主の祈り(1)「天にいます我らの父よ」
- マタイの福音書6章5-15節 -
2022年5月1日 佐野レインボーチャペル
聖書
マタイの福音書6章5-15節
序 論
- 今日から、私がメッセージを担当させて頂く礼拝では、今日を含めて恐らく5回?にわたって、毎週礼拝で皆さまと一緒に祈っている「主の祈り」からのメッセージを取り次がせて頂きたい。
- 祈りは、聖書のお言葉と並んで、私たちの信仰生活の中心である。米国にいた時、しばしば英語で、The family who prays together stays together.と言う表現を聞いた。
- 皆さまの中にもそう感じておられる方も多いと思うが、私の救いも、正に「祈り」の答え以外の何物でもなかった。先週もお話したが、一足先に信仰をもっていた姉にしつこく誘われて、私は一回だけのつもりで、しぶしぶ教会に行った。しかし、そのとき、高校2年の3学期で、これから大学受験準備に専念しようと思っていたので、教会で何か良いものを心に感じつつも、帰りには姉に、「悪いけど、もう教会には行かないよ」と言った。がっかりした姉は、その週の祈祷会で私のことを聞かれ、そのことを教会の人々に告げた。祈祷会から帰って来た姉は私に言った。「皆もがっかりしたけど、それで、みんなで一緒に、純ちゃんのために祈ったのよ」と。それを聞いた途端、私はゾ~ッとした。まるで呪われたように感じたからである。それには理由があった。昔、夕方の子供テレビ番組に「少年ジェット」と言うのがあって、その番組の中で、よく出てきた場面が、悪役が薄暗い農家の納屋のようなところで、木の壁に藁人形のようなものを釘付けして、その前で呪いの祈りを捧げている姿があったからである。当時、私にとって祈りのイメージとはそんなものであった。しかし、教会の人たちの祈りは、呪いどころか、見事に答えられたのである。それから数日後、私の友人のお母さまが亡くなった。お母さまはクリスチャンであった。友人はクリスチャンではなかったが、その死の様子を語ってくれた。母親は癌の末期、肺に水が溜まることから来る痛みと苦しみにもかかわらず、牧師の祈りの中で、「微笑むように」天に帰ったと言うのである。「微笑むように」亡くなったと言う事実が私の心を打った。死ぬことなど一度も考えたことのなかった私であったが、初めて、私もいつか死ぬんだと思った。それなら、彼女のように微笑んで死にたい。更に、心に響いて来たことは、彼女のように死にたいなら、彼女のように生きなければならない。それは私もクリスチャンになることかと思い始めたのである。これらのことは、正に祈りの答えとして私に起こったのである。
- キリスト教、特に、プロテスタント信仰の大きな特色の一つは、「自由な祈り」である。どの宗教にも「祈り」はある。しかし、他のほとんどの宗教において、祈りは、「お経」や様々な、いわゆる「祈祷書」を使った祈りが基本である。
- 私たちが有名タレント、大企業の社長、一国の大統領・首相と言うような大物著名人やアイドルと直接話すような機会があったら興奮するだろう。しかし、「祈り」とは、それらとは比較にならないほど、世界で最も崇敬され、魅力のある「お方」と自由に話せると言う栄光・特権の場である。
- だからこそ、私たちが毎日曜日「主の祈り」を唱えるときに、それが一種の形式的祈り、祈祷書を読むような祈りになってはならない。即ち「主の祈り」が、口では唱えていながら、特に意味を意識することなく、機械的に、気が付いたら、もう終わっていたと言うタイプのお祈りであってはならない。
- それ故、普通に祈れば30秒で終わる、「単純シンプル」とさえ言える、「主の祈り」の一言一言の背後にある深い意味を知り、それを味わいながら、噛み締めるように祈ることが肝要となる。
- その意味で、今日からのこの礼拝での学び・メッセージが、その助けとなることを祈りたい。
本 論
Ⅰ.そもそも、「主の祈り」とは何か?
