「教会の成長#6:成長の基本原則(その4):祈ること(2)」
- 使徒の働き2章40-42節 -

2017年3月26日 WIJC

聖書
使徒の働き2章40-42節

序  論

  • 生命、生きているものの魅力の一つは何と言っても「成長」である。そこには、肉体的成長があり、精神的成長がある。
  • 成長は一見、自然の結果、「ほっといても成長する」と思いがちである。それも事実である。しかし、同時に、そこには、いつも成長のための「条件」がある。「人間」で言うなら、成長のためには、
    1. まず第一に「呼吸する」こと、即ち「空気」が必要である。これなくしては、成長するどころか、生命を維持することさえできない。
    2. 次に、食べること、飲むこと、即ち、飲食、即ち「食物」の摂取が必要である。
    3. それだけでなく、「運動」すること、筋肉を刺激し、使うことが必要であり、それなくして、強い体を作ることはできない。
    4. 更には、人間の健全な成長のためには、精神的に「家族」を中心としての暖かい「交わり」が、必要である。
  • それらがバランスよく、どれもが実行されるとき、「成長」が実現する。それは、「信仰の成長」についても同じである。
  • 初代の教会が著しく、且つ堅実に成長したのは、それらの条件が、忠実に、熱心に果たされていたからである。即ち、聖書はこのように描写する:
    They devoted themselves to the Apostle’s Teaching, to the Fellowship, to the Breaking of the bread and to the Prayers. (使徒の働き2章42節)である。
  • 即ち彼らが成長した条件は(その一つ一つに付されている定冠詞の意味合いも含めると)、
    1. 使徒たちの教え「聖書」
    2. 主にある交わり
    3. 主が定められた聖餐の式、即ち十字架を原点とする生活と人生
    4. 主の御名による祈り
      それらをすることに、動詞のproskarterountesが意味するように、継続的に、熱心であった。これこそが彼らの成長の秘密、理由であった。
  • 先回と今日は、その最後の「祈り」の必要について学んでいる。
  • 第一回目の先回は、「祈りの大切さ」を学びましたが、今日は使徒の働き12章から、初代教会が、直面した問題の中で、実際どのように祈ったかという事実から「祈り」について学びたい。
  • 聖書箇所は、使徒の働き12章1-17節の記事である。

