キリスト教の中心:十字架
「The Center of Christianity: the Cross」
- マタイの福音書27章15-24節,35-46節  -

2022年4月10日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書27章15-24節,35-46節 

序  論

  • 先月11日は、東日本大震災の満11年目の記念日であった。地震への恐れは、日本に住む限り、常に私たちと共にあると言える。現に、私たちが、昨年末、約40年過ごした米国を後にして佐野に来てから、わずか4カ月半の間に、既にいくつもの地震を経験して来た。
  • 2011年の大震災のとき、私たちは米国にいた。震災直後に米国では、日本大使館の主催で、私たちの住んでいたすぐ近くにあるワシントン・ナショナル・キャセードラルと言う大聖堂において、Inter-faith (インター・フェイス、即ち、宗教団体の枠超えて様々な宗教合同での)祈祷会がもたれた。
  • そこには、キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、神道、ヒンズー教、様々な宗教の祭司・聖職者たちが、一般の方々と共に集った。お経、また聖書等、それぞれの聖典が読まれた後、当時の駐米日本大使の藤崎氏や米国の国会議員の挨拶、またキャセードラルの聖職者からの奨励があり、最後に、それぞれの宗教から代表者が短い祈りを捧げた。
  • 皆が、様々な違いを乗り越えて、心を合わせて日本の危機と苦しみを覚えながらひとつになって祈るときが持てたことは大変嬉しいことであった。(このような祈祷会が、今回のウクライナ問題のためにも持たれることを祈りたい‼)
  • しかし、私は、その集会に参加し、沢山の宗教者に囲まれながら、個人として今更のように考えていた。
    1. このように沢山ある宗教、或いは信仰の中で、私はなぜクリスチャンなのか? 
    2. 私は今年(当時)63歳になる。信仰を持って半世紀近くたった今も尚、私がクリスチャンなのは、この歳で、今更、宗旨を変えるのも大変だから変えないだけなのか?
    3. 答えは、勿論、NOであった。私は、(当時)クリスチャンになって45年、牧師になって38年。益々、この信仰に感謝し、愈々熱意をもってこの信仰を人々に伝えたいと思っている。
    4. なぜか? キリスト教は、他の信仰とどこが違うのか? キリスト教の特色は何か?
      1. しばしば、「キリスト教信仰の特色は愛」だと言われる。確かに、「愛」はキリスト教のひとつの大きな特色としてよく挙げられる。
      2. しかし、少し表現は違うが、キリスト教でなくても、仏教でも仏の「慈悲」「憐れみ」ということがよく言われる。また互いに寛恕の精神で赦し合い、慈しみの心をもつことも語られる。
      3. 大同小異どの宗教も同じようなことを言っていると言われても、真理から遠くないであろう。
    5. それでは、キリスト教をキリスト教たらしめているものは何か? 即ち、キリスト教だけにあって、他の宗教には絶対に無いものは何か? 
      1. それは、言うまでもなく、キリストの十字架と復活である。
      2. これこそがキリスト教の中心であり、他にはない特有のものであり、シンボルである。
        • だから、キリスト教会の屋根の上、会堂の正面に十字架があるのがひとつの定番になっている。
        • そして、復活祭こそがキリスト教の最大の祭りである。クリスマスではない。歴史的にイエス様の誕生を祝い始めたのは4世紀以降である。また、聖書的にもキリストの誕生の記事は、受難・復活の記事と比べて極めて限られている、少ない。十字架と復活が中心だからである。
        • しかし、このことについては、何よりも、パウロが強く主張している。第一 コリント2章2節。パウロは、ここで十字架こそが、自分の信仰と宣教の中心であると言って憚らなかった。
      3. 更に、そのことは同じコリント第一の手紙の15章の冒頭、3-4節でも確認されている。
  • 今日は、時間の関係で、主にイエス様の十字架についてお話しさせて頂き、復活については、来週、イースターの日のメッセンジャーにお委ねする。
  • 十字架とは、当時、極悪人だけが、受ける極刑、死刑の方法であった。それが余りにも残酷な処刑方法であったので、ローマの市民権をもっているものには絶対に適用されなかったというほどのものであった。
  • それでは、なぜ、極悪人、凶悪人ではないイエス様が、そのような十字架刑を受けられたのか? ここに、今日のメッセージのポイントがある。キリスト教の中心、イエス様の十字架のユニークさは何か?

