系図に見る救い主
- マタイの福音書1章1-17節 -
2021年12月12日 佐野レインボーチャペル
聖書
マタイの福音書1章1-17節
序 論
- 今日読んだ聖書の箇所は、お気づきのように、新約聖書の最初の部分である。
- 世界のベストセラーと呼ばれる聖書を、「私も読みたい」と張り切って聖書を手に入れ、意気込んで読み始めようとする人々も多い。そのような人々が、最初に目にするのがこの部分である。
- しかし、同時に、この部分は、その人々を躓かせるというか、ガッカリさせ、「聖書とは、何とつまらないものなのか」と失望させるのが、この部分である。
- なぜなら、この部分は、聞いたことのない人の名前が、ただ羅列されているだけの「系図」だからである。(こんな経験?友達の家で、全く知らない人々の写真を次々に見せてもらったとき??)
- それで、当然とも言えるが、ほとんどの人々は、この部分をあまり意味のないものとして、とばして読むことになる。
- しかし、実は、この冒頭の系図には、「今これから生まれてこようとする」と言うか、「これから紹介しようとする」救い主がどんなお方であるかを説明する大切な意味があった。
- 今日は、そのこと、即ち、ここに記されているイエス様の「系図」の意味、意義を学びたい。
本 論
Ⅰ.この系図は、まず、私たちに、イエス様と言うお方が、「約束され、預言され」て生まれて来た権威ある、信頼できる救い主であることを示している。
- これまで世界に出没した「救い主」は、みな「自称」救い主である。
- 日本で比較的最近有名になった自称救い主は「麻原彰晃」である。
- 統一教会の文鮮明、アメリカのデービッド・コレシュなどもこの例である。
- 彼らの特色は、「自称」と言う言葉が表すように、
- 歴史に、預言も・予告もなく、皆ポッと突然現れ、
- 「私こそが救世主」であると、勝手に、自分で宣言することである。
- そして、奇跡的業を行ったり、魅力ある、説得力のある話を通して人々を惹きつける。
- しかし、彼らは長続きはしない。恐らく「私は救い主だ」と言って10年もった人はいないであろう。遅かれ、早かれ、その化けの皮が剥がされる。
- しかし、イエス様は違った。イエス様は、その誕生より700年も前から「預言された」救い主であった。
- 即ち、イエス様は、ある日、突然現れて、勝手に「私は救い主だ」と言う自称救い主ではない。歴史の中で、遥か昔から、預言され、その成就として生まれて来られたお方である。
- 旧約聖書は、救い主は:
- 「アブラハムの子孫」として生まれること(創世記12章3節、22章18節)、
- 更に、「ダビデの子孫」として生まれること(第二 サムエル7章12,16節)を預言していた。
- この系図の冒頭マタイ1章1節「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と言っているが、それは、イエス様の誕生が正にその成就であるとの宣言であった。
- 更に、このマタイ1章後半に記されている「救い主は、処女から生まれる男の子である」と言う預言も、その誕生より700年も前に、イザヤによって預言されていた。
- その誕生より700年も前から、どの家系に、どの家族から生まれるか、その男の子が救い主になると預言されて生まれてくるなど、かつてこんな人物が、世界に、歴史に存在したであろうか?! 答えはNOである。 だからこそ、イエス様は、特異であり、Authenticであり、信じるに値する救い主である。
Ⅱ.次に、このイエスさまの「系図」が意味するもう一つのことは、イエスさまは「私たちと同じ人間」であるという事実である。
- イエスさまの名前が系図の中に記されているということは、イエス様にも、私たちと同じように、先祖が、祖父母、父母がいて、家族があり、親族がある、ごく「普通の人間」であったことを意味していた。
- アメリカのアクション・コミック界最初のスーパー・ヒーローは、何としても、あの「スーパーマン」である。
- 日本で当時まだ白黒のテレビでそれが、初めて紹介されたとき、小学生、8才だった私も夢中で見た。
- 番組の冒頭で、人々が空を見上げて、「空を見ろ。あ、鳥だ。飛行機だ。違うわ。スーパーマンよ」と大声で叫ぶシーンが印象的であった。
- スーパーマンは、クリプトンと言う非常に高度な文明・文化、科学技術を持つ惑星からやってきた。
- やってきたというより、クリプトン星が何らかの理由で崩壊寸前になったとき、研究者であった彼の父親が、まだ赤ん坊であったその息子だけでも助かればと、彼をカプセルの中に入れ、地球に向けて発射したのであった。
- カプセルに乗って地球に到着したその赤ん坊は、ある子供のいないやさしい老夫婦に拾われ、育てられるのである。
- しかし、長じるにつれて、彼は、自らがとてつもない超能力の持ち主であることに気が付くようになり、育ててくれた老夫婦から、自分の素性を聞くことになる。
- そして、彼は、ご存知のように、やがてその超能力を使って、多くの人々を助ける「スーパーマン」として世に登場するのである。そういう意味で、彼もまた救い主として、この世に来たのである。
- イエスさまとこのスーパーマンは、どちらも救い主であった。しかし、二人には決定的な違いがあった。
- スーパーマンは、他の星から来た超能力を持つエーリアンであった。即ち、私たちのような普通の人間ではなかった。
- しかしイエスさまは、ある日突然コウノトリが風呂敷に包んで口ばしでくわえて運んで来た、どこから来たのか、人間かどうかも分からないような超能力者ではなかった。
- この「系図」が示しているように、先祖も、祖父母も、父母もいる、親戚もいる、ごく普通の人間の一人として生まれて来られたのである。それでは、・・・
- アメリカのアクション・コミック界最初のスーパー・ヒーローは、何としても、あの「スーパーマン」である。
- イエス様が、系図が意味する人間の歴史の中に生まれ、その中を生きるごく「普通の人」であったとはどういう意味か?