本   論

  1. 初代教会はこのとき、存亡にかかわる「危機」に直面していた。
    1. 1-5節前半までを見ると、悲惨、暗闇、絶対絶命という状況が見えて来る。
    2. 12使徒の中でも、ペテロやヨハネと並んでイエス様に一番近い三人組の弟子の一人として重んじられていたヤコブが、あっという間に、捕らえられ、死刑にされてしまったのである。
    3. 偉大なリーダーを失ったという喪失感や不安もさることながら、
    4. こんな大事な人でさえ神様にその命を守ってもらえないとするなら、一体誰が守られるのか、
    5. 神様は一体私たちを本当に守ってくださるのか、と言う不安と恐怖が、彼らの心を占めていたに違いない。
    6. そこに、更にもう一人の偉大なリーダーであるペテロが捕まったというニュースが入った。
    7. そして、聖書は、ヘロデ王は、このペテロをヤコブと同様に殺そうとしていたと記している。
    8. そんな中、ペテロが自分で牢屋から逃げ出す可能性、或いは、誰かが彼を牢屋から救い出す可能性も、ゼロ以下であった。ペテロの捕縛と収監が極めて厳重であったからである。
      その厳重さとは:
      • 4人一組の兵士x4組の監視:4人の兵士が6時間交替で絶えず監視していたこと
      • 4人のうちの二人の兵士が一人づつ左と右に分かれてペテロと鎖でつながれていたこと
      • 仮に、ペテロがこれらの兵士たちから逃れても、他に衛所と呼ばれる、守衛たちのいるところを2箇所も通り過ぎなければならなかったこと
      • 最後には、「鉄の門」と呼ばれる、強固で頑丈な門が、彼の前に立ちはだかっていたこと
    9. これらを考える時、人間的に言って、ペテロが助かることは「不可能」と言う他なかった。
  2. そのとき、ペテロを愛し、彼が助かることを望んだ、仲間のクリスチャンたちがしたことは何であったか? 別の言い方をすると、神はペテロをその絶望の中から救うために、何を用いられたか?である。
    1. その質問に対する聖書の答えは、使徒の働き12章5節である。「教会は、彼のために神に熱心に祈り続けていた」と強調されている。即ち、「教会の祈り」である。
    2. 初代教会の様子を記す使徒の働きは、この教会の祈りを強調する。
      (1)1章14節、(2)2章42節、(3)3章1節、(4)4章24-31節等々。
    3. 多くの人は、「祈り」と言うと、すぐに「個人的な」祈りを思い浮かべる。
      1. そして、ともすると、個人的な、隠れた祈りこそが重要であり、
      2. 教会の集会でするようなお祈りは、形式的、二次的、補足的なものと思いがちである。
      3. 確かに、イエス様も「自分の奥まった部屋に入り、隠れた所におられる神に祈るように」と個人的な祈りを奨目ておられる(マタイ6章6節)。
      4. しかし、この奨めの中心は、どこまでも見せる祈り、「偽善的」な祈りへの警戒であった。
    4. イエスさまは、隠れた個人的な祈りと共に、「複数での祈り」「教会の祈り」を強調された。
      1. その良い例が、マタイ18章19-20節である。即ち、「もし、あなたがたのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださいます。二人でも三人でも、私の名において集まるところには、私ももその中にいるからです」と言われた。
      2. イエス様がここで強調しておられるのは、複数の人の祈り、即ち、教会の祈りである。
      3. 私たち夫婦を導いてくださった牧師はいつも言っていた。「私は、この教会を私と家内と長男の3人で始めた。教会は、あなたともう一人いれば、二人からもう始まっているのだ。教会の最小単位は二人だ」と。
      4. 一体、教会は何人で教会になるのか? 聖書は何と言っているのか? 10人? 20人? 30人? 教団は、「何人だったら教会になる」という規定を作るかもしれないが。
        • しかし、聖書的には、神の前には、「群れ」の最小単位である「二人」から教会なのである。だから、イエス様は、「二人、三人が私の名によって集まるなら、私もそこにいる」と言われたのである。
        • 会衆が、2人であろうと、20人であろうと、200人であろうと、2000人であろうと、20000人であろうと、そこには全く同じ主の臨在があるのである。
      5. イエス様は、それが何人であろうと「教会」が祈ることを期待しておられるのである。
  3. 教会の祈りが、なぜ、そんなに大切か?
    1. それは、他の人と一緒に祈ることによって、特に、信仰の先輩、祈りの先輩から、どのように祈るかを学び、成長することができるからである。
      1. 弟子達もイエス様からそのようにして祈りを学んだ(ルカ11章1節)
      2. それは、表面的な言葉使いのことではなく、祈りの内容であり、信仰と献身の姿勢である。
    2. それは、またアカウンタビリティー(Accountability)の問題である。
      1. 「祈っているからね」と言って約束しながら実際にはついつい祈らなかったことはないか? 
        • 私にはこのことで辛い経験と思い出がある:日本での聖書学校時代、同級生の一人に精神的病いを抱えている友人がいた。彼は一年目の暮れ、学校がクリスマス前から2週間ほどの冬の休暇に入ろうとしていた時、心の病で苦しんでいた。彼は私に簡単にではあったが自分の事情を訴えて「西郷兄弟、休み中も覚えて祈ってて欲しい」と言った。勿論、即座に「はい」と答えた。しかし、学校から離れて教会に戻った私は、クリスマスの特別伝道集会を始め、数々のクリスマス行事、年末の片付け、整理、新年聖会と呼ばれる年頭の3日間朝・昼・晩ともたれる特別集会の準備、その他の奉仕の為に忙殺され、彼のことをすっかり忘れていた。新学期に学校に戻って彼に会った時、彼に開口一番、「西郷兄弟、祈っててくれた?」と聞かれた。そのとき初めて、彼に祈りを頼まれ、祈ると約束していたことを思い出した。嘘はつきたくないと思い、つらかったが、正直に「ごめん、すっかり忘れていた」と言ったときの彼の顔、姿を忘れることができない。とても悲しい、がっかりした様子で言った。「やっぱり。だから僕はとても苦しい、辛い状態が続いていたんだ」と。彼は、その後、暫くして学校を去った。
        • 「祈る」と約束しながら、一人だとアカウンタビリティーが欠如し、無責任になり易い。
