私たちが目指す教会 「あなたも行って、同じようにしなさい」
- ルカの福音書10章25-37節 -
2022年10月2日 佐野レインボーチャペル
聖書
ルカの福音書10章25-37節
序 論
- 「愛し合う教会」。これが、月並みではあるが、私たちのみならず、全世界の教会の永遠の目標であると信じる。
- そこで、私たちは、これまで2回にわたり、詩篇133篇とマタイ22章のイエス様の有名な愛に関する言葉から学んだ。
- 特に、マタイ22章では、イエス様が「第一の戒め」と言われた「神様を愛する」ことの意味と実践を強調した。
- 先週は、サム先生から、明快に、異端の教えと対比して本当の福音とは何かについて力強いメッセージをいただいたと伺っているが、
- 今日は、再び、「愛し合う教会」のテーマに戻り、イエス様が話された「よきサマリヤ人」の話しを通して、第二の戒めである「隣人を愛する」ことについて、神様からのメッセージを頂きたい。
「良きサマリヤ人」の話しの背景
エルサレムからエリコへ下る道である。それは、約27キロ、歩いて7時間ほどの道のりである。その途中に「マアレー・アドミニーム」(赤い坂)と呼ばれる急な坂で、見通しの悪い場所があった。現在でも地表が酸化鉄で赤く染まって見える場所だそうである。ユダヤの伝説では、エルサレムに向かう巡礼者たちが持っていた捧げ物や献金を狙った強盗に襲われ、流された血で地面が赤く染まったと言われていた。デコボコのある地形で見通しが悪く、強盗が、巡礼者たちを待ち伏せるには絶好の場所だったらしい。ある人と呼ばれる一人のユダヤ人がそこを通ったのである。そして案の定、襲われ、すべてを奪われただけでなく、半殺しの目に遭ったのである。そこに祭司とレビ人が通った。しかし、彼らは、二人ともその人を無視したのである。しかし、その後、同じようにその場に出くわした一人のサマリヤ人が、彼を助けたと言う話である。
- 今日、私たちは、イエス様が語られたこの「良きサマリヤ人」の話からどんなメッセージを頂くのか?
本 論
Ⅰ.第一は、ここに描かれている「祭司とレビ人」は、実は私たちのことでもある。
- 私たちはともすると、「祭司とレビ人」たちを一方的に、「偽善者」「冷たい人間」として、まるで「極悪人」のように扱い、批判し、自分は、彼らほど「悪い人間」ではない、自分には「関係ない」人たちだ、と、まるで「他人ごと」のように考えがちである。
- しかし、それは間違いである。ここで描かれている「祭司とレビ人」の姿は、私たちのことである。
- 「祭司」と「レビ人」について、イエス様は、31,32節でこのように言っている。「たまたま、祭司がひとり、・・・・反対側を通り過ぎて行った。」 ここから、彼らについて、私たちは何を言うことができるか?
- 新改訳では「たまたま」とある。即ち、「祭司」「レビ人」はこの場所に「偶然に」通り合わせたのである。
- 即ち、彼らはこの「半殺しになっている男に、たまたま、偶然に遭ったに過ぎない」のである。
- 彼らのその冷たく見える態度は、偶然に遭った見ず知らずの人に取った態度なのである。
- 私たちは、そのような態度を、殊更に、冷たく、冷酷な態度だと批判できるだろうか?
- 町で歩いているときに、見ず知らずの男が倒れているとき、何かしなければならないと思って、立ち止まり、実際に何かをする人がどのくらいいるだろうか?
