選ばれたことの意味
- ヨハネの福音書15章16節 -

2022年2月6日 佐野レインボーチャペル

聖書
ヨハネの福音書15章16節 

序  論

  • 先月、私が礼拝のご奉仕をさせて頂いたとき、神様から頂いたメッセージは、ヨシュア記1章から、この困難と混沌の時代に生きる私たちに必要なことは、「強く、雄々しくある」ことであった。
  • 「強く生きる人生」の秘密の一つは、「自分を知る」ことである。よく「自分探し」と言う言葉を聞くが、自分とは何か知っている人は強い。ソクラテスと言う有名な哲学者も、「汝自身を知れ」と言った。人についてとやかく言う前に、「自分を知る」ことが大切である。
  • 私たちは何者か? 「私は、日本人です」「アメリカ人です」「韓国人です」「ペルー人です」などなどの答えが返ってくるであろう。これはある意味で私たちのIDに関する質問である。
  • 困難に満ちた人生を強く生きるために自分は何者であるか、自分のIDがハッキリしていることは必須である。そのモデルとも言える聖書の人物はパウロである。彼は、地上的、人間的に言うなら、ユダヤ人であり、ローマ人であった。しかし、彼をあらゆる困難の中で、支え続けたIDは、それら地上的IDではなく、「天国人」「クリスチャン」としてのIDであった。だから彼は言った。「私たちの国籍は天にある」と。
  • このクリスチャンIDこそが、パウロが困難の人生を力強く生きた秘訣である。しかし、ここで考えたいことは、そもそも、クリスチャンとは、誰か、何か?である。
  • クリスチャンのIDについて、イエス様ご自身が語っている代表的聖句がある。それは、ヨハネの福音書15章16節である。「・・・・・」。
  • この聖句の中心ポイントは、「クリスチャンとは、キリストに、神に『選ばれた者』である」。
  • このテーマの下に、今日は、「選ばれたことの意味Meaning・意義Significance」について学び、もう一度私たちクリスチャンが何者であるかを知り、力を頂きたい。