      2. 自分だけで祈っていると、しばしば、1、2回は祈るが、いつの間にかやめてしまっている自分に気がつくことが一杯ある。なぜなら、一人で祈るとき、
        • つい他の仕事・要件・都合が入ってくると、それを優先してしまう。
        • 今日は気分が乗らない、体調が悪いなどの理由で簡単に祈りをやめてしまう。
      3. そんな私たちを支えるのが、複数の人で時間を決めて一緒に祈る習慣である。
        • 「あそこで」、「あの場所で」、「誰々と」必ず祈ると約束して祈ることが必要なのである。
        • 私たちは、自分との約束を簡単に破る。しかし、他の人との約束は破りにくい。
      4. 参考:出エジプト記17章8-13節
    3. また、複数の祈り、教会の祈りは、私たちを自己中心的な信仰から守る。
      1. 一人で祈っているだけの人の多くは、しばしば、自分と自分の家族、ごく親しい友のために祈ることだけで終わっていることも多い。 
      2. 即ち「自分と自分の周囲だけ」のある意味で、「利己的」とも言える祈りのフォーカスである。
      3. しかし、私たちが、二人、三人、更に多くの人々と共に祈るとき、否(いや)が応でも、もっと広い視野で祈るようになる。
      4. 自分の家族のことだけでなく、教会のために祈るようになる。余り知らない人のために、全く知らない、人間的には無関係な人々のために、世界の果ての人々のためにも。
      5. 現に使徒の働き12章でも、彼らは、まるで自分の夫が、父親が、子どもが、危機にさらされているときのように、彼らはペテロのために真剣に祈ったのである。
      6. 自分のために祈ることも幸いである。しかし、他人のために真剣に祈るクリスチャン、教会は強い。他人、他教会、他国人、全世界のために祈る教会となりたい。
  1. 祈りが答えられるために必要でないもの、それは、「神の御旨を知り、その実現に対する信仰」である。
    1. 多くの人は、「答えられる祈り」と言うと、すぐに「神の御心の何たるかを知り、確信する祈りだ」と思い易い。
      1. 友人・知人の癌を神様に癒して頂きたいと祈るとき、果たして、癒されるのが御心なのか分からなくなることがある。そんなとき、「御心ならば癒してください」と何となく曖昧な言葉になってしまい、祈りにもう一つ力がないように感じる。
      2. そんな中、神癒を起こす祈りは、「主よ、この姉妹(兄弟)を癒すのはあなたの御心です。あなたは今、癒して下さると信じます」と御心を大胆に確信した祈りだと思う人が多い。
      3. 確かにそのように「神の御心を確信するときもある、しかし、私たちは神様のように全知ではない。先のこと、将来のことは完全には分からない。
    2. 今日の、初代の教会の危機的出来事の中で、クリスチャンたちがペテロのために熱心に祈ったとき、彼らは、恐らく神の御心が何であるか分からなかった。即ち、
      1. 彼らはペテロが「救い出される」ことが御心だと確信できないで祈っていたと思える。
      2. 何故ならその前にヤコブが捕まえられた時、彼らは当然ヤコブが必ず救出されると信じ祈ったはずである。しかし、そのようにはならず、彼は殺されてしまったのである。
      3. 勿論、そのとき、一体、「神様はいるのだろうか」と疑い始めた人もいただろう。
      4. しかし、もっと多くのクリスチャンたちの正直な気持ちは、
        • 今でも、神様はペテロをどのような状態からでも救い出せると信じている。
        • しかし、神様の御心がどこにあるかは必ずしも分からない、だったのではないか?!
      5. 即ち、一方では、ペテロの救いを真剣に祈りながら、同時に、神さまがどのようになさるかは分からないという心を持ったまま祈っていたに違いない。
      6. それは、丁度ダニエルの友人達が、ペルシャの王の怒りの前に自らの信仰を貫こうとしたために燃え盛る火炎の中に投げ込まれ、焼き殺されることになった時の言葉である。
        彼らは言った。「もし、そうなれば、私たちの神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。・・・しかし、もしそうでなくても、王よ、私たちはあなたの神々に仕えず・・・・」(ダニエル3章17-18節)
      7. 神様がどのようにされるか私たちはいつも知っている訳ではない。しかし、私たちはいつも神様の力と最善を信じている。
    3. 現に彼らは、実際にペテロが奇跡的に救出されて、彼らが祈っている場所に現れたとき、召使の女が「ペテロが帰って来ました」と言っても信じなかった。
      1. み旨を確信し、信じて祈っていたなら、女の言葉に、みんな「ハレルヤ、祈りが答えられた」と言って、直ぐに入り口に駆けつけて大歓迎して、主を賛美したはずである。
      2. しかし、彼らは、「ペテロが帰って来たって? そんなことあるわけないだろう。あなたは彼のみ使いの声でも聞いたんだろう」と、全然信じなかった。
      3. とても、み旨を確信し、信仰に満ちて祈っていたとは思えない。
    4. しかし、感謝すべきかな、神様は、そのような祈りに答えてくださるのである。
  2. 最後に、短く考えたいことは、それでは、「答えられる祈り」のために「必要なものは何か」である。
    1. 答えを得るために、もう一度、使徒の働き12章の記事を見たい。
      1. そこには、今も見てきたように、一見すると、彼らの祈りが答えられた理由も、条件も見つからない気がする。
      2. そこにある理由らしきものはたった一つ、5節にある「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と記されているだけである。
      3. この節が強調していることは、彼らが祈っていたという事実と、それが、「熱心な」祈りであったことと、特に、この節の動詞が文法的に強調していることは、その祈りが「継続的」なものであったことである。
    2. 即ち、応えられる祈りの唯一の条件は、熱心に祈り続けることである。
      1. そのことが言われているのがルカ18章1-8節のイエス様の譬え話である。
      2. 祈りの勝利は、祈り方でも、祈りの言葉でも、信仰でさえない。それは、イエス様の御名によって、ただひたすら祈り続けることである。