本  論

  1. イエス様は、十字架に掛けられるに値するどころか、一切、罪や悪に関する過ちのない、無実、潔白の人物であったことは誰の目にも明らかであった。聖書はその証言として次のように記している。
    1. イエス様をローマ帝国の権威の下に裁いた総督ピラトの妻は言った:19節「あの正しい人」と。
    2. 総督ピラト自身も言う:23節「あの人が、どんな悪いことをしたというのか」と無罪を主張。
    3. イエスとともに十字架につけられた二人の強盗(38節)の一人も言った:ルカ23章41節「この方は、悪いことは何もしなかったのだ」と。
  2. 世の中に、「自業自得」ということばがあるが、人生には、過去に自分のした悪のために、今苦しみを受けているという人が沢山いる。
    1. 上述の強盗の罪で十字架に付けられた男は言った。ルカ23章41節「我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と。これが自業自得である。
    2. しかし、イエス様の十字架は、自業自得ではなかった。イエス様は全く無実であったが、極刑である十字架に掛かられたのである。そのことを、この犯罪者の男もよく分かっていた。
    3. ヘブル書の記者は言う。「イエス様は、私たちと同様、あらゆる誘惑・試練を受けたが、罪は犯されなかった」(ヘブル4章15節)。
    4. パウロもイエス様について「罪を知らない方」(第二 コリント5章21節)と言った。
    5. 即ち、イエス様の十字架は、無実、罪の無いお方が、十字架と言う極刑を受けるという、世界で、歴史上で、最も不合理、不条理な死であった。
    6. なぜ、無実の人が十字架に?!そのことを更に見て行きたい。
  1. 人々は、十字架にかけられたイエス様についてこう言った。「彼は他人を救ったが、自分を救えない」と。
    1. これは、十字架上のイエス様を見て、人々がイエス様を揶揄し、笑い者にした言葉であった。
    2. 先日終わったテレビ番組に、人気グループ「嵐」の松本潤が主演した「となりのチカラ」と言うのがあった。物語は、主人公が、問題を抱える隣り近所の人たちの力となって助けているうちに、実は、自分自身の家にも問題があって、気がつくと、妻も、子どもも主人公に愛想をつかして、家を出て行ってしまうと言う大ピンチに陥る。そのため、今まで彼にお世話になっていた近所の人まで、これを見て呆れて、彼を馬鹿にし、離れて行くと言うあらすじである。
    3. このように、他人を救っておきながら、肝心な自分自身を救うことができないとは、惨めで、カッコ悪いことである。十字架上のイエス様を見て、当時の人々もイエス様について同様に感じ、揶揄、嘲笑したのである。
    4. しかし、皮肉にも、それは真理であった。イエス様は、他人を救うために自分を救わなかったのである。
      1. 常識的に言うなら、救い主のイメージは、普通力強い、自分も他人も、両方を救うことができる英雄的人物である。
      2. しかし、イエス様は違った。他人を救うために、自分を救わなかったのである。
      3. あのとき、もし、イエス様が、自分を救って、十字架から降りて来ていたらどうなっていたか? 答えは、イエス様は、他人、即ち、私たちを救えなかったのである。
  2. ここで、注目したい大切なことが二つある。
    1. 最初に注目したいことは、イエス様が十字架に掛かられたからと言って、それは、彼が「無力」だったからではないことである。
      1. 当時、権力者であった政治家や宗教家の怒りや妬みに触れ、彼らの権力を利用した謀略で捕らえられるが、抵抗するには余りにも無力であったので十字架につけられたのではない。
      2. マタイ26章51-54節で、イエス様は、当時の国家権力を傘にきた人々に捕らえられようとしたとき、ハッキリと言われた。「私が、今、天の父なる神様にお願いして、何万という天の軍勢を送ってもらい、これらの人々を蹴散らして助けてもらえないとでも思っているのか?! (やろうと思えば、できるのですよ)」と。即ち、
      3. イエス様はここでご自分が十字架に付くのは「無力さ」のためではないと言われたのである。
      4. そのイエス様が敢えて、あの十字架で、ご自分を救わず、他人を救われたのである。
    2. もう一つ注目したいことは、イエスさまが十字架に掛かられた目的についてである。
      1. 即ち、イエス様は、弱さ、無力さのゆえに、十字架に付けられたのではなく、むしろ、他人、即ち、私たちを罪から救うためと言う積極的目的をもって十字架についたのである。
      2. そのことは、マルコ10章45節、ヨハネ1章29節、第一 テモテ1章15節を見る時、極めて明白である。それらがどんな罪なのか、少し見たい。
      3. イエス様の十字架の周りも、人間の代表的罪が取り囲んでいた。それらは:
        • 第一に、パリサイ人たちを中心とする宗教家たちの、イエス様に対する同業者としての「妬み」の罪である。マタイ27章18節。(妬みは、近い人の間にこそ生まれる)
