主の祈り(7)人のための祈り(2)「赦し」
- マタイの福音書6章9-15節 -

2022年7月24日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書6章9-15節

序  論

  • 今日は、「主の祈り」を通してメッセージをいただく7回目の礼拝である。
  • 毎回繰り返すが、それは、そのまま祈ってしまえば、わずか30秒足らずで終わってしまう短い祈りである。
  • ルカの福音書11章によると、イエス様は、「わたしたちにも祈りを教えてください」と弟子たちに求められたときに、この「主の祈り」を教えられたのである。
  • しかし、それは、この30秒ほどの祈りを繰り返していれば良いと言う意味で教えられたのではない。
  • それが証拠に、イエス様自身、もっともっと、朝に昼に夜に、祈られた。その例を、マルコ1章35節「さて、イエスは朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」や、マタイ14章23節「群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた」に見ることができる。あの最後の晩餐の夜、ゲッセマネの園でも弟子達に夜遅く疲れているにも関わらず、寝ないで一緒に熱心に祈ることを求められた。
  • 初代の弟子たちにしても、パウロにしても、この30秒の「主の祈り」をただ繰り返して、満足していたようには到底思えない。それでは、イエス様は、「主の祈り」をどう言う意味で弟子たちに教えられたのか?
  • 「主の祈り」は、祈りの「エッセンス」である。祈りが含むべき根本的な要素、なくてならない祈りの要素が圧縮、凝縮されてここに入っているのである。
  • それゆえ、「主の祈り」が何であるかを知って、私達の実際の祈りの中で、そのエッセンスを、深め、敷衍し、拡大し、発展させて、祈りの生活を豊かにして行くことが私たちに託されているのである。
  • その意味で、私たちは、この「主の祈り」を度々捧げつつ、自分の祈りの生活、信仰生活を点検し、そのエッセンスがちゃんと入っているか、その線に沿っているかを見ることは肝要なことである。
  • さて、今日は、第7回目として、「私たちが、私達に負い目のある者を赦すように、私たちの負い目を赦してください」と言う「祈り」を「三つの必要」と言う角度から学びたい。
  • しかし、この祈りは、「罪の赦し」と言うキリスト教の中心課題に関するものであるので、少し丁寧に学びたい。従って、今日のメッセージは、・・・