結   論

  • 私たちは、初代のクリスチャンたち、初代の教会の成長の秘訣として、(1)聖書、(2)交わり、(3)パンを裂くこと、(4)祈ることに熱心に継続して献身していたことを学んで来た。
  • 一見するなら、それらは、クリスチャンなら誰でもがしていることである。
  • 初代のクリスチャンたちも、私たちも、クリスチャンとして「何をしたのか」という「WHAT」の点では何も変わらない。しかし、それらを「どのようにしたのか」という「HOW」の点で全く違っていた。
  • それが、使徒の働き2章42節に使われている基本動詞「proskarteleow」の意味から明らかである。
    1. その意味は、あることを熱心に、専心して、献身的に、しかも継続的に行なうことである。
    2. それ故、ほとんどすべての英訳聖書は、ここをThey devoted themselves to the Apostles’ teaching, to the fellowship, to the breaking bread, and to the prayer.と訳している。
  • 即ち、初代のクリスチャンたちは、これらのことを熱心に、真剣に、献身的に行なっていた。それらに優先権、プライオリティーをおいて、即ち、時間的にも、経済的にも、エネルギーにおいても、他のことを後回しにしても、行なったのである。
  • 私たちはどうか? 熱心にというより、余りやり過ぎないようにどこかほどほどではないか? しかし、この初代教会のあり方こそが、初代クリスチャンと教会の成長の秘密であった。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。