- それは、「主が弟子たちに教えた祈りである」。
- そのことは、8-9節を読めば明らかである。イエス様は、「だから、こう祈りなさい」と言って弟子たちにこの祈りを教えられたのである。
- 即ち、「主の祈り」は、ヨハネ17章に記されているような、実際にイエス様が捧げられた祈りではない。
- むしろ、それは、イエス様が、弟子たちに「祈り」を教えるための「モデル」(模範)として提示された祈りである。
- その意味で、「主の祈り」は、「祈りのエッセンス」である。
- 即ち、「主の祈り」は、このまま、毎日の実際生活の中でも使えるが、それが、イエス様がこのお祈りを弟子たちに教えられた本来の目的ではない。むしろ、祈りの基本的骨組み、枠組みとしての「祈りのエッセンス」を教える祈りである。
- 言い換えるなら、「主の祈り」は、「モデル」「模範」の祈りだからと言って、オウム返しのように、そのまま繰り返していれば良いと言うタイプの祈りではない。
- 「主の祈り」は、祈れば、僅か30秒足らずで終わってしまう短い祈りである。
- なぜ、そんなに短いのか? 繰り返すが、それは「主の祈り」が、このまま実際の祈りとしてただ繰り返せば良いと言う意味で教えられたものでないからである。
- 「主の祈り」は「祈りのエッセンス」である。エッセンスとして「祈り」には何が必要か、何が含まれるべきか、どんな心をもって祈るべきか等を教えているのである。
- その意味で、私たちが「主の祈り」を繰り返しながら、それを基礎とし、敷衍し、更には、自らの祈りを吟味、修正し、祈りに成長することがイエス様の願い・目的である。
- さて、それでは、これから、その祈りの「エッセンス」とは何かを、ご一緒に見ていきたいが、以下の三つの区分に分けて学びたい。
- 祈る相手への呼びかけ
- 神様に関する祈り
- 私たちの必要のための祈り
今日は、そのうち、1. の「祈る相手への呼びかけ」について、メッセージを頂きたい。
Ⅱ.呼びかけ:「天にいます私たちの父よ」について
- 「呼びかけ」の重要性
- 日本には、昔から、「イワシの頭も、信心から」と言う諺がある。
- 「イワシの頭のようなつまらないものでも、信心をもって拝みさえすればご利益がある」と言う意味である。日本人の宗教観が良く表されている。
- 日本の宗教観においては、誰に祈るかよりも(即ち、最悪、それはイワシの頭のような軽んじられ、嫌がられているものでも構わない)、(肝心なのは)私たちの信心深さである。それは、ある意味で、信じる相手はどうでも良いと言っているのである。
- しかし、キリスト教的、聖書的祈りは、この正反対である。私たちの祈りが答えられるか、否かの確かさは、あてにならない私たち個人の信心の中にあるのではなく、誰に祈るか、誰に頼るか、即ち、祈りで呼びかける相手で決まるのである。
- 即ち、祈りにおいて、まず大切なことは、如何に自分の願いを述べ立てるかではなく、誰に祈るか、祈りの相手として誰に呼びかけるかである。
- 祈る相手が確かなら、私たちの頼み方が多少問題があり、不確かであっても大きな問題ではない。
- ある「祈りの人」として知られる聖徒がいた。その秘密を知りたい、個人的にどんな祈りをするのかを知りたいと弟子の一人が、その聖徒の部屋に忍び込んで、彼がご奉仕を終えて帰るのを待った。暫くしてその聖徒が部屋に入って来た。間もなく彼はベッドの横に跪き、手を組んでベッドに伏せて、一言「主よー」とため息をつくように言った。そのまま長い沈黙が続いた。その後、再び「主よ」と言ってまた沈黙した。こんなことが数回繰り返された後、アーメンと言って、彼は、本当にすっきりした顔をして立ち上がり部屋を出て行ったと言う。
- 彼にとって、祈りのすべては、「主よ」と言う一言に包含されていたのである。それは、丁度、幼い子どもが、母親や、父親に助けを求めるときに、しばしば見る姿に似ている。それまで、不安の中にいた彼らは、父親、母親を見るや、「ママー」「パパ―」と言って親の元に走り込み、後は何も言わずに、ただ泣き崩れるだけの姿である。彼らにとって呼びかけた相手、ママ、パパと叫んで逃げ込んだことで、もう十分なのである。そうすれば、後は、パパとママが全部してくれると信じているのである。
- 日本には、昔から、「イワシの頭も、信心から」と言う諺がある。
- それでは、私たちが、「呼びかけているお方」はどんなお方か?