本  論

  1. そこで、まず、ここで言う「負い目」とは何かを考えたい。私たちはどういう意味で、誰に、負い目、負債がある者なのか?
    1. ここで日本語で「負い目」と訳されているギリシャ語の原語は、「オフェイレイマ」である。イエス様は、ここでアラム語で「ホーバー」といわれたか、ヘブル語を用いて「ハヤビーム」といわれたか、いずれかであるが、いずれにせよ、それは「負い目」「負債」「借金」を意味する言葉であった。
    2. それは、「支払うべきものを支払っていない」「負債・借金がある」という意味の、もともと「経済用語」であったが、その後、イスラエル社会で、道徳的、霊的、宗教的な意味でも用いられるようになっていった。
      1. イエス様は、ここで、私たちは、神に対し、また人に対して、道徳的、霊的な「借金」をしている存在であると言われるのである。
      2. 即ち、「私たちが、霊的に、神と人との前に、するべきことをしていない、返すべきものを返していない」状態であることを意味していた。
      3. 具体的には、聖書は、人間は神の前に次のような負い目、借金を負っていると言う。
        • 第一に、人間は神の栄光・素晴らしさを表すという目的をもって神様に造られた(イザヤ43章7節)にも関わらず、自分の栄光・有能さ・エゴ・快楽を、追及・誇示することに一杯で、本来の創造の目的を果たしていないと言う負い目である。
        • 第二の負い目は、ローマ1章20-21節にあるように、人間は自分自身、更にその環境としての宇宙・自然界を、神様がミクロからマクロに至るまで実に巧妙・悠大・優美に造られたことを知り、享受しながらも、神を崇めず、感謝もしない負い目である。
        • 第三は、私たちが犯した罪の報いとしての負い目である。私たちはローマ1章29-32節にあるように、神に背を向け、隣人を傷つけるなどの数々の罪を犯して来た。聖書は、それらの罪の報い・結果としての「死」と言う借金・負い目であると言う。
    3. そして、これらの霊的、道徳的負い目・借金こそが、聖書の言う「罪」である。
      • だからルカによる福音書の「主の祈り」では、この祈りを「私たちの『罪』をお赦しください。私たちも私たちに『負い目』のあるものをみな赦します」(11章4節)と言う。
      • 即ち、ルカは、ここで、明らかに「負い目」と「罪」を同義語として用いている。
  2. それゆえ、聖書の言う「救い」とは、その霊的な負債・借金を、誰か(即ち、自分自身か、別の人か)が、全額払い切り、「負債者」と言う罪の重荷から完全に解放され、赦されることである。
    1. この借金と言う罪の赦し、負債者としての重荷からの解放なくして、人生の幸せも、永遠の幸せもない。だから「我らの罪・負い目を赦したまえ」と祈る必要があるのである。
      1. 個人的な話になるが、事業に失敗し莫大な借金を負った時の父の顔つき、成功していた当時の喜色満面な顔とは全く違っていた。そのうつろで定まらない目つき、姿を忘れられない。借金の重荷は人を変え、人格までも壊してしまうとシミジミ思った。
      2. ある精神病理学者は、「もし、今精神の病で入院している人々が、罪の呵責(即ち、霊的負債感)から解放されたら、その半数以上が退院できるだろう」と言った。
      3. 聖書のダビデもその証人である。彼は一国の王であったが、姦淫と殺人の罪を犯し、誰も知らなかったが、良心の呵責に苦しんだ。地位も、名誉も、財産も、快楽も、彼の犯した罪の負い目から彼を解放することはできなかった。詩篇32篇1-5節にそのことが記されている。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときには、一日中うめいて私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」
    2. それでは、どうすれば、私たちは、この罪の負い目、借金、負債から解放されるのか?
      1. 私たち自身が、自分でその負い目を払うのか? 
        • 「自分で」と言う沢山の人々に会って来た。しかし、一体彼らは何をしたのか?
        • 子供用の本:底なし沼に落ちたサルが自分の髭を掴んで引っ張り上げようとする姿
        • 自分だけではない。聖書は明確にそれは誰にも不可能だと言う。「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」(新共同訳 詩篇49篇9節)
      2. では、誰が? 言うまでもなくイエス様である。すべての人は罪を犯したので、他人を救うどころではない。イエス様だけが何一つ罪を犯されなかった。そのイエス様が、私たちの罪と言う借金・負債をあの十字架で身代わりに背負ってくださったのである。
      3. イザヤ53章6節「しかし、主は、私たちのすべての咎(負い目)を彼に負わせた」。
    3. しかし、ここで大切なことがある。「主の祈り」はある意味で(律法的、儀式的にではないが)「日々」「毎日」捧げることが意識されている祈りである。
      • それが如実に表されているのが、先回学んだ「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の祈りである。
      • その意味で、この「赦し」を乞う祈りも、毎日捧げるべきもの、絶えず、しばしば意識されるべきものである。
      • 言い換えるなら、確かに、悔い改めて「赦し」を乞う祈りは、私たちが、救われたとき、入信するときに、なすべき重要なことであるが、
      • それは、同時に。一度だけ、或いは何か人生の節目や記念日に、改まって、時々、捧げるものではなく、毎日、折ある毎に、日常生活の中で捧げるべきものである。
      • なぜなら、赦しは生涯的なもの、日常的なもので、私たちは赦し合って生きるべき存在であるからである。エペソ4章32節「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように互いに赦し合いなさい。」。
      • 私たち夫婦は結婚して満48年になったが、33年の記念日に、今でも忘れることができないことがあった。丁度英会話クラスのチャペルの日であったので、思いついたように私が、その時間になって、急に、チャイルドケアの奉仕をしていた家内を呼んで来てもらい、結婚33年のアニバーサリーに感謝の証しを準備なしに頼んだ。私も、参加者(当時20名くらい)も、その時、彼女が何か「感謝・喜び・賛辞」のことば」から始まる証しを期待していた。しかし、彼女は真剣な顔をして開口一番言った。「私たちの33年は、赦し合う33年でした」と。みんな意表を突かれ、興味津々の面持ちで一体何を赦し合って来たのかと言う顔をしていた。しかし、確かに、その言葉は私の期待していたものとは違い、少しショックであったが、正にその通りであった。
      • 不完全な私たち人間にとって、愛と幸せの中心は、毎日の生活の中で、互いに赦し合い続けることであることにその時改めて気が付いた。
      • もし人との間でそうなら、ましてや、神様に対して、私たちはもっと絶えざる赦しを必要とする者である。それゆえ、私たちは、神様の前に日毎にこの祈りを捧げるべきであり、だからこそ、主は、それを「主の祈り」に加えられたのである。
      • しかし、これは、決して「私は、ご免なさいと謝ってばっかりの、価値のない、穢れた罪人、ダメ人間です」と、ウジウジ、ジメジメとした心で祈るのとは違う。
      • この祈りは毎朝、毎日、「アバ父」である神の前に負い目を自覚し、悔い改め、赦しを確信し、感謝して、神様との「曇り無き」清々しい関係を絶えず自分のものにする父なる神に愛されている子としての祈りである。

結  論

  • 今日のメッセージは、ここで止めたい。
  • 次回、残りの二つの「必要」について学びたい:神様から自分の負い目を赦して頂く必要、自分に負い目のある人を赦す必要

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。