主の祈り(2)「天にいます我らの父よ」
- マタイ福音書6章5-15節 -

2022年5月8日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイ福音書6章5-15節

序  論

  • これから数回、私がメッセージを担当させて頂く礼拝では、「主の祈り」をご一緒に学ぶ予定であると申し上げた。
  • そして、先回、冒頭で触れたことは、そもそも「主の祈り」とは何かであった。
  • 「主の祈り」は、ストレートに祈るなら、ほんの30秒ほどで終わってしまう。しかし、この短い祈りは、お経や、祈祷書のように、そのままオウム返しのように唱えれば、何らかのご利益があるという類(たぐい)の儀式的なお祈りではない。
  • 「主の祈り」は、むしろ「祈りのエッセンス」である。即ち、イエス様は、「主の祈り」を通して、私たちに、何のために、何を、どのように祈るべきかの「祈りの基本」を教えられたのである。
  • それらのエッセンスとは何かを学ぶため、数回にわたって「主の祈り」を3つの区分に分けて学ぶ。
    1. 祈る相手への呼びかけ                                                         
    2. 神様に関する祈り
    3. 私たちの必要のための祈り
  • そんな中、先週は、その第一回目として、(1)祈る相手への呼びかけの部分、「天にまします我らの父よ」を学び始めたが、諸般の事情から、その前半だけに留まった。今日は、その後半である。

本  論

まず、先週学んだことを、簡単に復習したい。学んだことは:
第一に、「主の祈り」が、「天にまします我らの父よ」と言う、「呼びかけ」で始まることの重要性である。

A.祈りにおいて、「呼びかける相手」、「誰に祈るか」は大変重要である。

  1. 祈りは、「独り言」ではない。対話である」。だから誰に対して話しているかが重要である。
  2. 「イワシの頭も、信心から」と言う諺があるように、日本の宗教観においては、誰に対して祈るかは、余り重要ではない。むしろ、祈る私たちの信心・信仰深さの方が大切である。
  3. しかし、聖書的祈りはこの正反対である。私たちの祈りの確かさは、不安定な私たちの信心の中にあるのではなく、誰に祈るか、祈りで呼びかける相手で決まるのである。
  4. 即ち、祈る相手が確かなら、私たちの頼み方や、祈り方に問題があったり、信仰や信心が足りなかったとしても問題ではない。祈った相手の確かさですべてがきまるのである。
  5. 泣きじゃくっている子どもが、父親・母親を見るや、「ママー」「パパ―」と叫んで親の元に助けを求めて走り込み、後は何も言わずに、ただ泣き崩れるだけの姿を思い起す。子どもにとって、呼びかけた相手が、ママ、パパであれば、もうそれで十分なのである。

B. それでは、私たちが、「呼びかけているお方」はどんなお方か? イエス様は言われる:

1.その方は、まず、父なるお方である、と。

  1. 当時、世界中で、神々を、またすべての起源を取りまとめる「神々の神」、総元締め的存在を「父なるお方」と呼ぶことは珍しくなかった。
  2. しかし、ここで、イエス様は、私たちが祈るべきお方として、神様を、「言ってみれば、『父』のような」というような象徴的、比喩的、一般的な意味での「父」としてではなく、もっと個人的な父としての親しい関係における父なる神として紹介したのである。
  3. その表れが、ここでイエス様が、当時公式用語であったヘブル語の父親アブではなく、日常用語であったアラム語のアバを用いて神様に呼びかけられたことである。
  • アブとアバの違いは、ヘブル語のアブが、Father、父上、父、お父様であり、
  • アラム語のアバが、Dad, Daddy、お父ちゃん、オヤジである。
  1. イエス様ご自身、地上に人としておられたとき、天の父なる神様と、いつもこのような父と子としての親しい関係にあられた。
  • 人の子として洗礼を受けられたとき、その喜びの日に、父なる神様から頂いたことば、それは、「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と言うお祝いの言葉であった。
  • また、人の子として、ラザロと言う最愛の友を病からの死で失ったとき、イエス様が励ましと助けを求めたのも、父としての神であった。イエス様は祈った。「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝します。私はあなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました」(ヨハネ11:41-42)。
  • そして、人の子として、全人類の罪を身代わりに背負い、十字架につくと言う人生最大の苦難を味わう時を目前にした苦闘の夜、ゲッセマネの園で血の汗を流すようにして祈ったとき、人生で一番苦しかった夜、イエス様が叫んだのは「我が父よ」(マタイ26:39、42)であった。
  1. これが、人としてイエス様がその人生で経験された父なる神との経験である。それは、さながら地上の父のように、否それ以上に、我が子と共に喜び、共に悲しみ、共に苦しんでくださる経験であった。
  2. この同じ関係、交わりを私たちにも経験して欲しいので、イエス様は、私たちが、祈りにおいて神様を「アバ、お父ちゃん」と呼びかけるように奨められたのである。
  3. 世界のほとんどの宗教・信仰の動機は「恐れ」だと言われる。
  • このことは、東南アジア、アフリカへの宣教師の先生方の報告で何回も聞いて来た。
  • 神様の怒りが、裁き、祟り(たたり)が怖い。宗教とは、それをなだめるためのもの、神様を怒らせないようにするためのものである。
  • しかし、キリスト教信仰は、その正反対である。ローマ8:15は言う。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」。クリスチャンになるとは、これまでのような奴隷としての恐れの霊ではなく、子として、神様を「アバ、お父ちゃん」と呼ぶ霊が与えられたのである。
  • 即ち、クリスチャンになるとは、満腔に愛されている幼子が、「Daddy!」と言って、父親の胸に無邪気に飛び込む心が、聖霊によって植え付けられることである。
  • そのような父の姿を最も如実に表しているのが、ルカによる福音書15章の有名な「放蕩息子の譬え」に描かれている父親の姿である。当時ユダヤ人社会で父親が、家を捨てて放蕩に身を崩した息子が帰って来たからと言って、彼の所に走り寄るなど考えられないことであった。しかし、ここで、この父親は、恥も、外聞も、異言も、常識も、プライドも、評判も捨てて、走り寄り、臭い、汚い息子を抱きしめ、赦し、受け入れたのである。正に、アバ、お父ちゃんなる神様の姿である。
  • その父親の満腔の愛はどこから来たのか?!それは言うまでもなく、御子イエス様の十字架の愛からである。この愛が、私たちをして神様を「アバ父よ」と呼ばせるために、罪の赦しを与え、証としてご聖霊を送ったのである。