例話:こんな話を聞いたことがある。
外を歩いてたら、某社の駐車場におじいさんが倒れてたんだ。寝てるのかな~って感じの安らかなお顔でしたが、ぴくりとも動かないし、暑い夏の午後なのにアスファルトの上に直にうつぶせになってるし、足の角度とか手の広げ具合とかもおかしい。私はそこで気が動転してしまって、「こういうときはどうしたら!?私が声をかけて、もし大変な状況だったら救急車を呼ぶのかな?もう亡くなってたらどうしよう」とオタオタしながら歩いていたら通り過ぎてしまった。周りを見ると、ほかの人も気づいていない(又は見ぬフリをしてる)ようだし、ついつい「私も見なかったことに……すればいいのかなぁ?多分大丈夫だよ、あの人は」……と思ってしまったのだ!気になってもう一度振り返ったら、おじいさんに声をかけている女の人がいた。しばらく見てたら、おじいさんは起き上がって、よろよろとだけど歩いていた。よかった、生きてた。 - これと似たような経験をした人は、少なくないのではないか? このように、祭司とレビ人がしたことは、私たちのしていることとはそんなに遠くないのである。
- 祭司とレビ人が、倒れていた人物を助けなかったのには、理由があった。その理由は、仕事であった。即ち、彼らは「職務に忠実」であり、「責任感が強かった」から、助けられなかったのである。
- 当時の祭司とレビ人に関する「律法の規定」によると、彼らが、もし律法が規定する「穢れたもの」に「触れたら」、暫くの間、神殿の奉仕にあずかることができないと決まっていた。即ち、もし死体に触れたら、自分も7日間は穢れたものとなり、神殿の御用に当たれなかった。
- それゆえ、彼らがもし、この半死に状態の男を助けたら、この律法が適用され、次ぎの7日間、神殿の仕事をすることができなくなり、多くの人々に迷惑をかけるようになった。
- 当然のこととして、彼らが、倒れていた人物を助けなった理由は、この仕事上の責任感から来た可能性もあるのである。
- 私たちにも、このような経験はないか?助けたいと思う人、助けなければならない人を、すぐそばに見ながら、自分の持っている「家族」に対する責任、学生としての「学業」への責任、会社員としての「会社」に対する責任、等を考えると、躊躇し、結局何もできなかったと言うことを経験している人も少なくないであろう。
- その意味で、ここに出てくる「祭司とレビ人」たちは、私達とそんなに遠くない人たちである。
- 更に、彼らが倒れていた人物を助けなかったのは、単純に「面倒が嫌い」だった為かもしれない。
- 私たちは、みな自分の生活の中に、予定外のものが入ってくることに大きな抵抗を感じる。予定外のこと、予定外の人が、自分たちの生活の中に入り込んでくることを、すぐに受け入れられないのである。
- なぜなら、それをするためには、自分の生活を改めて、特別に調整しなければならないからである。時間的調整、空間的調整、精神的な調整が必要である。例えば、卑近な例であるが、急に住むところに困っている人がいて、その人を自分の家に泊めてあげようとするなら、家の中を整理をして、スペースを作らなければならない。
- 即ち、人を助けるということは、しばしば、「面倒」を引き込むことになるのである。
- 私たちは、この面倒が嫌いなのである。平穏な生活が乱されるのが嫌いなのである。いつもの生活のリズムが壊れるのが嫌なのである。
- 祭司とレビ人たちも同じであった。彼らが、もし目の前で見た悲惨なことに、ほんの数秒目をつぶれば、彼らの生活も、人生も、仕事も、家庭も、面倒を引き込まず、平穏でいられる。
- 彼らは面倒を避けたかったのである。しかし、それは私たちと同じである。
- 最後に、イエス様は、祭司とレビ人の両方について、まったく同じ描写を述べられた。即ち、彼らは「彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った」のである。
- 彼らは、そのまま、その倒れていた人の真横を通ったのではなかったのである。本当に冷たい人であれば、何も感じないような、平気な顔をして、そうしたであろう。
- しかし、彼らはそうしなかった。彼らはむしろ大回りして、反対側を通って行ったのである。
