主の祈り (3)「神についての3つの祈り」前半
- マタイの福音書6章1-15節 -
2022年5月22日 佐野レインボーチャペル
聖書
マタイの福音書6章1-15節
序 論
●今日は、「主の祈り」の学びの3回目である。先の2回は、祈りの「鍵」を握ると言える「誰に祈るのか」と言う問題を扱った。それは「天にいます父なる神」についてであった。
●「父なる神」、しかし、それは、「父」、「お父様」と言うような、どこか、かしこまった距離を感じさせるような関係ではなく、イエス様の使われたアラム語が示すように、「アバ」、即ち「お父ちゃん」であった。
●ローマ人8章15節でパウロが言っているように、イエス様の十字架の血潮によって与えられたご聖霊によって、私たちは神様とこのような父子の関係に入れられたのである。
●「父なる神」と言うと必ず思い出すことがある。私が信仰に入って間もないころ、或る東南アジアへの宣教師の先生が私どもの教会に講師としておみえになった。その時、ご自身の入信の証をなさった。大学時代に友人に誘われて初めて教会に行ったとき、「父なる神」と言う言葉が彼の心を捕らえた。彼は、幼くして、父を失っていたからである。心のどこかで父親を求めていた彼の心は踊った。「僕にもお父さんがいるんだ」「お父ちゃんと呼べるお方がいるんだ」と。
●先回学んだことは、もう一つ、この「お父ちゃん」は、そこらのただ気のいい、話の分かる、優しいオヤジではない。彼は、同時に「天にいます」、「天の王座に座り」、全世界、全歴史を支配し、君臨する王として力と権力を持つお方である。だから、先の見えない今のこの不安定・不確定の時代のただ中で、呼びかけるに値するお方である。
●この「呼びかけ」の後、「主の祈り」は、容易に前半と後半に分かれる。
●前半は、神様に関する3つの祈りである。即ち、
・御名があがめられますように。(Hallowed be Thy Name) 9節
・御国が来ますように。(Thy Kingdom come) 10節
・みこころが天で行われるように地でも行われますように。(Thy Will be done on earth as it is in heaven) 10節
●後半は、私たち自身に関する同じく3つの祈りである。即ち、
・私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。Give us this day our daily bread 11節
・ 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。And forgive us our debts as we forgive our debtors. 12節
・ 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。Lead us not into temptation and deliver us from evil. 13節
●このような、まず「神に関すること」、次に「人に関すること」と言う「順番」は、「十戒」に似ている。「十戒」の場合も、前半4つの戒めが私たちの神に対するものであり、後半6つが私たちの他者に対する(対人の)戒め、と言う順番である。即ち、1-4戒めは神様との関係で:
第1戒 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第2戒 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
第3戒 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
第4戒 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
5-10戒は、人との関係で:
第5戒 あなたの父と母を敬え。
第6戒 殺してはならない。
第7戒 姦淫してはならない。
第8戒 盗んではならない。
第9戒 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。(偽ってはならない)
第10戒 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。(貪ってはならない)
●と言うことで、今日は、まず「主の祈り」の前半、「神様に関する祈り」から学び始めるが、
