クリスチャン人生#4:選ばれた者の特権(2)試練

2022年4月3日 佐野レインボーチャペル

聖書
ヨハネの福音書15章16節, 1-2節,
ヘブル人への手紙12章6-8節 

序  論

  • 今回のメッセージのシリーズで、何回も繰り返して申し上げてきたが、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、「汝(なんじ)自身を知れ」と言った。
  • 「自分が何者であるか?」を知るということは、私たちの人生を変え、強くする。更には、生きがいに満ち、輝いたものにする第一歩である。
  • 同じ意味で、私たちクリスチャンが、「クリスチャンである」ということの意味と内容をもっと知り,自覚したなら、私たちクリスチャン人生は、全く違ったものとなるであろう。
  • しかし、残念なことは、多くのクリスチャンたちが、自らがクリスチャンであることの意味を知らないか、理解していないか、とにかく、そのことをいい加減にしているように思う。
  • むしろ、多くのクリスチャンたちにとって、クリスチャン生涯とは:
    1. 毎週日曜日の礼拝に参加すること
    2. そこで、好きな賛美歌やプレイズ・ソングを歌い、牧師から、これから始まる一週間の励ましになるメッセージを聞くこと
    3. そして、一週間に一度の友人たちとのフェロシップを楽しむこと
    4. 更に、できれば何らかの教会の奉仕に加わること
    5. 問題にぶつかったときに、祈って乗り越えて行く、などなどが、クリスチャン人生のすべてだと思い、それで、満足している。
  • 確かに、それらは大切である。しかし、それらがすべてだろうか?! イエス様が、クリスマスの日、地上に人間として来られたのは、そして十字架に釘付けられたのは、三日目に甦られたのは、それらだけのためだったのだろうか?!
  • 今回、私たちは、立ち止まって、このことを考えるためにヨハネ15章16節を中心に、「クリスチャンとは『選ばれた者』である」と言う角度から数回にわたって学んできた。そして、
  • 第一回目は、「選ばれると言うことの意味」、第二回目は、「選ばれた目的」、更に先回、第三回目は、「選ばれた者の特権」の前半として、イエス様の御名によって「祈る」特権について学んで来た。
  • 今日は、このミニシリーズの4回目、最後になるが、「選ばれた者の特権」の後半として、人生において私たちが経験する「試練・苦難」について学びたい。即ち,試練は、選ばれた者、クリスチャンの特権なのである。
  • このことを学ぶために、今日は、今回の中心聖句ヨハネ15章16節の背景と言える15章の冒頭1-2節のイエス様のお言葉にも目を留めたい。
    1. 「・・・・」と。
    2. イエス様は、そこで、イエス様がぶどうの木であり、私たちはその枝であり、父なる神は農夫であると言われた。
    3. そして、農夫である父なる神様は、私たちぶどうの枝が、それぞれ、もっと豊かに実を結ぶように、その枝の「刈り込み」「切り込み」「剪定」「Pruning」 をなさると言われた。
    4. それは、正に私たちの人生における「痛み」「苦しみ」「苦難」「試練」を象徴的・比喩的に表している。
    5. ブドウが実を結ぶために「刈り込み」が必要なように、選ばれた者として、私たちが人生において実を結ぶために、試練と苦難は必要であり、しかも、それは「特権」だと聖書は言うのである。

