主の祈り(4)「神についての3つの祈り(2)」
- マタイの福音書6章5-15節 -

2022年5月29日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書6章5-15節

序  論

  • 今日は、「主の祈り」の学びの4回目である。最初の2回は、祈りの「鍵」と言える「誰に祈るのか」と言う問題を扱った。それは「天にいます父なる神」についてであった。
  • アバ、お父ちゃん、Daddyと呼んで、その懐に飛び込んで、すがることのできるお方であり、同時に、。
  • と言うことで、今日は、まず「主の祈り」の前半、「神様に関する祈り」から学び始めるが、

本  論

  1. 次は、「御国が来ますように」と言う祈りである。
    1. まず、「御国」とは何か?である。 
      1. 原語・英語はYour Kingdomなので、意味は「あなたの、即ち、神の御国」となる。
      2. それでは、その「神の国」とは何か?
        • ここで、「国」とは、原語ではバシレイアで、支配、権威を意味する言葉である。
        • 即ち、「神の御国」とは、神が王として権威をもって支配する領域のことである。
    2. ところで、聖書には「二つの神の国」が記されています。
      1. 一つは言うまでもなく、いわゆる「死んで行くところ」と言う意味での「天国」である。
        • それは、可見的・可視的、即ち、何らかの物質的要素を持ったところである。
        • ヨハネ14章1-2節のイエス様のお言葉「・・・・」は、イエス様を信じる者たちの死後の嗣業の場所・住居としての「神の国」を約束したものの一つと言える。
        • しかし、それが、今どこにあって、どのような形、どのような状態であるか等は、聖書に必ずしも定かには記されてはいない。
        • 聖書の結論の書である「ヨハネの黙示録」、その結末部には、個人が死後に行く場所としての神の国と言うより、信じる者たち全員が、やがて、愛する神を王とし、キリストの花嫁として、共に過ごす永遠の住まい、永遠の国として、象徴的とも言える金銀・宝石で美しく輝く「御国」が約束され、私たちを待っていることが記されている。
        • 黙示録は言う「・・・・」(21章4節)と。そこには、私たちを、また世界中の人々を苦しめている、死も、病も、貧困も、不公正も、不条理もない別世界である。
        • しかし、今はまだ、神様の制限の中にあるとは言え、サタンがこの世の王として支配と権力を振るっている。エペソ2章2節「・・・・」。だから戦いと試練がある。
        • 私たちは、今、一日も早く、このサタンの時代が終わり、上述した新たな神の国が完成し、実現することを待っているのである。第二 ペテロ3章9節「・・・・・」。
        • 「御国が来ますように」と言う祈りは、正にこのような意味での「神の国」の到来を待ち望む祈りである。そして、・・・
        • 更に同章11-12節へと読み進むと、そこに、神の国到来を祈り待ち望む者は、ただ漫然と待つのでなく、自分の心と生活を聖め、宣教の業に励むことが勧められている。
      2. もう一つ「神の国」は、見える形での神の国ではなく、見えない「神の国」でもある。
        • イエス様が、マルコ1章15節で「・・・」、ルカ17章20-21節で「・・・」と言われたとき、それは、必ずしも見える神の国を意味していなかった。
        • むしろ、それは、神様が王となって支配する個人の心の中、神様が王となって支配するコミュニティーの交わりの中にある「神の国」である。
        • 個人の心の中に神様を王としてお迎えし、人生を支配して頂くこと、私たちの心の中に、「神の国」が築かれること、それがクリスチャンになることである。
        • 私たち神様に反逆していた罪人が、神様を王としてお迎えできるようになるために、イエス様は私たちの罪を背負って十字架に掛かってくださったのである。私たちがするべきことは、ただ「悔い改めて、福音(十字架の意味)を信じる」(マルコ1:15)だけである。
        • 心に神の国を頂いた人の特色は、義と平和と聖霊の喜び(ローマ14章17節)である。
        • ルカ17章20-21節は、神の国があなたがたの中に(among/within you)とあるように、コミュニティーの中に生まれる神の国のことである。
        • 信徒の群れとしての集まりの中に、神の国の片鱗、Fortaste(前味わい)を体験し、見ることこそ、教会のあるべき目標であり、使命である。ヨハネ13章35節
        • 御国が来ますように! このような意味で「神の国」が至る所に到来するように祈りたい。
  2. 最後は、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と言う祈りである。