本  論

  1.   それは、世界の王の王、主の主によって、選ばれた者としての光栄と栄光である。
    1. 日本は、天皇制の国である。英国同様、皇室(Royal Family)があり、様々な華やかで、豪奢な式典・催事が沢山ある。
    2. もし、私たちが、その一つの式典にでも、出席者・参列者として選ばれて皇居に呼ばれ、天皇陛下に直接お会いできるということにでもなったら、私たちはほぼ例外なく、それを、晴れがましく、栄誉に、誇らしく感じるだろう。
    3. きっと、そのことが決まったら、家族は勿論、親戚中、友人のすべてにメール、FBを始めとするあらゆるSNSで知らせまくるであろう。
    4. そして、その日の写真は、家宝のようにしていつまでも家の中に飾られ続けるであろう。
    5. 私には、そのような経験はまだないが、それでも、20年ほど米国の首都ワシントンDCの郊外に住んでいた間に、一つの大きな光栄と感じた経験があった。それは、在米日本国全権公使、次席大使公邸に個人的にお招き頂いたことである。
    6. 家内ともう一人の友人3人での個人的お招きであった。大使・公使の中で、公邸が与えられ、日本からの「お抱え料理人」を持つことができるのは、大使と次席大使の位置にあるこの全権公使だけであった。私と家内は、とても緊張した面持ちで立派なお宅に通され、やがて長い会食用の食卓についた。お食事は、一品一品、お品書きと共に出された。あまりに見事な品目であったので写真が撮りたかったが、ここでいい年をした牧師が、「インスタ映え」とばかりに、このような席で、無作法なことではできないと自制。しかし、最後のデザートコースとなったとき、これがまた美しい。遂に、せめてこれだけでも撮りたい。最後のチャンスと思い、全権公使に写真を撮ってもよろしいでしょうかと尋ねた。すると、余りに簡単気さくに、勿論です、どうぞと言うお返事。そんなら初めから撮っておけばよかったと思った。あの晩、全権公使の公邸に招かれ、御もてなしと歓談のときを与えられたこと、それは、私たち夫婦にとっては、極めて大きな光栄と栄誉な経験であった。
    7. しかし、私たちが、神様に選ばれてクリスチャンになったということは、そんな一夜の経験ではない。失礼な言い方であるが、一つの国の大使や、次席大使と親しくさせて頂いたというような経験とは比べ物にならない。それは一国の王や大統領にも勝る、世界の、しかも、永遠の、王の王、主の主なる神様に選ばれたことを意味する。しかも、単なる宴会、園遊会に招かれたというのではない、その王の永遠の子として選ばれたというのである。
  2. しかし、現実はどうであろうか? 多くのクリスチャンたちの現実は、正反対である。
    1. 神様に選ばれたこと、クリスチャンになったことを栄誉に感じ、「誇り」に感じつつ生きているクリスチャンがどのくらいあるだろうか?!
    2. ある人はクリスチャンになったことを、むしろどこか「恥ずかしい」こととさえ思っている。
    3. 日本では、「宗教をやっている」という表現があるが、どこか「揶揄的」な表現である。
      1. だから、クリスチャンになったことを友達に知られて、「宗教に入っちゃったの?!」とか、「宗教をやるようになったの?!」と言われるのを恐れている人が多い。
      2. しかし、クリスチャンになるとは、そんな恥じ入るようなことでも、こそこそとするような貧弱なことでもない。
  3. しかし、神様に選ばれたことを誇りに、栄誉に思うとは、威張ることではない。
    1. 私たちは、クリスチャンは威張ってはならない。高慢であってはならない。謙遜でなければならない。確かに謙遜は大切なクリスチャンの持つべき品性である。
    2. しかし、それは、卑屈になることでも、自分を卑下することでもない。むしろ、クリスチャンは、常に神の子として選ばれた者の誇り、栄誉感の中に生きなければならない。
    3. その最も良き例がヨハネ福音書13章の冒頭の記事である。イエス様が、僕としての謙遜を表すために弟子たちの足を洗った記事である。イエス様は、あの時どんな気持ちをもっておられたか? 
      1. 聖書はこのように記す。「・・・・」(13章3-4節)
      2. イエス様は、奴隷のように弟子たちの前にひざまずいて彼らの足を洗ったとき、その心に微塵も卑屈なひがんだ思いはなかった。むしろ、天の王なる父の下から父の下へ戻る天の王子としての誇りNoble Humilityとも言うべき心をもってなされたのである。
    4. クリスチャンの友たちよ.Live with a pride as a Christian, Chosen One.
  1. なぜ、選びが恩寵・愛なのか?その選び、即ちイエス様の御救いの背後にはイエス様の犠牲的な愛と恩寵があったからである。