本  論

  1. 私たちの周囲に、毎日のように起こっている出来事を見ても、そのことは歴然としている。
    1. 今世界は、ロシアのウクライナ侵攻問題で根底から揺さぶられている。毎日のように、私たちに届けられる戦争と言う災禍・砲火の中、死亡・負傷する兵士・一般庶民、命からがら避難する妊婦、老人、病人、泣き叫ぶ子どもたちの悲惨なニュースはこの現実である。
    2. しかし、それは、遠い外国のことだけではない。私たちのすぐそばにも、毎週、毎日のように起こっている。幼い我が子を殺す母親、親殺し、兄弟殺し等の惨劇が後を絶たない。
    3. 知らない誰かが、不注意でアクセルとブレーキを踏み間違えて、ある日、突然車が飛び込んで来るという全く予期しない事故で、母親と子どもが、両親が、兄弟が、一瞬にして失われると言う悲劇もこの現実である。
    4. 人生は苦難に満ちている。
  2. 更に、広く、遠くに記憶を辿るとき、
    1. 私たちは、11年前、何万という同胞の命を奪った3/11東日本大震災を経験した。
    2. 更に遡って、2001/9/11、何千人もの人々の命を奪い、世界の歴史を変え、震撼とさせた米国同時テロ事件を思い出す。
    3. それらの事件・出来事が、彼らの人生を、また世界を全く変えてしまった。彼らは一生その重荷を背負っている。
    4. このように、個人の人生も、世界の歴史も、苦難と試練に満ちている。
  3. リー・ストロベル(Lee Strobel)と言う人物がいる。
    1. 彼は、今は、クリスチャンであり、キリスト教弁証家として執筆、講演活動をしているが、
    2. かつては、かなり強硬な無神論者であり、イエール大学で法律を学び、修士号を取った後、有名なシカゴ・トリビューンと言う新聞社で、13年以上にわたって司法関係のジャーナリストとして活躍した。その間、ジャーナリストとして数々の賞を受けた人物である。
    3. 彼は、1981年、29/30歳でクリスチャンとなった。その後、クリスチャン弁証家として、いくつかの本を書いている。その一つに、「The Toughest Objections to Christianity(邦題:それでも神は実在するのか?)」がある。今日のメッセージでも、その本からいくつか引用することになるが、
    4. 彼はかつて、クリスチャンの世論調査家として有名なジョージ・バーナに依頼して全国調査を行った。その中で、「あなたがもしひとつだけ神様に質問できるとしたら、何を聞くか?」という質問をした。その質問に対する答えのトップは、「なぜ、この世界に苦しみがあるのか」であった。
    5. このことは、今苦難に遭っている人も、いない人も、人々の最大の関心が、人生と世界にある「苦難」の問題であり、それを人生の最重要事と考えていることを証拠である
  4. それ故、当然のこととして、聖書は、この苦難の問題を人生の、信仰の大きな課題として取り上げている。
    1. 旧約聖書の
      1. 詩篇全体を見るとき、その多くが、詩篇の作者たちの人生の悩み・苦難の中からの叫びである。例えば、詩篇34篇19節は言う。「正しい者の悩みは多い」
      2. 更に、旧約聖書が苦難の問題を取り上げている最も典型的な例が「ヨブ記」である。42章にわたる長編である。その中心テーマは「なぜ正しい人が苦しみに遭うのか」である。
      3. 大きな苦難・試練をその人生で経験された方のお一人として知られる、北朝鮮による拉致被害者のお一人横田めぐみさんのお母様の早紀江さんは、拉致事件をきっかけにクリスチャンとなるが、最初に知った聖書の箇所は、この苦難の書ヨブ記であった。
    2. 新約聖書(イエス様)も:「あなた方はこの世にあっては艱難がある」(ヨハネ16:33)と。
  1. 一つは、この苦難と試練の現実の中で、愛と義なる神の否定である。
    1. 先に引用したリー・ストローベルは、その著書の中でビリー・グラハムがかつて大衆伝道者としてその才覚をあらわし始めた頃に、彼と勝るとも劣らないテンプルトンという人物がいたこと。しかし、その人物が、旱魃のために餓死した赤ん坊を抱えて泣いているアフリカ人の母親の一枚の写真を見たとき、この子を助けるために雨を降らせなかった全能で愛なる神様の存在を疑い始め、そして遂には、無神論者になったことを記している。
    2. テンプルトンは、一方で、全能、かつ、愛と正義の神が存在しているという事実と、他方で、この写真が示すような悲劇と苦しみと悪が、この世界に、同時に存在しているという事実は、理論的に矛盾しており、そのような神と信仰を受け入れられなかったのである。
    3. 彼のように、苦難と試練の中で、神への信仰を失う人は決して少なくない。
  2. もう一つは、苦難の中、知性的・理論的に神様に対して矛盾を感じつつも信仰に立ち続ける姿勢である。
    1. 即ち、この世に、どんな悲劇、悲しみ、苦しみ、矛盾があり、不正がはびこり、悪が繁栄し、それらによって正しい者たちが試みられ、試練にあったとしても、なお、この世界に、全能かつ、愛と正義の神が存在することを信じ続ける信仰である。
    2. その良い例が、旧約聖書に登場する人物老婦人ナオミである。▶彼女は、飢饉の中で食べ物を求めて、夫と共に家族で、危険と苦難を覚悟して外国の地に移り住んだ。▶しかし、そこで、まず主人が死んだ。▶更には、まるで後を追うように、二人の息子が、こともあろうに二人とも、孫も残さないまま若くして死んでしまった。▶正に、苦難と試練の連続と言う人生であった。▶しかし、聖書は、その中でも、彼女は神を「全能者」と呼び(ルツ1章20節)、神様の愛と導き、加護と祝福を信じて帰郷したことを記している。