- その方は、まず、父なるお方である。
- ギリシャ、ローマ世界を初め、世界中に、神々を、またすべてを取りまとめる「神々の神」、総元締め的存在としての「父なるお方」を認める考えは広く受け入れられて来た。
- しかし、ここで、イエス様は、私たちが祈るべきお方として、神様を、そのような象徴的、比喩的
、一般的な意味での「父」としてではなく、もっと個人的で親しい関係における父なる神として紹介したのである。 - その表れが、ここでイエス様が、当時公式用語であったヘブル語の父親アブではなく、日常用語であったアラム語のアバを用いて神様に呼びかけられたことである。
- アブとアバの違いは、日本語で言うなら、父上・父とお父ちゃん/オヤジ、英語で言うならFather とDad/Daddyの違いである。
- 即ち、アバは、お父ちゃんであり、Daddyであり、極めて親しい感情を込めた、個人的、日常的呼びかけの言葉であった。
- イエス様ご自身、地上に人としておられたとき、天の父なる神様と、いつもこのような父と子としての親しい関係にあられた。
- 人の子として洗礼を受けられたとき、その喜びの日に、父なる神様から頂いたことば、それは、「これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と言うお祝いの言葉であった。
- また、人の子として、ラザロと言う最愛の友を病からの死で失ったとき、イエス様が励ましと助けを求めたのも、父としての神であった。イエス様は祈った。「父よ。私の願いを聞いてくださったことを感謝します。私はあなたがいつも私の願いを聞いてくださることを知っておりました」(ヨハネ11:41-42)。
- そして、人の子として、全人類の罪を身代わりに背負い、十字架につくと言う人生最大の苦難を味わう時を目前にした苦闘の夜、ゲッセマネの園で血の汗を流すようにして祈ったとき、人生で一番苦しかった夜、イエス様が叫んだのは「我が父よ」(マタイ26:39,42)であった。
- これが、人としてイエス様がその人生で経験された父なる神との経験である。それは、さながら地上の父のように、否それ以上に、我が子と共に喜び、共に悲しみ、共に苦しんでくださる経験であった。
- この同じ関係、交わりを私たちにも経験して欲しいので、イエス様は、私たちが、祈りにおいて神様を「アバ、お父ちゃん」と呼びかけるように奨められたのである。
- 人生はある意味で試練の連続である。徳川家康も「人生は、重き荷を置いて遠き道を行くがごとし」と言い、林芙美子も「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と言っている。そして、イエス様も言われる。「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16:33)と。
- そんな苦しい人生の中で、世の人は「人生、神も仏もあったものか」と神の存在を疑い、クリスチャンでさえ「神様はどこへ行ったのか」と言って、神の愛を疑う。
- しかし、ヘブル書の著者は言う。「・・・・・」(ヘブル12:5-8,11)。特に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを(愛する)子として扱っておられるのです。父が懲らしめる(訓練する)ことをしない子がいるでしょうか」(7)と。
- 即ち、聖書は、「試練は、父なる神が、子どもである私たちに訓練として与える愛の徴だ」と言うのである。「これが愛の徴だって? 冗談じゃない」と思うかもしれない。しかも、聖書は、それは今は分からないが、後で分かると言うのである。
- 私には二人の娘がいるが、古い時代の育て方をしたので、いわゆるスパンクをして育てた。勿論、怒って感情のままにいきなり叩くことは避け、「そんなことをしていたら、今に叩かれるよ」と言う悔い改めへの猶予を与えた上であった。愈々叩くときも、まず、なぜ今叩かれるのかを説明し、祈り、叩いた後も、必ず抱きしめ、一緒に泣いて祈った。そんな中、特に強調したのは「愛しているから叩くのだ」と言う親の愛であった。今、長女が私に色々注意するとき、冗談のように笑いながら、「お父さん、愛しているから言うんだよ」と仕返し?する。叩くとき、涙を流さないで叩いたことはない。愛していたからである。父なる神の愛も同じである。
- 世界のほとんどの宗教・信仰の動機は「恐れ」だと言われる。
- このことは、東南アジア、アフリカへの宣教師の先生方の報告で何回も聞いて来た。
- 神様の怒りが、裁き、祟り(たたり)が怖い。宗教とは、それをなだめるためのもの、神様を怒らせないようにするためのものである。
