主の祈り(8)人のための祈り(3)「赦し#2」
- マタイの福音書6章9-15節 -

2022年8月7日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書6章9-15節

序  論

  • 今日は、「主の祈り」を通してメッセージをいただく8回目の礼拝である。
  • 先回から、「私たちが、私達に負い目のある者を赦すように、私たちの負い目を赦してください」と言う「祈り」を「三つの必要」と言う角度から学んでいる。
  • 先回は、第一の必要として、「そもそも、私たちが「負い目を持っている」ものであることを自覚する必要」について学んだ。
  • 今日は、赦しに関する、残りの二つの「必要」のついて学ぶ。

本     論

  1. まず、この祈りを文法的に分析したい。
    1. そのため、この祈りをいくつかの翻訳・原語で比べてみたい。
      • 新改訳:私達の負い目をお赦しください。私達も私たちに負い目のある人達を赦しました。
      • 新共同訳:私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
      • NIV : Forgive us our debts as we have forgiven our debtors.
      • 原語(を英語で):Forgive us the debts of us as we also forgave the debtors of us. 
    2. これらから言えることは何か?
      • 新改訳だけがこの祈りを二つの各々独立した文章にしている。即ち「・・・・」。しかし、
      • 原語、及び他の訳は、みな接続詞などを介した主節と従属節からなる一つの文章である。そして、これが正しいと思う。
      • 即ち、主節「私たちの負い目を赦してください」。従属節「私たちも自分に負い目のある人々を赦しました」であるが、この二つの節を繋ぐのが、hows(ギリシャ語)、as(英語)、ように(共同訳)などの接続詞・形容動詞・付属語である。
      • 文法的に明確なことは主節が中心である。即ち、ここでイエス様が、まず強調したかったのは「私たちの負い目を赦してください」という「自分の罪の赦し」の必要である。
  2. 即ち、イエス様は、ここで、「神に負い目を赦されること」と「人と人との間の負い目を互いに赦し合うこと」の両方の必要を並行して並べられたのではない。
    1. 主文は、どこまでも、神様から自分の負い目、自分の罪の赦しを頂く必要の重要さである。
    2. このポイントは、人との間の「和」をもって尊しとする文化・社会に生きてきた日本人にはとても大切なことである。
    3. 即ち、日本人の傾向性は、神様にどう思われるかより、人にどう思われるかの方が、気になることであり、大切なこととしてしまう傾向である。
    4. しかし、聖書は、私たちに、キリストによる「神からの罪の赦し」、「神との平和」(ローマ5章1節)の必要の重要性を強調している。
    5. 現に、ダビデ王がそうであった。彼は、彼に忠実に仕える部下の妻を姦淫をもって奪い、更にはその罪を隠すために、その部下を戦場で死ぬように仕組んで死に至らせると言う恐ろしい犯罪人となった。しかし、彼の周囲の人はそれを知らないので、彼を責めることはなかった。だから彼もそのままにしていた。このままゴマカシて通るかと思われた。しかし、その時でも、神様は彼の罪のすべてを知り、彼を責められた。だから、ダビデは苦しんだ。その時の彼の苦悩が、詩篇32篇1-5節に記されている。それ故、ダビデが、幸せになるためには、この神様からの責めをまず取って頂くこと、神様からの罪の赦しを頂くことから始めなければならない。人同志の赦し合いの問題はその次である。
    6. 今から20年以上も前になるか、テキサス州でのこと。不倫の子として生まれ、両親は早くに離婚し、十代半ばで、麻薬・売春の地獄に身を堕とす中、24才で仲間と共に、極めて残虐な殺人罪を犯し、死刑囚となったカーラ・フェイ・タッカー:受刑後間もなく、彼女は刑務所でクリスチャンとなる。彼女は別人のように変わった。それは誰の目から見ても明らかであった。刑務所内で多くの受刑者たちに良い感化、影響を与えて行った。それから10年以上が経った頃、死刑執行日が決まった。当然のことのように彼女の助命のための署名運動が起こった。このことは、テキサスに留まらず全国に広がり、ローマ法王までも動かした。全国放送のテレビ番組でも取りあげられたが、そのとき、彼女の運命を決める最終決定権は、時の州知事GWブッシュの手にあった。処刑の日が一週間? 数日?と近づいたころ、彼女の顔と姿を私もテレビの画面を通して見た。輝いていた。インタビューに答えて彼女は次のようなことを言った。「わたしはもし特赦が与えられたら、それをお受けし、皆の役に立つ人生を送りたい。しかし、同時に私は私のしたことの当然の報いを受けようとしているから、もしそれが決定なら受ける準備はできています。でも、それがどちらでも、私の喜びは、神様に罪を赦して頂いたこと、それゆえ、主と御国でお会いできることです」と。