- 歴史は英語でHistory。即ち、His Storyと言われるように、神は歴史の創造者であり、支配者である。
- それゆえ、イエス様が全能の神としてではなく、私たち同様な「普通の人」として来られたと言うことは、イエス様が歴史に支配され、振り回され、揉みくちゃにされたことを意味していた。
- 即ち、人として生まれたイエス様のお姿は、決して人間としての現実、難問・難関を次々に超能力で乗り越え、解決するスーパーマン、スーパー・ヒーローのそれではなかった。
- そのことを言っているのが、イザヤ53章2-3節である。「・・・・」。現に、
- イエスさまが、こともあろうに「馬小屋」で誕生したときそうであった。
- 「世界の王子」として生まれたイエス様の生まれたところは、主とエルサレムでも、きらめく装飾の施された立派な宮殿の一室でもなかった。それは、ベツレヘムの町はずれの馬小屋であった。当時の馬小屋は、洞穴・横穴式のものであり、暗くて、糞尿の匂い漂うジメジメした不衛生な場所であり、赤ん坊の誕生には、全く相応しくないところであった。たとい貧しい人々であっても・・・。
- 「世界の救い主」、「神の子の地上デビュー」の場所としては尚更であった。
- しかし、歴史の流れは、折しも、「全世界の人口調査をせよ」と言うローマ皇帝の勅令のもとにあった。イエス様の誕生には不都合なタイミングであった。
- しかし、イエス様は、神として歴史を変えることより、人として歴史の中を生きることをよしとされたのである。
- 更には、誕生後、イエス様は、まだか弱い、いたいけない赤ん坊であったにもかかわらず、当時の王様ヘロデに命を狙われた。
- そのときも、神の子として、スーパーマン的に天の軍勢をもってヘロデ王の軍勢を蹴散らすこともできた。
- しかし、人としてイエス様が取られた道は、何の力も権威もない貧しい両親の子として、夜、暗闇の中を両親と共に、命からがらエジプトに逃れることであった。
- イエスさまが、こともあろうに「馬小屋」で誕生したときそうであった。
- なぜ、イエスさまは、私たちの「救い主」となるために、私たちと同じ「普通の人間」になる必要があったのか?
- 1.第一の理由は、イエス様は、私たちと同じ人間として、同じ歴史を生きた人間として、私たち人間の弱さ、私たちが受ける誘惑、苦しみ、試練を誰よりもよく理解してくださるお方であることである。
- ヘブル4章15-16節にこのように記されている。「・・・・」。
- 私たちは、自分が困ったことに直面したとき、誰に悩みを打ち明けるだろうか? それは、私たちの気持ちや、状況を分かっている、或いは、分かってくれる人にである。
- それは、単に神様として「知的に」それらのことを知っておられるという以上のこと。
- 同じ弱さを持っているものとして、実際にそれを経験した者として、イエスさまは「体験的に」私たちのこと知っていてくださるのである。
- 食べるものが無い空腹を、父親の無い寂しさと不安をイエスさまは知っておられた。
- 聖書は「彼は病をも知っていた」と記しているように病気の苦しさをも知っていた。物事がうまく行かないイライラとフラストレーションも、反対者のいる難しさも、裏切られる孤独と悲しみも、イエスさまは同じ人間として何もかもを知っていてくださる。
- 即ち、イエス様は「私たちを理解してくださる」「分かってくださる」救い主となること。それが、イエスさまが、「系図」の中に記され、普通の人として、歴史の中に生まれてきたことの第一の理由である。
- もう一つの理由は、イエスさまが、私たちと同じ普通の人になることによって、イエス様は、私たち人間の犯した罪の刑罰を身代わりに背負う資格ができたことである。
- 言い方を換えると、イエスさまが私たちと同じ人間になることによって、イエスさまは私たちの罪を身代わりに背負う資格を得たということになる。
- 人間の罪を、汚れの無い「動物」に身代わりに負わせることが、旧約聖書の贖いの儀式として記されている。
- しかし、それはどこまでも儀式的な「象徴」である。罪の意識・感覚も、そこから生まれる「良心の呵責」も知らない「動物」には、所詮、人間の罪とその刑罰を身代わりに負うことはできない。
- それゆえ、人間の誰かが、象徴ではなく、本当に私たちの罪を身代わりに背負わなければならなかった。
- それは、まず第一に「人間」でなければならなかった。しかも、他人の罪を負うためには、自ら「罪の無い」「罪を犯さなかった」人間でなければならなかった。
- イエス様は、既に指摘したように、人として生まれてこられた。そして、イエス様は、罪を犯さずにその生涯を全うされた。
- そのことによって、イエスさまは、他の人の罪とその刑罰を自ら背負うことができるようになった。
- これが、イエスさまが、救い主となるために、人として来られた第二の理由である。