- 彼らは、問題の真相を、それ以上、直接見つめることができなかったので、それを意識的に避けたのである。
- 私たちも、しばしば、そのように、助けを必要とする人たちを知りながら、その真相をもっと見ようとする努力を怠る。それは、真相を発見することが怖いのである。その真相を発見したら、その必要に答えなかったとき、もっと苦しくなると思うからである。
- 彼らには、まだ良心が働いていた。良心があったから、まともに倒れている人のそばを通れず、道の反対側を通ったかもしれない。
- 私たちも、同じようなことをしているのではないか? 私たちは、自分の生活や人生の中で、一体どのくらい周囲にある「助けを求める声」に、耳を傾け、目を向けて、その真相を発見しようとしているだろうか? むしろ、ほとんどの時間は、「道の反対側」を通るように、自分が普段生きている全く別の世界に生きることで終始しているのではないか。
- このように、ここで祭司やレビ人がしたことは、しばしば、私たちの姿とそんなに変わらないのである。否、私たちの姿そのものなのであると言っても過言ではないのである。
- 新改訳では「たまたま」とある。即ち、「祭司」「レビ人」はこの場所に「偶然に」通り合わせたのである。
- 確かに、ここで描かれている祭司とレビ人の姿は、人間の現実の姿なのである。
- しかし、同時に、イエス様は、その現実の姿を、祭司とレビ人の姿を通して、私達に示されたとき、「そのままで良いよ」とは言われなかった。即ち、
- ここでイエス様のメッセージは、「これが人間の現実だ。それで、いいんだ。人間は弱いのだからしようがない。」ではなかったのである。
- イエス様は、むしろ、祭司やレビ人とは別に、サマリヤ人を通して、まことの「隣人」の姿を紹介し、「このようになれ」と言われたのである。
- 長い間World Visionの副総裁をも勤められた故ポール・リース博士はこのように言われた。「私たちは確かに弱い人間である。しかし、私たちは、キリストにある人間であることを忘れてはならない。We are human. But we are not just human. We are human in Christ」。
- イエス様は、私たちにまず人間の現実を祭司とレビ人たちの姿を通して示された後、
- 即ち、「教えや儀式」を厳格に守る宗教に携わっていた「祭司やレビ人」でさえ、上述したような「人間の弱さの現実」に負けている姿を示された後、
- 「そんな弱い人間さえも、イエス様にあって、弱さの現実に打ち勝つことができる」と、「隣人愛に生きる人間の姿」を次に紹介されたのである。
- しかし、同時に、イエス様は、その現実の姿を、祭司とレビ人の姿を通して、私達に示されたとき、「そのままで良いよ」とは言われなかった。即ち、
Ⅱ.それが、今日の主人公と言えるサマリヤ人の姿である。
- 第一に、彼は、人のした悪を思わなかった。
- 33節を見ると、イエス様は、彼はサマリヤ人であったと明確に言われた。一方、この半殺しにされて倒れていた人物はユダヤ人であった。
- ご存じのように、ユダヤ人とサマリヤ人は、「人種的に」「民族的に」言って、互いに反目し合っていた。それは、主にユダヤ人のサマリヤ人に対する軽蔑と差別に端を発していた。率直に言うなら、サマリヤ人は、いつもユダヤ人に、苛められ、嫌な思いや経験を一杯していたのである。
- だから、このサマリヤ人が、そこに倒れているのがユダヤ人であることを発見したとき、助けるべきか、躊躇してもおかしくなかった。「いい気味だ」と、笑って通り過ぎて当然であった。
- しかし、その時、彼は、ユダヤ人たちが、彼に、また、彼の同胞、仲間たちに何をしたか、どんな悪をして来たかを数えなかった。
- それは、正に、聖書の言う愛の特色である。第一コリント13章5節は言う。「・・・・」と。
- 私たちは、人が自分にした悪を、意地悪をいつまでも赦すことができないで、恨み、つらみを引きずる。
- しかし、イエス様も、あの十字架で、これまでのユダヤ人たちの仕打ちを思い出して父なる神様に、彼らの上に呪いを祈ったのではなく、救いを祈った。