        • 第二に、政治家であった総督ピラトの中にみる自らの出世のためには「白も黒とする」不正の罪である。27章23、24節。彼は、イエス様の無実を知っていた。赦すべきであることも知っていたし、無罪放免にする権威も持っていた。しかし、正義を貫くことによって、民衆を怒らせ、暴動を起こされたら、ローマの政治家としては、将来が消えることを知っていた。そのために正義ではなく、自らの良心に背いて卑怯にも保身を選んだのである。
        • 第三に、民衆の罪である。彼らは、人間としての真実や真理よりも、目の前の地上的、物質的繁栄と安寧をいとも簡単に優先した。一週間前までは、イエス様を、憎むべきローマ帝国の圧政を蹴散らし、彼らに地上的で、物質的な生活の繁栄を与えてくれる英雄的救世主だと思い、お祭り騒ぎをするようにして彼をエルサレムの町に歓迎したが、1週間も経たないうちに、この男(イエス様)は、心のことしか語らない、何のご利益ももたらさない、精神論だけの無能で役に立たない男として捨てたのであった。
      4. イエス様は、これらに代表される人間の罪の刑罰を身代わりに受け、私たちを罪とその刑罰から救うために、自らを十字架につけられたのである。
  1. イエス様は、単に人々の罪の刑罰を背負ったのではない。「罪人」そのものになられたのである。
    1. 第二 コリント5章21節は言う。「私たちの代わりに、罪を知らない方を罪とされた」。
      1. 「罪とされた」とは、単に誰かのために、その罪の刑罰を身代わりに受けたという以上のことを意味していた。「私が身代わりとなりましょう」なら、「英雄」的行為である。
      2. しかし、それは、イエス様が、「罪人」その者とみなされ、「お前が悪い」と責められる者となったという意味である。
    2. マタイ27章46節にイエス様の十字架上のもうひとつの言葉、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」が記されている。
    3. ある人々は、第一印象で、これは、イエス様が、神の子といえども、十字架刑のあまりの苦しさ故に、遂に弱音を吐いた言葉であると思っている。しかし、それは全くの誤りである。
    4. イエス様は、地上で幾度も幾度も父なる神様に祈られたが、祈られるとき、一度たりとも「神よ」とは呼ばなかった。
    5. いつも、「父よ」「聖なる父よ」等々と、「父」の名で呼んでいた。それは親子の親しい交わりを意味していた。即ち、一度も、「我が神」とは呼ばなかったのである。
    6. しかし、ここでは父なる神に向かって「我が神」と呼ばれたのである。なぜか? それは、イエス様が、ここでは、最早、「父と子」という親しい関係をもっているお方として祈っておられないことを意味していた。
    7. むしろ、イエス様は、ここで、一人の人間、否、神の前に裁かれ、呪われた「罪人」として、永遠に神に見捨てられた「罪人」として、悲痛で絶望的な叫びを挙げているのである。
    8. 言い換えるなら、そこにいたのは、他人の罪を身代わりに背負った勇敢で英雄的救い主、神の御子はいなかった。そこにいたのは、他人の罪を自分のものとして背負い、自分自身が罪人となって、責められ、苦しんでいる罪人であった。
    9. そこにいたのは、神を「父よ」と親しく呼ぶことができた「御子」ではなく、神の呪いの前にわななき、裁きを恐れて「神よ、どうしてですか」と悶え苦しむ哀れな「罪人」であった。
  2.  即ち、イエス様は、あの十字架で、ご自分が英雄的にわたしたち罪人の罪の刑罰を神の御子として引き受けたのではない。むしろ、罪人そのものになられ、罪人として神から呪われたのである。
  3. 私は、この違いを神学生時代のひとつのできごとから学んだ。日本で神学校に行っていたとき、そこは全寮制で、毎年春には大掃除があった。私は、他の同学年の男子生徒と院長室だったか、事務所だったかの高い窓ガラスを磨く仕事を言いつけられた。かなり時間が経ったときに、上級生がやってきて、私たちの仕事を見て言った。「何だ、これは?!」という感じで、まだ高いところで作業を続けていた私たちに文句を言った。特にひとつの窓について「よく磨けていない」と叱られた。そして、そのすぐそばに居た私に向かって、「あなたがやったのだね、この仕事は!」と決め付けられた。私はそのとき「そうじゃありません。誰々さんです」と言いたかった。でも言わなかった。そして、それを受け入れ、私がやったこととして、「すみませんでした」と言ったことを記憶している。そのとき、思った、あの先輩も、他の人々も、みんな誰も、「あれは、西郷の仕事だ」と思っている。ましてや、誰も「西郷は本当はやっていないのに、親切にも誰々さんの罪を背負った」などとは思ってくれていない。もし、そうだったら「西郷さんは、他人の不始末を自分がかぶって、どこか犠牲的で偉いなー」と思ってもらえるが、今は、その逆で、みんな、私があんなだらしない、いい加減な仕事をした張本人だと思っている。私がただ本当に悪者になっている」と思った。
  4. しかし、そのとき、初めてのように気が付いた。これが、キリストの十字架の真相であると。イエス様は、ただに人間の罪の刑罰の苦しみを御子として引き受けたのではない。「あいつは悪いことをした奴」と指さされる罪人そのものになられ、罪人として呪われ、罰せられたのである。