- 1.第一の理由は、イエス様は、私たちと同じ人間として、同じ歴史を生きた人間として、私たち人間の弱さ、私たちが受ける誘惑、苦しみ、試練を誰よりもよく理解してくださるお方であることである。
Ⅲ.最後に、このイエス様の「系図」から学ぶことは、イエスさまが、世界の「すべての人」の救い主であること。
- この系図は、一見、イスラエルの中で、誰もがよく見る普通の系図に見えるが、よく見ると大変ユニークと言うか、いくつかの特異な特色をもっている。
- その第一は、そこに、女性の名前が、しかもマリヤのほかに4人も載っていることである:タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻バテシバ。普通イスラエルの系図には女性の名前が載ることはない。当時、女性は法律的権限は認められず、人としてというより物として扱われた。そんな女性の名前がこの系図の中にはマリヤ含めて5人も載せられたのである。
- 第二は、その女性4人のうち、少なくとも二人は、非イスラエル人、即ち、異邦人であった。これもまた、通常無い、不思議な特色である。純粋な家系を殊のほかに重要視するユダヤ人の間の系図としては極めてユニークなことであった。
- ラハブは、エリコの土着民であったし、
- ルツは、モアブ人であった。
- 他の二人さえも、異邦人であったことが考えられる。タマルはカナン人であった可能性があり、バテシバもヘテ人であったウリヤの妻であったから十分に異邦人、非イスラエル人であった可能性が高い。
- 更に、第三には、その内の3人は、いわゆる罪を犯した女性たちであった。
- 彼らのうちの3人は、社会的にも軽蔑されるような罪を犯した人々であった。
- タマルは、義理の父であったユダと姦淫の罪を犯した。
- ラハブは、遊女であり、いわゆる「商売女」と呼ばれるような、売春を職業としていた婦人であった。
- 最後に、ウリヤの妻バテシバは、夫を裏切りダビデと姦淫の罪を犯した婦人であった。
- 罪に大小の差別はない。すべての人は、神の前に等しく罪人である。そして、すべての人、どんな罪も等しく赦されるのである。
- 「系図」が記すこれらの事実は何を意味しているか?
- 第一に、イエスさまは、如何なる差別をもなさらない。すべての人々を公平に愛し、公平に救われることである。
- このことに関し、まず、イエスさまの前には男女の差別はない(間違いないで頂きたい。「男女の区別が無い」と言っているのではない)。
- また、イエス様の前には人種・民族の差別も無い。人種的に言って、ユダヤ人が勝っているとか、白人が勝っているとか、ある民族が神様に特別に愛されているなどと言うことは無い。このことについてローマ2章10-11節も明確に告げている。
- 第二は、イエスさまはどんな罪人をも等しく愛し、赦され、救われるお方であること。
- 系図の中にわざわざ女性を、しかも異邦人を、挙句の果てには、殊もあろうに、社会的に後ろ指を指されるような罪に手を染めていた人たちをも載せたのである。
- 何を意味するか? 罪に大小の差別はないこと。すべての人は、神の前に等しく罪人である。そして、すべての人、どんな罪も等しく赦されることである。
- 人間社会、世間は、善人と罪人を区別する。しかし、神様は、彼らを分け隔てなく愛し、愛するがゆえに、彼らを赦し、救うために救い主として来られたのである。
- 聖書は、「罪の増すところは、神の恵みがそれに勝って増す」という。
- だから、イエス様について、聖書は、イエスさまは義人たちとではなく、遊女や罪人たちの友となられたと言う。
- 第一に、イエスさまは、如何なる差別をもなさらない。すべての人々を公平に愛し、公平に救われることである。
結 論
- 締めくくりたい。この系図の最初にマタイは、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と記すことによって:
- 「今や長きにわたる旧約聖書の預言の成就として救い主が来られた」。それが、ナザレのイエスであると「系図」をもって証明し、信頼に値するものと宣言しているのである。また、
- このお方は、人として生まれ、私たちと同じ人間として生きてくださった。それゆえに、私たちの苦しみを分かってくださり、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかることができた。
- また、私たちがどんな罪人・悪党であろうと分け隔て無く愛してくださり、赦して下さる救い主である。
- これが、系図が語る救い主の姿である。そのことを味わいつつクリスマスを祝いたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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