    1. イエス様は、私たちを神の子として選ぶために審査員の席に座って、書類で選考したり、インタビューや面談をして、誰が条件に適って相応しいかと比較して選んだのではない。
      1. そんなことして選ばれる人は一人もなかった。誰も神様の定められた条件に適った人はなかった。善人はいない一人もいない、すべての人は罪を犯して神の栄光は受けられなかったと聖書が言う通りである(ローマ3章12,23節)。
      2. だから、イエス様ご自身が、私たちの代わりに。その条件を満たされた。
      3. どのようにして? 私たちの犯した罪の報酬である罪の刑罰のすべてを、私たちの代わりにあの十字架で負ってくださったことによって、私たちが神の子として選ばれる条件を満たしてくださったのである。
      4. ヨハネ3章16節、「神は実にその独り子をお与えになったほどに世を愛してくださった。それは・・・」。イエス様は、実にこのようにして、私たちを選んでくださったのである。第二 コリント5章21節
      5. 即ち、イエス様の選びは、その背後に、イエス様がご自分の命を捧げるほど私たちを愛しておられるという愛と恩寵が意味されているのである。
  2. 私たちの周りを見るとき:
    1. 悲しいことであるが、しばしば話題になることは、単なる継母や、継父による子供の虐待ではなく、「実の親によるこどもの虐待」の悲劇である。ある事件では、千葉県野田市で10才の少女が父親による暴力と虐待で幼い命を失った。
    2. こどもにとって一番悲しいことは何か。「私の親は、私のことを愛しているのか」に確信が持てないことである。
      1. 否、もっと言うなら、子供であろうと、誰であろうと、
      2. 仕事人間のような、仕事以外何も関心のないように見える人でも、すべての人が、究極的に必要としているものは愛である。
      3. 親とこどもの関係にしても、夫婦にしても、その人が、「私は愛されている」と心のどこかでしっかりと確信できること無くして人は幸せにはなれない。
    3. 沢山の子ども達が、親に愛されたくて夢中で、無理してでも、時には嘘をついてでも、「良い子」になろうとする。
      1. 親に気に入られる子になろうとする。それでも受け入れられない。
      2. また、本当に受け入れられているかが「不安」と言う苦しみと葛藤の中に生きている。
      3. この世にあるのは、みんな「条件付きの愛」、「Because・・・の愛」だからである。
      4. だからみなその条件を満たすのに躍起になっているか? 絶望し、諦めている。
  3. しかし、聖書は「そんなことしなくていい。ここに愛がある。無条件の愛がある」と宣言する。
    1. 条件がないどころではない。逆に悪条件でも愛する愛である。
      1. 「こんな人が・・・?!」と人が呆れ、投げ出すような者でも愛する愛、
      2. すなわち、In spite of 、despiteの愛、「にもかかわらず」の愛である。
      3. 私たちが良い子だから、良い人だからでもなく、何か良いことをしたからでもない。
      4. ただ無条件で愛する愛がある。それが神の愛である。
    2. それゆえ聖書は言う。「私たちが、まだ罪びとであったとき、キリストが私たちの罪のために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにされたのです」と(ローマ5章8節)と。
    3. 神風特攻隊の生き残りの田代先生の救いの証し。先生は、日本の伝統的な宗教の中で育った。神様を喜ばせる、怒らせない。それが宗教だと思っていた。しかし、ここに私の罪、私のしてきた悪を赦すために、ご自分の命を捨てて救おうとしてくださった愛なる神がおられることを知ったとき、この方を信じたい、この方について行きたいと思われイエス様を受け入れた。
    4. 「私があなたを選んだ」と言われるとき、そこにイエス様の無条件の愛と恩寵がある。
  1. 私たちの生きているこの時代の最大の特色は不確かさである。
    1. すべてが不安定であり、いつ事態が急変するか分からない時代である。
    2. 即ち、何も当てにできるものはない。予測できない、行く先が見えないのである。
      1. 経済の世界を見ても:1929年の世界恐慌、70年代の石油ショック、2008年のリーマンショックは、私たち経済の世界に明日、否ある日、突然何が起こってもおかしくないことを教えてくれた。
      2. 2011年の東日本大震災、そして、最近の日本各地の地震、火山の状況を見るとき、いつ、どこに、何が起こってもおかしくない。そして、それが私たちの人生を大きく変えるかもしれない不安がある。