    3. ここで大切なことは、この人たちは、決して(上述の)反信仰者たちの指摘しているような矛盾を、理性的に解決し、納得している分けではないことである。
    4. 彼らも分からないのである。頭が悪いからではない。現に、ピーター・ジョン・クリフトという極めて頭脳明晰な哲学者がいるが、彼は、イエール大学大学院で修士号を、フォードハム大学で博士号をそれぞれ取得し、ビラノーバ大学、ボストン・カレッジ等で長年教授を務め、数々の名誉称号も受けている人物である。彼はこのように主張する。「そのような自分と人間の知性では、矛盾としか見えないことをもって、神はいない、神は愛でない、全能でないと結論を出してしまうこと自体、人間の知的・理性的傲慢である」と。
    5. 更に、ジェームス・スチュワート(神学者)の言葉を引用してこのように言う:「懐疑心というのは、蚊帳の外から悲劇を見ている傍観者から生まれるものであって、苦悩の只中にいる人々は、そう言った気持ちはもたない。事実、世界最大の悲劇の数々こそが、不屈の信仰を生み出してきたのである」と。
    6. 要するに、この問題は、人間の知性や理性では、納得できない、理解できない世界である。
      1. しかし、ここで確認したいことは、それは反・知性や反・理性ではないこと。人間の力では、神様のなさっていることを理解できない、それを超えているということである。
      2. だから聖書はこう言っている。ローマ11:33-34
      3. 詩篇139:17
    7. それゆえ、この問題を受け入れる道は、そのような神の存在、その神の愛、正義、全能を、それとは矛盾するかに見える苦難のまっただ中で「信じる」ことである。
      1. イエス様は言われた(ヨハネ14:1)。「あなたがたは、心を騒がせてはいけない。神を信じ、私を信じなさい」と。苦難と困難のど真ん中で信じることを強調された。
      2. 信仰は、「信じられる」と言う感情ではない。「信じる」か、「信じない」かの選択である。
  1. 即ち、苦難と試練の真っ只中で、「私は神に愛されている」という信仰を失わないことが最重要事である。
    1. 私たちは、しばしば、この点で大きな誤解している。それは、試練や苦しみに会うのは、神様に愛されていないからであると言う誤解である。
    2. 事実は、その正反対である。愛されてないからではなく、むしろ、選ばれた者として愛されているからこそ、試練や苦しみに会うのである。これが選ばれた者の特権である。
  2. クリスチャン、神に選ばれた者は、苦難に、試練に遭う。より多くの実を結ぶために「切り込みを入れられる」「剪定される」のである。それは、選ばれたから、愛されているから、期待されているからこそである。
    1. ヘブル書の著者はこのように記:「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(12章6-7節)。
    2. 先日2022年のパラリンピックが終わった。連日選手たちによって素晴らしい熱戦が繰り広げられた。大会で活躍したアスリートたちは、「選ばれた」選手として、栄えある栄冠を受けるために、コーチの指導のもと、この何年もの間、毎日、苛酷とも言えるような鍛錬・訓練を繰り返して来た。
    3. これは、正にクリスチャン生涯の絵である。試練は、選ばれた者が、栄冠を受けるための訓練であり、期待されている者が経験する愛の徴である。
    4. 東日本大震災のとき、「福島第一原子炉」に一番近い教会、わずか5キロメートル以内の教会として広く知られた教会があった。
      1. 「福島第一バプテスト教会」である。
      2. その教会は、私も震災前年に図らずも訪問して知っているが、失礼ながら、あの田舎には珍しいと言いたいくらい立派で、美しく、かつ堅牢な鉄筋コンクリート造りで、100年は持つといわれた会堂であった。
      3. しかし、震災後、放射能のことで、その教会には二度と足を踏み入れることができなくなっただけでなく、メンバーのほとんどすべての人々が職を、住むところを失った。
      4. その後、その教会と教会員がを通った道のりは極めて厳しく、険しいものであった。
      5. 多くの人々が知るように、彼らは群れとして、山形の地に、また東京の西のはずれのキャンプ場にと、流浪の民のようにさ迷い歩いた。しかし、そのような試練を通りながらも、遂に、以前の教会の少し南の福島県いわき市に素晴らしい新会堂を建てた。
      6. 同教会の主任牧師佐藤彰師は言う。私たちはこの苦難のために「選ばれた」のだと。
    5. 即ち、これが、今日のテーマである「選ばれた者の特権」である。私たちが、人生で、苦難・試練を受けるのは、私たちが「神に愛されている」子だから、「神に期待されている」子だからであり、それ故、試練と苦しみを受けることは、選ばれた者の特権である。
  3. 試練を通して、「愛を確信するとき、人は最も強くなる」、これが聖書のメッセージである。
    1. 旧約聖書でソロモンは愛の力についてこのように言った。「・・・・」(雅歌8:6-7)
    2. パウロもローマ8:35-39で、愛の力について次のように言う。「・・・・」。
    3. 彼は、死に直面するような数々の苦難、艱難を経験した。しかし、彼はその真っ只中で、彼は圧倒的な勝利を経験した。なぜか? キリスト・イエスを通して与えられた神の愛があるからである、その愛を信じ、確信するからであると。
    4. すなわち.パウロを始めとするクリスチャンたちは、神の訓練、試練、苦難を、神の子として選ばれた者の「愛されている者の特権として」、喜び甘んじて受けるのである。