- 最初の殉教者ステパノも同じ道を歩んだ。これが隣人愛の第一歩である。
- 更に、彼は、「たまたま」OR「偶然」と言うことを信じなかった人物である。
- 「祭司やレビ人」たちは、「たまたま」そこを通っただけだから、そこであった人には、必ずしも関係も責任も無いと思った。彼らは、自分が考えている世界だけが、自分に関係があり、責任がある世界だと思っていた。だからその場から「逃げて」しまえば、それで終わりだと思った。
- しかしこのサマリヤ人は違った。彼もそこにたまたま「来あわせた」(33)に過ぎなかった。しかし、彼にとっては、人生で遭う一人一人が大切な人であり、責任があると思っていたのである。
- 彼は、「偶然」も「たまたま」などと言うものも信じていなかった。すべては、神様の摂理のうちにあると信じていた。
- だから初めて遭った人も、彼は関係ない人などとは思わなかった。彼は、その人にも自分のできることはする責任があると思ったのである。更には、
- だからこそ、彼は自分の力ではできない隣人愛の実践も、このように導いた神様ご自身が必ずさせてくださると信じていた。マタイ19章26節
- それは、正に、次のことからも明らかである。即ち、
- 33節に「彼を見て、かわいそうに思い」とあるが、この「かわいそうに思い」と言う言葉は、原語ではスプラグクニゾマイと言う言葉である。
- この言葉は、「福音書」では動詞の形だけで出てくる。
- そして、その何れもが、神様、イエス様の人に対する愛と同情を表す為に用いられている。
- その数例は、マタイ9:36であり、ルカ15:20の有名な放蕩息子の譬話の中で父親がボロボロになって帰ってきた息子を迎えたときである。
- 即ち、このサマリヤ人は、神様の愛をもってこの倒れている人を愛し介抱したのである。
- イエス様が、期待していること、それは、自己中心で弱い人間である「私たち」もまた、神様ご自身の愛を頂くことによって、私たちもまた、神様の愛をもって互いに愛し合うことである。
- だから、イエス様は言われた。「私が、あなたがたを愛したように、あなたがたも、また互いに愛し合いなさい」と。
- 33節に「彼を見て、かわいそうに思い」とあるが、この「かわいそうに思い」と言う言葉は、原語ではスプラグクニゾマイと言う言葉である。
- 彼の素晴らしさは、その愛を具体的に、できる範囲で、かつ必要な範囲で実行したことである。
- イエス様、聖書は、御言葉に聞き、同意する以上に、それを実践することの重要さを強調された。
- イエス様:マタイ7章24-27節
- ヤコブ:ヤコブ1章22-24節
- それでは、彼がしたことはなんであったか?
- 近寄り、
- オリーブ油を塗り、
- ぶどう酒を注ぎ、
- 包帯をし、
- 家畜に乗せ、
- 宿屋につれていき、
- 介抱し、
- 2デナリを渡し、
- 宿屋の主人に頼んでいく、等々であった。
- それらから言えることは・・・?
- 犠牲:時間、金銭的
- バランス:自らの責任と分のわきまえにおける良識(できる範囲で)
- イエス様、聖書は、御言葉に聞き、同意する以上に、それを実践することの重要さを強調された。
決 論
- このサマリヤ人が、「祭司・レビ人」と、決定的に違っていた点はどこであったか? 消極的には、彼が、目の前の人の悪を思わず、即ち、その悪を赦し、神の愛と憐みの目をもって見たこと、積極的には、愛を知っているだけでなく、それを即座に実行したことであった。
- しかし、それは、人間が、自分の力でできることではない。聖霊によって、神様の愛を頂く、即ち、私たちの内に住まわれる神様にしていただかねばできない。
- 同時に、それは、多くの場合、何か膨大な、途轍もない大きなものと言うより、犠牲と良識のバランスの中で実践され得るものである。
- だから、恐れず、「あなたも行って、同じようにしなさい」と言うイエス様のお言葉を励ましとして、あなたの隣人への愛を実践したい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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