本 論
Ⅰ.聖書における、このような「最初に神」「次に人」と言う「順番」がある意味について少し考えたい。
- まず、この順番は、違反したからと言って、罰を伴うような、絶対的な戒律や規則ではない。
- それゆえ、この順番をひっくり返して祈ったからと言って、神様が「俺を2番目にしたな!!」と、腹を立て、気分を害して祈りに答えないと言うようなことはあり得ない。
- 例えば、子どもが事故で危篤・緊急状態にあるときも、何が何でも「祈りは、まず神に関することから始めなければならない」と、今にも死にそうな子どものことは後回しにして、まず「神に関する祈り」を捧げると言うような儀式的、律法的意味ではない。
- 緊急時に、まず目の前の問題・課題・苦しみを神様にぶつけて祈ることは、自然、当然なことであり、詩篇にもそのような祈りは一杯ある。
- では、これらの「順番」にはどんな意味があるのか? 答えは、もし私たちが、通常時・平常時に、習慣的にこの順番、即ち、神のこと、それから人のことの順番で祈るなら、私たちの祈りは、より力強い、深い、神の御心に沿った、霊的に成長したものとなる。
- なぜなら、この順番は、最初に「神に関して」祈ることを通して、「祈りの究極的目的」が「神様」であって、「私たち」ではないことを常に私たちに思い起こさせてくれる。
- 世界中、祈りに溢れている。祈りの無い世界はない。しかし、ほとんどそのすべては、自分のための祈り。神様のことはどうでも良い。誰に祈っているかさえも、あまり気にしていない。すべては、自分の願いがかなうかどうかであり、「ご利益」のための祈りである。答えてくれない、ご利益をくれない神なら、人々は平気で「神の鞍替え」をする。
- 自著Purpose Driven Lifeの中で、リックウォレンは、「多くの人が自己実現のために、神を利用する。しかし、それは自然の理に逆らうことであり、失敗に終わることは目に見えている」(23)と言う。
- 人間は神のために造られたのであり、神が人間のために造られたのではないからである。
- 「祈り」も同じである。「祈り」は究極的に神のためにある。
- このことを、前半でまず「神様に関する」3つの祈りを捧げることを通して、理解し、吟味し、確認することが、私たちには必須である。
- それができたとき、初めて、後半の「私たちのための3つの祈り」を、神を利用した「ご利益目的」でなく捧げられるようになるのである。
- 何と多くの祈りが、クリスチャンでさえ、ご利益的目的で捧げられていることか?! それらの祈りは、神様のためと言いながら、結局は、自分の為である。神様を利用しているのである。
- 聖書もこのことについてこのように言う。「願っても(祈っても)受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願う(祈る)からです。」(ヤコブ4章3節)と。
- このような「神First」の姿勢は、しばしば他のイエス様のお言葉にも見られる。
- マルコ12章28節以下に記されているイエス様に対する律法学者の質問、「律法の中で、最も大切な戒めは何ですか?」と問われた時、イエス様のお答は、「神を全身全霊で愛することが一番。次が、隣人を愛すること」であった。
- もう一つのイエス様のお言葉、マタイ6章33節「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」にも表されている。人間的必要の前に、神様のことを求める大切さである。
- 「順番」の大切さに関しては、日常生活からも学ぶことができる。お料理の味付けのとき、お汁粉など作るのに「砂糖と塩のどちらを先に入れるか?」がその例である。答えは、砂糖First, then 塩であるが、この順番を逆にすると、粒子の大きさの理由で、良い十分な甘さがでない。ここにも順番の大切さがある。
- 以上が、「主の祈り」の前半が、まず「神に関しての祈り」で始まっている理由である。このように、まず神様に関する祈りを捧げ乍ら、最初に私たちの心を整え、何のために祈るのか、何のための信仰か、何のために生きているのかを神様に探って頂くのである。
それでは、愈々、
Ⅱ.前半の「神に関しての祈り」について学び始めたい。
- 最初の祈りは、「御名、あなたのお名前、即ち、神様のお名前が崇められますように」である。
- 「御名」とは何か?