    1. この祈りの重要性は、強調してもし過ぎることはない。何故なら、神様の「御心がなる」ことこそが、私たちにとっても、否、世界中にとっても、究極的に必要なすべてだからである。
    2. 言い換えるなら、私たちはクリスチャンとして、いつも、どんな状況下でも「御心がなりますように」と祈る者でありたい。そこにこそ、愛と平和、安全と祝福があるからである。
    3. しかし、その実現が、通常、如何に尋常一様なことでないかは、イエス様が十字架の前日、ゲッセマネの園で捧げた祈り「・・・・」 (マタイ26章39節) からも明らかである。
      1. 「人間イエス」とは言え、常に私たちの「模範」(第一 ペテロ2章21節)としてここまで歩んで来られたイエス様である。
      2. 更には、「十字架に付くために」と言う明確な目的をもって生き、ただ一途に奉仕して来られた(マタイ16章21節、20章28節)イエス様が、
      3. こともあろうに、ここに至って、その十字架を目前にした前夜、「今更何を!」と言うとき、まるで弱音を吐くように、「できますなら、この杯(十字架の苦しみ)を私から過ぎ去らせてください」と祈られたのである。
      4. しかし、イエス様の祈りはそこで終わらなかった。ここが重大である。即ち、「しかし、私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と続いたのである。
    4. このイエス様のゲッセマネの祈りが、私たちに教えることは何か?
      1. 私たちはどんなに完璧な人間でも、どんなに成長したクリスチャンでも:
        • 知的に、「御心」と違うことを考えることがある(知的相違)。また、
        • 情的に、「御心」と違うことを欲する・願う・慕う・好むことがある(感情的相違)。
      2. これが、「主の祈り」の「地でも行われますように」の意味である。物事に地上的、人間的要素が入ってくると、「天で」とは違った様々な問題、課題、妨害が出てくる。
      3. しかし、その神様との相違を隠したり、抑えたりする必要はない。どんな時でも(十字架直前の土壇場でも)、ありのままに(たとい取り乱すような姿でも)、それを御前に吐露して良いのである。イエス様は、あのゲッセマネで正にそれをなさったのである。
      4. しかし、同時にイエス様の祈りは、前述のように、そこで終わらなかった。即ち、たとい私たちが人間として、知的・情的に、父なる神様と相違していたとしても、信仰的には、どこまでも「私の・・・ではなく、あなたの御心のようになさってください」と祈る大切さがそこにある。
    5. しかし、現実は、このイエス様がなさったゲッセマネの祈りの前半「自分の願いを述べる部分」は問題ないが、最後の部分「私の願いではなく、あなたの御心のようになさってください」とは中々祈れない。
    6. イエス様は、そのような私たちを助けるために、この祈り「御心が天で行われるように、地でも行われますように」を「主の祈り」の一部として私たちに教えられた。この祈りには:
      1. まず、御心の絶対性への信頼が必要である:「御心が天で行われる」とは、御心の崇高性、絶対性、永遠性を意味した。
        • 自分の考えを述べるも良い。自分の感情を述べるも良い。神様と大いに議論したらよい。神様は聞いてくださる。相談もして下さる。時には少し自分の道を踏み出すのもよい。
        • しかし、結局私たちが経験することは「主の御旨(御心)」のみ立つこと(箴言19:21)、
        • そればかりか、それが最高・最善であることである(第一 コリント2:9)。
        • 即ち、「御心に生きることがベスト」と言う信頼を持つことである。
      2. もう一つ、御心への絶対的な献身と信頼が必要である:
        • 「地でも」とは「私の人生でも」の意味である
        • 即ち、自分の生涯を、神様の御心・ご計画の中に信頼をもって差し出すことである。
        • これこそが、「あなたに私を捧げますので、私の生涯の中で、私の願いではなく、あなたの御心が成し遂げられますように」と言う献身と信頼の祈りである。

結  論

  • これが、誠に足りませんが、主の祈りの前半、「神様に関する祈り」の部分からのメッセージである。
  • 「主の祈り」は、僅か30秒弱で終わる短い、単純な祈りである。しかし、それを機械的に、意味を十分に考えもしないで繰り返し詠唱することがイエス様の願いではない。
  • 先回、今回学んだことなどを思い起し、復習しながら、一言一言の背後にある味わいを噛み締めながら、「主の祈り」をゆっくりと繰り返し捧げてみていただきたい。
  • 忘れないで! 「主の祈り」は、日曜礼拝のプログラムの中だけで捧げるものではありません。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。