、偽りを言わないお方と言う意味である。
- 私たち人間は何としばしば言ったことを実行しないことか、嘘や、悪気がある場合は、勿論のこと、ついついや、弱さや、様々な事情から、言ったことを実行しないのである。私も、父親として恥じるのは、悪気は無かったとしても、仕事の事情があったとしても、何度も子どもとの、遊びに行く約束を守れなかったことである。
- しかし、神様は違う。一度、私たちの人生を変えると仰ったら、嘘は言われない。事情や状況の如何にかかわらず、必ずそのようになさる誠実、真実、「聖なるお方」である。
Ⅱ.次に学びたいことは、この神様が「新しい」ことを実現するために、私たちがすることである。
A.第一に、良いことであれ、悪いことであれ、過去を忘れることである。
- 18節を見て頂きたい。「先のことを思い出すな。昔の事どもを考えるな」と神様は言われる。
- ここで言われていることは、明らかにイスラエルの歴史上、最大の事件であるイスラエル国民の「出エジプト」という事件である。
- このことについては、多くの聖書学者たちが異口同音に認めているところである。
- それは、今日のテキストであるイザヤ書の43章、特に16,17節からも、イザヤ書全体、更には旧約聖書全体からも、明らかである。
- イザヤの時代から遡ること700年前、イスラエル民族は、成人した男だけでも60万、恐らく全人口200万を超えていた。その彼らは、エジプトの奴隷であり、その苦しみに耐えられず神に向って叫び声を挙げていた。
- エジプトの大王パロの前に、無力でどうすることもできないイスラエル民族のため、神は、モーセという偉大なリーダーを興した。
- 神様は、モーセを通し数々の不思議な業を起こした後、最後に、お決めつけと言える、紅海を真っ二つに分ける決定的奇跡をもって彼らを救い出されたのである。
- 以後、この出エジプトの出来事は、イスラエルの救いの歴史的モデルというか、パラダイムとなった。
- それ故、「出エジプト」の事件を思い出すことは、普通にいうなら、イスラエル人たちにとっては希望であり、励ましであった。
- にもかかわらず、神様は、意外にも、ここで、「過去を、即ち、出エジプトの出来事を、忘れよ。思い出すな。考えるな」と言われた。
- なぜ、意外か? 神様はいつも、神様から受けた祝福を忘れてはならないと強調しておられたからである。
- 例:詩篇103篇2節でも「主のなさったことを忘れるな」と言い、また詩篇106篇でも、イスラエル民族の忘恩の罪を責めている。
- しかし、ここで驚くべきも「過去を思い出すな」と言われたのである。矛盾ではないか?
B.それでは、ここで神様が「過去を忘れよ」と言われた理由は何か? 過去を忘れることの意味は何か?
- 勿論、それが悪い過去なら、いつまでもそんな過去に捕らわれ、引きずることなく、それを忘れて、前に進む方が良いのは当たり前である。
- もし、そのような人がいたら、今、イエス様のところにその罪を、失敗を、その傷を、その失望を、赦しと癒しと励ましを与えてくださるイエス様のところに持ってきていただきたい。それが、あなたの、私の新しい人生、新しい年の出発の原点である。
- しかし、ここで言われていることは、「出エジプト」のような良い過去である。もう一度そのようなことが起こればいいなと思う過去である。励ましになる、希望の過去である。
- それを「忘れよ」「考えるな」とはどういう意味なのか?
- それは「信仰」への招きである。そのために、それを妨げる邪魔者を取り除くことである。
- たといそれが良いことではあっても、過去に起こっことに対するノスタルジックな思い出に耽っていては駄目だということである。それが新たな信仰を妨げるのである。
- 思い出に耽り、何となく、それがまた起これば良いなと思い、感じ、密かにそれがまた起こればと憧れることと、信じることとは違うことを、ここで神様は明確にされたのである。
- 沢山の人がここで勘違い、間違いを犯している。二言目には「昔は、・・」「あの頃は、・・」「あの時は、・・」と別の時、別のケースを思い出しては、何となく今もそれが起こればいいのにと思っている、或いは考えている。しかし、それは信仰ではない。
- この過去を忘れないでしがみついている心が、私たちが前に進むことを妨げている。(風呂焚きの例話:前日燃えた火の灰を掻き出さないと、翌日、空気の流通が悪く、火がよく燃えない)
- 神様が求めておられるのは、「思い出よ、もう一度!」ではなく、新たな「信仰」である。
C.ここで、神様が求めている信仰ついて整理すると:
- 神様が、昔「出エジプト」のような何か素晴らしいことをなさったのだと、単に思い出すことではない。
- 或いは、神様が、誰か他の人に、他の教会に、何か凄いことをしたと信ずることでもない。
- それは、「新しいことに対する信仰」である。
- 即ち、神様は言われる。「見よ。私は新しいことをする」(19)と。
- 神様が求めておられるのは、昔のことでもないし、他人のことでもない。今のこと、今年のこと、自分のために、新しいことを神様がしてくださるという信仰である。
- 具体的には、イスラエル人たちが、今直面している問題、試練、即ち、エジプトではなく、バビロン、ペルシャ帝国下の捕囚民としてのそれであった。しかも、それは、紅海2分という物理的奇跡ではなく、前代未聞とも言うべき、クロス王の解放令によるものであった。
- 神様のなさることは、その度毎に、新たなものである。「二番煎じ」はない。
- しかも、その信仰は、神様が、既にその業を始めておられることを知り、感じる信仰である。
- 神様は言われる。「今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。Now it springs up; do you not perceive it?
- 即ち、私たちに対する神の御業は、そのうちいつか始まるものではなく、たといその完成は後であったとしても、それは既に始まっていると信じる信仰である。
- 最後に、その信仰は、人を生かす信仰である。
- それは、19-20節に記されている。
- 荒地、砂漠は、水が無い、道がない。それは、人が住めない、命のある者が棲息(生息)できない、死の場所であった。それは、乾ききった人々の心、恵みの潤いがなく、いつもピリピリ、ギスギスして、人を受け入れられず、赦すことのできない心を表す。
- 神様は、その砂漠と荒地に川と道、泉を設け、動物が人が住める場所とする。死んだ土地を命溢れる場所とするのである。
- 即ち、神の新しい御業がなるとき、命なく死んだような人々の心に、恵みの水、泉を湧きい出し、潤いが与えられ、勢いを与えられ、赦し合い、励まし合う人々の群れに変えられて行かれるのである。
- 神様のなさる「新しいこと」とは、私たちを通して、人々に命を与えることである。死んだような場所を生き生きとさせることである。
結 論
- 2022年がスタートした。
- この2022年のために、神様は、私たちに、まず、たといそれが大きな神様のなされた御業であったとしても、過去のすべてを忘れるように言われた。
- 過去と言う灰を除くまで、新しい火は燃えないのである。
- そして、神様は「私は新しいことをする」と言われた。それは、昔の業でもなく、他の人のためになされた業の繰り返しでもない。今、今年あなたのためになされる新しい神の業である。
- しかも、それは今既に始まっており、その結果、人を生かす御業である。
- あなたは、それを信じるか?
- 暫くときをとって、それは具体的にあなたにとって何であるか、ともに祈りたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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