結  論

  • このように、人生の苦難・試練、それらは、神に選ばれた者に与えられた「愛されている神の子」として父なる神からの成長を期待しての訓練であり、それは「特権」である。
  • そして、そのときは、神様も、あなたと一緒に苦しみ泣いておられると聖書は言う。イザヤ63:9
  • 私は、いつもこのメッセージをするとき、娘たちを育てたときのことを思いだす。特に次女を叱ったときのことを鮮明に覚えている。何回かのWarningの後、彼女を正すために、遂に呼びつける。そして、何でこうしなければならないかについて、改めて話す。そして、彼女がレッスンを学ぶために「スパンク(お尻を叩く)」をしなければならないことを告げる。そして、一番大切なこととして、これは、あなたが嫌いだからでも、憎いからでもない。本当は、お父さんもしたくないこと、つらいこと、悲しいことであること、にもかかわらず、それをするのは、あなたを愛しているから、自分の子供だから、あなたに素晴らしい子供になって欲しいからだと真剣に目と目を合わせて告げる。彼女を叩きながら、叩く私が、彼女が可哀想で涙を流さないでいたことはない。叩き終わって、いつも二人ともが泣きながらしっかりと抱き合って、お祈りをした。
  • 神様も泣いておられる。愛する子としてあなたを苦しみ・試練を通して扱っておられるのである。それは、愛される者、選ばれた者の特権である。特権として受け入れ、信仰をもって乗り越えたい。
  • 集団赤痢で10才のときに、体の運動機能のすべてを失った水野源三さんの詩「苦しまなかったら」
    もしも私が苦しまなかったら         神様の愛を知らなかった
    もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら   神様の愛は伝えられなかった
    もしも主なるイエス様が苦しまなかったら   神様の愛はあらわされなかった
  • 詩篇119:71「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれでおきてを学びました」

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。