2.イエス様が言われた私たちが呼びかけるべきお方は、私たちの父であるだけでなく、天にいますお方である。

  1. 「父」「アバ」なる神のイメージは、これまで見て来たように、神様と言うお方が、父親(母親)と 息子・娘たちの関係のように、intimateな、私たちに極めて近い、親しみ易いお方と言うイメージである。それ故、理解してくれる、分かってくれる、同情してくれる神のイメージである。しかし、
  2. 対照的に、「天にいます」とは、そこにどこかdistance距離を感じる表現である。どこか遠いい存在と言うイメージである。
  3. 私が初めて祈りを習ったのは、まだクリスチャンになる前、キリスト教主義の中学校に入った時であった。入学前にオリエンテーション・キャンプがあった。そこで、同学校のクリスチャン大学生が、キャンプ・リーダーとして、私たち中学部新入生に祈りを教えた。その時、私が習った人生最初の祈りの呼びかけ部分は、今でもハッキリ覚えている。それは、「御在天の父なる御神様」であった。それを聞いた瞬間、ノン・クリスチャンであった私が、最初に抱いた神様のイメージは、「やたらには近づきがたい、普段は縁遠い、雲の上の存在」であった。これが、当時私にとっての「天にいます」神のイメージであった。
  4. しかし、イエス様が意味する「天にいます」とは、そんな「遠い存在」と言う意味ではなかった。それでは、イエス様が、神様を「天にいます」お方と呼ぶように言われたのはなぜか?その意味は? 
  5. そのことを教えている最も適切な聖書箇所の一つ、聖書の描くイメージがある。それはイザヤ6章1節である。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、・・・」。
  • イザヤは、神殿の中に、通常・世俗の王座より遥かに高い、高御座とも言うべき王座に座し、君臨する王としての神様の御姿があった。
  • そのお姿は、余りにも大きく、高く、着ておられる衣の「すそ」だけしか見えないほどであった。
  • 当時の神殿の大きさは、高さ30Q(15m?)。幅20Q(10m?)、 奥行60Q(30m?)。
  • その神殿が、その王衣の「すそ」だけで一杯になっていたので、その全体のお姿はおろか、御顔は、上方遥かかなたにあることを想像するしかないほど偉大なお方であった。
  • 今で言うなら、全世界、全宇宙をもってしても、入れ切ることのできない大きく偉大なお方であった。
  • それは正に、「地上レベル」の王としての神ではなく、「天にいます」「天に君臨する」王としての神の姿であった。
  • このとき、イザヤも、ユダヤ国民も、ユダヤの偉大な王として、長年頼りにしていたウジヤ王が死んだばっかりで、アッスリヤ、エジプトなどの脅威に囲まれる世界情勢の中、これからどうなるかの不安と恐れで一杯であった。
  • 彼らが必要としていたのは、「天にまします」お方として、さながら、頭を雲の上に出し、周囲の山々を見下ろす富士山のごとく、天から過去、現在、未来のすべてを見通し、見降ろし、見渡し、すべてを繋ぎ、結び合わせ、ただに一国の王ではなく、全世界の王として君臨、鎮座し、治めておられるお方であった。

  • 今、私たちは、コロナ、ウクライナなど、広い世界の問題を初め、個人的にも、健康問題、経済問題、様々な人間関係などなど、多くの問題を抱えている。そんな中、目の前のことは見えても、先が見えない。遠くが見えない。想定はできても、想定外のことばかり起こる昨今である。これからどうなって行くのか、大丈夫だろうか、不安である。恐れがある。
  • 人間にとって、人生は、所詮みなそうである。明日が分からないのである。「あなたがたは、明日のことが分からないのです」(ヤコブ4:14)と聖書が言うとおりである。
  • そんな中、人生の目先の、目の前の必要がケアーされ、満たされるだけでは十分ではない。更に長期的、世界的な視点・視野、導き、守り、支配力が必要である。
  • しかし、それは、私たちにはできない。しかし、私たちには、それをしてくださるお方、「天にいます」「天に君臨する」神様、しかも、「お父ちゃん」として私たちを愛してそばにいてくださるお方に祈ることができる。

結  論

これで「主の祈り」からの第一回目の学び・メッセージを終えたい。皆さまが、今後「主の祈り」を捧げるとき、冒頭の「呼びかけ」の部分「天にまします我らの父よ」を唱える度に、その言葉の背後にある意味をこれまで以上に味わい、「誰に祈っているか」を噛み締め、感謝し、信頼して祈って頂きたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。