- しかし、キリスト教信仰は、その正反対である。ローマ8:15は言う。「・・・・」。そこには、クリスチャンになるとは、これまでのような奴隷としての恐れの霊ではなく、子として、神様を「アバ、お父ちゃん」と呼ぶ霊が与えられたのであると記されている。
- 即ち、クリスチャンになるとは、満腔に愛されている幼子が、「Daddy!」と言って、父親の胸に無邪気に飛び込む心が、聖霊によって植え付けられることである。
- その父親の満腔の愛はどこから来たのか?!それは言うまでもなく、御子イエス様の十字架の愛からである。この愛が、私たちをして神様を「アバ父よ」と呼ばせるために、罪の赦しを与え、証としてご聖霊を送ったのである。
- イエス様が言われた私たちが呼びかけるべきお方は、私たちの父であるだけでなく、天にいますお方である。
- 「父」「アバ」なる神のイメージは、これまで見て来たように、神様と言うお方が、父親(母親)と 息子・娘たちの関係のように、intimateな、私たちに極めて近い、親しみ易いお方と言うイメージである。しかし、
- 逆に、「天にいます」は、そこにどこかdistance距離を感じる表現である。どこか遠いい存在と言うイメージである。
- 私が初めて祈りを習ったのは、まだクリスチャンになる前、キリスト教主義の中学校に入った時であった。入学前にオリエンテーション・キャンプがあった。そこで、同学校のクリスチャン大学生が、キャンプ・リーダーとして、私たち中学部新入生に祈りを教えた。その時、私が習った人生最初の祈りの呼びかけ部分は、今でもハッキリ覚えている。それは、「御在天の父なる御神様」であった。それを聞いた瞬間、ノン・クリスチャンであった私が、最初に抱いた神様のイメージは、「やたらには近づきがたい、普段は縁遠い、雲の上の存在」であった。これが、当時私にとっての「天にいます」神のイメージであった。
- しかし、それは、イエス様が意味する「天にいます」お方の姿ではなかった。それでは、イエス様が、神様を「天にいます」お方と呼ぶように言われたのはなぜか?その意味は?
- そのことを教えている最も適切な聖書箇所の一つ、聖書の描くイメージがある。それはイザヤ6章1-2節である。「・・・・・・・」。
- イザヤは、神殿の中に、高御座とも言うべき王座に座し、君臨する王としての神様の御姿があった。
- そのお姿は、余りにも大きく、高く、着ておられる衣の「すそ」だけしか見えないほどであった。
- 当時の神殿の大きさは、高さ30Q(15m?)。幅20Q(10m?)、 奥行60Q(30m?)。
- その神殿が「すそ」だけで一杯になっていたので、その全体のお姿はおろか、御顔は、上方遥かかなたにあることを想像するしかないほど偉大なお方であった。
- それは正に、「地上をウロウロする」神ではなく、「天にいます」「天に君臨する」お方としての姿ではなかった。
- このとき、イザヤも、ユダヤ国民も、偉大な王として、長年頼りにしていたウジヤ王を失ったばかりで、アッスリヤ、エジプトなどの脅威に囲まれる世界情勢の中、これからどうなるかの不安と恐れで一杯であった。
- 彼らが必要としていたのは、「天にまします」お方として、天から過去、現在、未来のすべてを見通し、見降ろし、見渡し、すべてを繋ぎ、結び合わせ、ただに一国の王ではなく、全世界の王として君臨、鎮座し、治めておられるお方であった。
- 今、私たちは、コロナ問題、ウクライナ問題を初め、健康問題、経済問題などなど、多くの問題を抱えている。そんな中、先が見えない。遠くが見えない。これからどうなって行くのか、大丈夫だろうか、不安である。恐れがある。
- 人間にとって、人生は、所詮みなそうである。明日が分からないのである。「あなたがたは、明日のことが分からないのです」(ヤコブ4:14)と聖書が言うとおりである。
- そんな中、人生の目先の、目の前の必要がケアーされ、満たされるだけでは十分ではない。更に長期的、世界的な視点・視野、導き、守り、支配力が必要である。
- しかし、それは、私たちにはない。私たちには、それができる、否、それをしてくださるのは、「天にいます」「天に君臨する」私たちの父なる神だけである。
- その方は、まず、父なるお方である。
結 論
これで「主の祈り」からの第一回目の学び・メッセージを終えたい。皆さまが、今後「主の祈り」を捧げるとき、冒頭の「呼びかけ」の部分「天にまします我らの父よ」を唱える度に、その言葉の背後にある意味をこれまで以上に味わい、「誰に祈っているか」を噛み締め、感謝し、信頼して祈って頂きたい。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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