- 聖書における「名前」は、他の人と区別する単なる便宜的な呼称ではない。また勝手に個人の希望と期待をもって決めた呼び名でもない。
- それは、常にその人自身の性格、性質、権威を含めたその人の全存在、即ち、その人自身を表すものとして、預言的な意味も含めて神の摂理の内に与えられたものであった。
- その意味で、この「御名」とは、「神ご自身・ご人格」を表している。
- 即ち、「御名が崇められますように」とは「神様ご自身が崇められますように」である。
- 次に、その御名が、「崇められますように」とは、どう言う意味か?を考えたい。
- ピリピ1章20節にも日本語訳としては同じ「キリストが崇められ」がある。それは、原語ではメガルンセイセタイで、拡大される、大きくされる、Magnifiedの意味である。
- この意味において、「キリストが崇められますように」とは、キリストが人々の間で、更にもっと拡大され、知られ、影響力を持ち、慕われていくようにと祈ることである。
- 祈りで大切なことは、パウロが言うように、私を通してキリストが崇められることであって、キリストを通して私が大きくなったり、崇められたりすることではない。
- かつて、10年以上に亘って、毎週金曜日に、私たち夫婦と共に祈ってくれる米国人夫婦がいた。そのご主人が、しばしば私のために祈ったこと、それは、「神様、純一(私)をもっと小さくして、神様をもっと大きくしてください」であった。
- ご奉仕を通して、説教者や奉仕者が大きくされ、崇められるのでなく、神様が大きくされ、崇められること、これこそが、私たちの祈るべきことである。
- しかし、この「主の祈り」で使われている「崇められますように」は、原語では、ハギオスセイトウ、原形はハギオゾウで、日本語では、しばしば「聖別する」と訳される。
- 「聖別する」とは、「ある物、また、ある人を、他のものとは区別し、一線を画して、特別な存在として分けておく」ことである。
- 即ち「御名が崇められますように」とは、「神様の御名、即ち、神様ご自身が、私たちにとって、他のものとは全く区別された、他のものとは一線を画した、特別な存在となるように」と言う祈りである。即ち、
- 「主の祈り」において、私たちが最初に祈るべきことは、すべての人々の心と生涯の中で、神様が、キリストが、他の如何なるものとも一線を画した特別な存在となることである。
- それは、まるで、それまで、男友だち、或いは、女友だちの一人であった人が、かけがえのない、他の如何なる男女たちとも一線を画した、特別な存在である結婚相手になるのと似ている。
- 「神様が崇められますように」とは、私たちの中で、神様が霊的にそのようなお方となることである。それは、神様が単に拡大される以上のことである。
- これこそが、「聖別された人生/Sanctified Life」である。
- 私たちは、人生において、憧れ、愛し、慕い求めるものを一杯持っている。具体的に言うなら、それらは、妻であり、夫であり、子どもであり、地位、名誉、仕事や事業・研究の成功、財産、快楽、安逸、等々である。
- そして、これらを愛し、慕い、そのために献身し、夢中で努力することは、人間として当然であり、必要、かつ重要であり、義務でもある。
- しかし、ともすると、私たちは、「御名」また「神様ご自身」をも、それら人生で大切なものリストの中の一つに入れてしまっている。しかし、それは大きな間違いである。
- なぜなら、「御名」は、それらのリストの中でトップであるべきだと言うのでさえないからである。「御名」は、決定的に、他のものとは、全く別のもの、一線を画しているからである。特別な存在である。
- パウロは、このことについて、自らの体験と告白としてこのように言う。
- 第二 コリント5章14-15節、ローマ8章38-39節、ローマ12章1節
- パウロは、宗教人として、長く神について学び、仕えてきた。しかし、キリストに出会ったとき、驚嘆した。そして、崇めた。
- それは、宗教儀式や律法によるものでなく、これらの聖言に表されている以下のように、行動と生涯を賭けたものであった。
- ピリピ1章20節にも日本語訳としては同じ「キリストが崇められ」がある。それは、原語ではメガルンセイセタイで、拡大される、大きくされる、Magnifiedの意味である。
- 「御名」とは何か?
結 論
- 「主の祈り」の学び、「神様に関する祈り」の途中ですが、今日は、そこまでにしたい。
- 次回は、「神様に関する祈り」の残り、「御国が来ますように」「御心の天になるように地でも・・・」を学ぶ。
- 「主の祈り」は、僅か30秒弱で終わる短い、単純な祈りである。しかし、それを機械的に、意味を十分に考えもしないで繰り返し詠唱することがイエス様の願いではない。
- 先回、今回学んだことなどを思い起し、復習しながら、一言一言の背後にある味わいを噛み締めながら、「主の祈り」をゆっくりと繰り返し捧げてみていただきたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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