    7. 州知事の最終決定は死刑執行であった。彼女は殺人という重罪を犯した当然の処罰を受けることの覚悟はできていた。だから恩赦の如何は二の次であった。なぜか? それは、彼女にとって一番大切なことは、神との平和、神様からの赦しであったからである。彼女は、既にイエス様の十字架によってそれを得ていたので、処刑をも恐れなかったのである。
    8. 人と赦し合うことは大切である。しかし、その前に人生で一番大切なことは、神との平和、神様からの赦しである。そして、それを基礎にしてこそ、次のステップがある。
  1. 即ち「我らに負い目のある者を我らが赦すように」と言う祈りであり、他者を赦す必要である。
  2. ここで注意したいことは、しばしばこの部分を表面的に理解し、「他人の負い目を赦す」ことが、「神様から私たち自身の負い目を赦して頂く」ことの「前提条件」と誤解することである。
    1. 簡単に言い換えるなら、「私たちが人を赦さなければ、神も私たちを赦さない」となる。
    2. 確かに、直後の14-15節など、そのような理解をサポートするように見える聖句もある。それらについての解説と説明を要するであろうが、それを今ここですることはできない。
  3. しかし、そのような、単純に「赦さなければ赦されない」式の解釈・理解は、次の二つの点から、誤りである。
    1. 第一の誤りは、そのような解釈は、福音の原理に反する。福音の原理とは:
      • 人間は、罪人として、自分の力で何一つ善を行う力がない。特に、人を赦す善行など無理である。
      • しかし、キリストの十字架と復活の福音によって、まず自分の罪が赦され、神の子として、神と繋がるとき、父なる神様から力が与えられて、成長の中で、人を赦す可能性の道が開けてくる。
      • 即ちそのような、「もし、赦すなら、赦される」と言うような「前提条件的」理解は、福音の原理とその結果としての実際経験に反する。
    2. 第二の誤りは、マタイ18章23-35節のイエス様の譬え話の明確なメッセージ・ポイントに真っ向から反する。(読む)
      • この譬え話のポイントは、1万タラント(今の6000億円相当?)の大金を王様に借りていたが、一銭も返せず、刑務所に入れられるはずだったが、王の一方的憐みのゆえに、「無条件」で王様に赦された男がいた。その男が、天にも昇るような赦された喜びで家路を急いでいたとき、自分が僅か100万円を貸している友人に出会った。しかし、6000億円を赦された男は、その負債者の100万円に微塵も憐れみを示さず、赦さず、返済できないことに怒り狂って、牢獄に放り込んだと言う。このことを聞いた王は激怒し、その男に施した借金の赦免を反古にし、牢獄に放り込んだというのである。
      • そこにあるメイン・メッセージは、①まず、王様による「無条件」の赦しが先行。②次に、結果として「赦されたから赦す」であって、「赦したから赦される」の順番では無い。
  4. これらの点から、「他者の赦し」、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦したように」と言う祈りは、次のように理解するべきである。
    1. まず第一は、上述したように、それは、「神様から赦される」ための「前提条件」Pre-conditionではないこと。でなければ、神様から赦してもらえる人はいないであろう。
    2. むしろ、それは、あえて言うなら、Post-condition とでもいえるかもしれない。即ち、人に対する赦しは、神様に自分の罪を赦して頂いた「後」に期待されることである。換言すると、
    3. エペソ2章8-10節にみるように、善い行い(人を赦すなど)は、救いの条件ではない(救いは100%無条件の賜物である)。寧ろそれは救いの目的である。神様はその目的が果たされるべく、私たちに力を「準備」て下さっているので、実践が当然のこととして期待される。
    4. 上述のイエス様の譬えでも、王は明らかに、1万タラントの負債をしていた男が、他者の100デナリの負債者を赦したから、1万タラントを赦したのではなかった。むしろ、その男が赦された後に、Pay it forwardせず、他者を赦さなかったことに怒ったのである。
      *註:ここで、「私たちも…赦しました」の動詞が文法的に、アオリスト・テンス(不定過去時制)であるので、「赦しました」と言う行為と事実は、既に過去になされ,神様からの赦しを頂く前に完了した事・行為のように訳し、その印象を与えるが、アオリスト・テンスの意味は、今日で言う過去・現在・未来を単純に表すものとは違うということだけ申し上げておきたい。
  5. イエス様は、この王様のように、私たちの罪のために十字架に掛かり、私たちの罪と言う負債を負い、赦してくださった。
    1. 多くのクリスチャンは、それで満足してしまっているかもしれない。
    2. しかし、イエス様は、この「主の祈り」で、「我らに負い目のある者を我らが赦すごとく」と祈ることを通して、私たちに、「赦された」ところで終わってはならない。赦された人は、「他の人を赦す」と言う「赦しの連鎖」の重要さを教えようとなさったのである。
    3. 心理学者、カウンセリングの専門家は言う。しばしば、「赦されない人」よりも「赦さない人」の方が苦悩が深く、より深刻な不幸を経験すると。
    4. 前述のイエス様の譬えでも、イエス様は、たとい、せっかく自分は赦されても、もし他者を赦さないなら、赦された事実まで反古、ダメにしてしまうと言われた。