      3. 私たちは、今や、経済も、政治も、世界中をアッと言う間に、不安の中に飲み込んでしまった新コロナウィルス問題に苦しめられている。2019年末まで、まさか、世界がこんなになると誰が想像しただろうか?
      4. しかし、一番怖いのが人々の心の変わり易さである。米国では、しばしば結婚する夫婦の半数が離婚することが取り上げられるが、それは象徴に過ぎない。それは、それが結婚生活であれ、ビジネスパートナーであれ、友人関係であれ、時には残念ながら教会の中の人間関係であれ、人の心の移ろい易さ、当てにならない現実を映している。
  2. そんな現実の中、もし、神様が私たちを選んだのでなく、私たち人間が、神様を選んだのなら、私たちの信仰生活は、極めて不安定で、不確かな、当てにならないものとなってしまう。
    1. なぜなら、私たちの心ほど当てにならないものはないからである。
    2. 私は17歳でイエス様を信じた。昨年10月末で満73歳となった。今年1月23日で信仰をもって満56年となった。その私の信仰について少し話させて頂きたい。
    3. わたしが17才で信仰に入ったときに、日曜日は朝から晩まで教会の集会に、奉仕にと・・・余りに熱心になっていたので、親戚中が、特に両親が心配した。「変な異端的、カルト的な宗教に入ったのではないか」と。しかし、そのとき、平然としていたのが、祖母(母の母)であった。「純ちゃん(私の名前)なら、大丈夫!!」と祖母は言った。皆が祖母に、「何が大丈夫なのですか」と尋ねると、祖母は、「そんなに心配しなくても大丈夫。純ちゃんなら、すぐに飽きるから!!」と言ったそうである。何をやっても長続きしない、すぐに飽きて止めてしまう。それで有名であった孫のことを祖母はそのように見ていた。しかし、そんな私が、信仰に入って、半世紀を越え、やめるどころか益々熱心になっている。そればかりか、両親も、その祖母も皆クリスチャンになった。
  3. 私の信仰がなぜ守られたのか? なぜ半世紀以上も変わらずに続いたのか? 私が意志の強い人間であったからか? 立派な人間だったからか? 答えはNOである。
    1. それは、私が神様を、イエス様を私の神、私の救い主として選んだのではなく、神様が、イエス様が、私たちを神の子とするべく選んだからである。
    2. 神様は変わらない。永遠に不変である。聖書は言う。「イエス・キリストは昨日も、今日も、とこしえまでも変わることはない。」(ヘブル13章8節)。
    3. 即ち、私たちの信仰の確かさは、私たちが神を選んだのではなく、神様が私たちを選んだと言う事実の中にある。
    4. 私の尊敬する故本田弘慈先生が、よく伝道大会で最後に、「今日、イエス様を救い主と信じたい人はいますか? その人は前に出てきてください」と招きをされて、前に出てきた人々に暫く話しをされた後、その最後にいつも、今日の聖書箇所ヨハネ15章16節を開いて新しく入信を決心された人たちに説明された。もしお母さんと子供が一緒に歩いていたとします。そう言って、ご自分の両手を片方づつ指し示しながら、「これが、こどもの手です。これが母親の手です。もし、こどもが母親の手を掴んでいたら、何かに躓いたとき子供は思わず手を離してしまうでしょう。でも、もし、母親が子供の手を掴んでいたら、決して子供の手を離すことはありません。同じことが私たちの信仰にも言えます。自分は信仰を守っていけるか心配していませんか? 神様があなたを選んだと言う意味は、親である神様があなたの手を掴んでいるという意味です。だから、あなたが躓いても、神様はあなたの手を離しません。だからあなたの信仰は大丈夫です」と。ここに、私たちの信仰の確かさがある。
    5. 私たちの人生の確かさは、私たち自身の中にではなく、神様ご自身の中にある。そして、それは、私たちが神様に選ばれ神の子となったその瞬間から始まる。

結  論

  • クリスチャンは、神様に選ばれた者である。その選びが意味することは、①王の王、主の主なる神様の子とされた栄光と光栄である。そのことをもっと自覚し、ふさわしく堂々と誇りをもって生きる者でありたい。ビクビク、オドオドと負け組のように、申し訳なさそうに生きるのは止めましょう。
  • 私たちの選びは、第②に、神様の十字架の愛と恩寵を意味した。誰があなたのために命を捨てたか?? だから、世界中で一番愛されている者として、神様の愛の鼓動を胸に聞きながら感謝して生きましょう。
  • 最後に、神様に選ばれたことは、如何なる状況にあっても、神様が私たちの人生の安全と祝福を保証してくださるという確かさを意味している。安心して前に進みましょう。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。