結  論

  • これがキリストの十字架の意味である。
  • イエス様が、十字架で、私の代わりに罪びととなって、呪われ罪の罰を身代わりに受けられたので、私の罪は赦され、除かれ、交わりが回復するのである。
  • 少し昔、聞いた話だが、ノンちゃんと言う小学生の女の子がいた。その日も、朝から曇っていて、雨が降りそうだったが、ノンちゃんは傘を持ってこなかった。途中からきっと晴れると思ったからだった。でも晴れるどころか、どんどん雲が多くなって、とうとう雨が降り出した。教室で窓際に座っていたノンちゃんは、だんだんソワソワしてきて、外ばかり気にしていた。なぜかというと、こんな時はいつもお母さんが学校にノンちゃんに傘を持ってくるからだ。でもノンちゃんは、そんなお母さんがみんなに見られるのが嫌で嫌でたまらなかった。なぜかと言うと、お母さんの顔は半分、大きなやけどのあとが、引き連れて残っていたので、友達からよく「ノンちゃんのお母さんの顔ってお化けみたい」と言われていたからです。だからその日も、お母さんの来るのが窓から見えると、一目散に教室から出て、玄関に行って、お母さんの手からひったくるように傘を取ると、お母さんに「もう帰って」と言って、また教室に戻った。その日の午後、お母さんが家で針仕事をしているとノンちゃんが帰って来た。ガラ、ピシャと玄関の戸が開いて閉まった音が聞こえてきたが、只今も何も言わずに、ノンちゃんは二階に上がってしまった。お母さんがそっと近づいて行って耳を澄ますと、ノンちゃんのすすり泣く声が聞こえて来た。お母さんは今まで耐えていたが、その日はたまらなくなって、ノンちゃんの部屋のドアを開けて中に入って、「ノンちゃん」と声を掛けた。暫くしてお母さんは立って隣りの部屋から一枚の写真を持ってきて、ノンちゃんに見せて言った。「これ誰だか分かる?」。二人の男女の写真であった。お母さんが男の人を指さした。ノンちゃんは言った。「お父さん!?」。「そうよ。ジャーこっちの女の人は?」ノンちゃんはなおもしゃくりあげながら、首を横に振って「分からない」と言った。お母さんが、「これ、お母さんよ」と言った。ノンちゃんはビックリして信じられないと言う表情をした。そしてお母さんは話し出した。「ノンちゃんが、まだ、やっとハイハイしだしたころ、ノンちゃんが昼寝をしていたので、安心してお母さんは、針仕事をしていたの。すっかり夢中になって気が付かなかったんだけど、いつの間にかノンちゃんは、起きていてハイハイしながら、お母さんのところに来ようとしていたの。ところが途中に、火鉢があって、そこに煮立ったお湯の鍋がかかっていたの。そして、お母さんが気が付いた時は、ノンちゃんが、体を起こして、手をその鍋にかけようとしていたの。ビックリしたお母さんは、思わず、ノンちゃんと言って、ノンちゃん上に体をかぶせたの。そのとき、そのお湯が、お母さんの顔半分に掛かって、火傷でこんな顔になったのよ。話がここまで来たとき、ノンちゃんは、「お母さん、じゃー、その顔は私を救うため、守るためだったのね。」と言って、お母さんに抱き着いた。次の日から、すべてが変わった。今まで、お母さんと外を歩くのが嫌だった、恥ずかしかったノンちゃんは、外を歩いて、知っている人に会うと。「このお母さんの顔、私のためだったんだよ」と誇らしげに語るようになったと言う。
  • パウロも言った。「私はキリストの十字架を誇る」と。なぜなら、あのキリストの十字架の傷、苦しみが私を救ったからである。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。