結   論

  • メッセージを締めくくらなければならないが、この最後のポイントで学んだ「赦し合う」ことの重要性は、イエス様が、「主の祈り」の後に、この点を14-15節で再強調されたことからも明白である。
    1. 個人的にも、「赦し合う」ことなしに、私たちの夫婦生活も、子育ても、成り立たなかったし、いわんや、幸せを味わうことはなかった。
    2. また、それは、社会的にも、今後、愈々最重要事となるであろう。現代社会は、益々、多様化し、多元的社会となっている。残念ながらその中で人々が経験していることは、「自由」や「豊かさ」ではなく、反対に、「分断と憎悪」である。それは、寛容と赦しが欠如しているからである。
    3. その現実の中で、イエス様が、私たちに求められることは、神様から赦されたキリスト者として、他者を赦すことを、日毎に祈って行くことである。
  • しかし、「他者を赦す」ことは、誰もが知っているように決して易しいことではない。自分の力でできないことだから、「主の祈り」を通して「祈れ」と言われるのである。
  • 結論として、次の二つのことを覚えてこのことを祈ることをお勧めしたい。
    1. 「他者への赦し」は、どこまでも、神様から自分の莫大な負い目・罪を赦されたと言う原点と源泉があるからこそできること
    2. これは、多くの人にとって、多くの場合(違う場合もあるが)、何回もの決断と祈りを通しての長い成長の「プロセス」の中で段階的に実現して行くことである。
  • このことに関するお証しをご紹介して、締め括りたい。
  • 横田映代(てるよ)と言うご婦人がいる。これからご紹介する彼女の証しは、彼女自身が「地上に輝く星たちⅡ」と言う証し集の執筆者の一人として、また、「我が家のアメージング・グレース」と言う一冊の自叙伝として公表されいるので、実名を使わせて頂いた。▶彼女とお知り合いになったのは、かつてワシントンにおられた彼女の友人を通してであった。お二人ともそれぞれご夫婦でワシントンに同時期に滞在されていたことがあり、友人になられた。▶映代さんは、酒乱で母親に暴力を振るい家庭をメチャクチャにした父親を幼いときから37歳になるまで憎しみ続けてきた。酔うとしばしば母親の髪を掴み、そのまま壁に何回もたたき付ける。彼女がまだ小学生の頃、冬の雪のある日、父親の暴力に耐えかねて母親と二人で、家を飛び出て、電車の駅の待合室で二人で抱き合い、新聞紙で身をくるんで寒さをしのいだこともあったと言う。「そんな父親が死んでしまえばいい」「いっそのこと殺してしまいたい」とさえ思ったと言う。そんな中、結婚なんてとんでもないとさえ諦めていた彼女。しかし、そのすべてを受け入れてくれる男性と出会い、結婚。ご主人の留学で2年間米国留学。その間が、父親が最も悪かったときだったとのこと。そして、酒のためにボロボロとなった体に加えて、更に筋萎縮性の病ALSを発病。その中でも働きながら看病する母親を暴言、唾、汚物で虐待し続けた。母親は遂に倒れる。末期の胃がんであった。一方、映代さんとご主人は滞米中に多くのクリスチャンと出会い、教会にも出席し、キリスト教の福音に近づき始めた。帰国後も、近くの教会に出席し、まずご主人が、続いて映代さんも救われた。そして、病床を訪ねてくれた宣教師を通して母親も主を受け入れ、間もなく平安のうちに天に召された。母の死を告げるために、父の病院を訪ねた映代さんに、父親は「何しに来た。・・・今、俺が生きとるのは、お前への復讐の一念だ」と言った。その時、信じられないことが起こったと彼女は言う。それはこっちのセリフだと言うはずだった彼女の思いとは別に、彼女の口から「ごめんなさい。私が悪かったの。赦してね」と驚くべき言葉が出てきたと言う。その時更なる奇跡が起こった。父親が、「俺が悪かった。赦してくれ」と言って泣きじゃくったと言う。▶後に彼女は言う。「父との再会の瞬間には、神様が力強く介入してくださり、・・・奇跡的な和解ができたのですが、私が本当の意味で「赦す」と言うことを自分のものにするためには、時間をかけて、聖書のことばにより、地道に養われていく過程が必要でした」と。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。