選ばれた人生#2:選びの目的
- ヨハネの福音書15章16節 -

2022年2月13日 佐野レインボーチャペル

聖書
ヨハネの福音書15章16節

序  論

  • 先週も触れたが、今、連日熱戦が繰り広げられている2022年冬季オリンピック。そこで活躍するトップ・アスリートたちのインタビューがテレビで何回も流された。その中で、彼らの多くが語っていたことがある。彼らはこんな風に言う。「この4年間、懸命に練習していて、苦しいとき、辛いとき、もう何もかも投げ出したくなるときもあったが、そんなとき、私を支えたのは、私は何者なのか、何でこれをしているのかと言う自問と答えであった」と。
  • 人間は生物学的には動物の一部である。しかし、人間だけが、「私は何者か?」と自らに問う。言い換えるなら、「私は何者なのか?」と言う、この質問こそが、人間を他の動物とは区別して、人間を人間たらしめているのである。即ち、この質問こそが、私たちにとって実存的にも、霊的にも最も深い、重要な問いである。
  • そして、その質問に明確な答えを持っていることこそが、私たちを強くし、その人生を豊かにする。
  • その意味で、私たちは、「クリスチャンとは何者であるか?」を知り、それを意識して生きることは必須である。
  • そのために、先週から、ヨハネの福音書15章16節を学び始めた。そこに私たちは、「クリスチャンとは何者であるか?」と言う問いに対して「神に選ばれた者」と言う答えを得る。
  • 先週は、その第一回目として、「神様の選び(神様に選ばれたこと)の意味」を味わった。
    それは、1.栄光と栄誉、誇り  2.愛と恩寵  3.確かさ
  • 第二回目の今日は、「選びの目的」、「選ばれたことの目的」についてメッセージを頂きたい。

本  論

  1. 選ばれること、それ自体が、終着点、また目的ではないこと、むしろ、それは出発点であることである。
    1. この点に関して、クリスチャン生涯は、「結婚」と同じである。
    2. 神様に選ばれたクリスチャン人生も同じである。
      1. クリスチャンになるとは、イエス様の花嫁になることである(男性として、この言い方は、正直どこか、くすぐったい感じがするのであるが)。即ち、クリスチャンになるとは、花婿であるイエス様と結婚することである。
      2. ですから、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けてクリスチャンになるとは、ゴールインではない。終着点ではない。ましてや、完成ではない。イエス様との新しい生活の出発点である。だから、そこで満足して腰を下ろしてはいけない。
  2. もう一つ確認したいことは、私たちが選ばれたのは、私たちが「偉い」から、「優れている」からではないことである。
    1. このことで、大きな間違いをしたのが、旧約聖書において「神の選民」「選ばれた民」と言われたイスラエル人である。
      1. 彼らは、自分たちが、人間的に、霊的に、信仰的に、どこか他の民族より優秀ですぐれているから、神様に選ばれたと思っていた。
      2. しかし、神様は、そのような理由でイスラエル人を選ばれたのではなかった。
        • 申命記7章7節で主が次のように言われたことからも明らかである。「主があなたがたを恋慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった」と。
        • 国民の「数の多さ」とは、当時、すぐれた、優秀で、強い国の象徴であった。
      3. 即ち、主はイスラエルの人々に、「私があなた方を選んだのはあなたがたが優秀で偉大で、強い民族だったからではない。むしろ、それらの点ではあなた方は周囲の民族より劣っていた」と言われるのである。
      4. にもかかわらず、イスラエルの人々は、「選ばれる」と言う意味を勘違いして、自分たちは、周囲の民族より優れて、卓越した民族であると思い込んでいた。
    2. 今日も、同じ間違いをしているクリスチャンが多くいる。
      1. 即ち、「選ばれた者」として、どこかクリスチャンでない方々を見下げるようなクリスチャンがいる。
        • それは、昔特に、白人たちが、キリスト教文化を中心とした欧米・白人の文化をより優れたものとして誇り、非キリスト教的文化、有色人種たちの文化をどこか見下げていた時代があったことにも表されている。
        • それは、正に、イスラエルの人々の犯したと同じ過ちである。選ばれたことが、彼らを傲慢にしているのである。しかし、彼らが選ばれたのは、彼らが優れていたからではないと上述のように聖書は明確に言う。
        • 今でもよく聞く、教会外の人々からのクリスチャンに対する批判に、「あの人って、何か私は清いんだ、あなたがたのような罪びととは違うんだ。神様に選ばれた特別な人と言わんばかりにツンツンしている」と言うのがある。
      2. しかし、この同じ間違いが、逆の形で現れることもある。
        • 即ち、多くのクリスチャンたちが、「自分は神様に選ばれたというのに、なぜこんなに駄目なのか?!」と言って、失望し、自分の救いを疑い、確信を失っている。
        • 逆の現れ方はしているが、これもまた、「神様に選ばれる」ということの意味を勘違いしているのである。
        • 即ち、彼らは、「神様に選ばれるというのは、みんなからほめられるような、何か立派な行ない、人格、実績があるから選ばれたのだ」と、どこかで思っているのである。
        • だから、選ばれているはずの自分が、「なってない」と思うと、失望し、「自分なんか、やっぱり選ばれていない」と卑屈になるのである。
        • これらは、みな「選ばれる」ことの意味を誤解しているからである。
  1. まず最初に、神様が私たちを選ばれた第一の目的は、私たちが僕Servantとして、神と人に仕えることである。これは、今日の聖句からと言うより、聖書全体が教えていることである。
    1. そもそも、それが、神様がイスラエル民族を選んだ目的であった。
      1. 神様は、アブラハムを通して、イスラエルと言う民族を興し、彼らを通して世界に神の愛と恵み、救いと祝福のメッセージを送ろうとされたのである。
      2. 即ち、神様は、世界の一民族であるイスラエル民族を、一つのサンプル、エージェントとして選び、彼らの歴史の中に直接ご自身を現し、ご自身の御旨を直接記した聖書を彼らに託された。
      3. そして、その歴史の中で、彼らが、神に、即ち聖書の教えに従うときに祝福され、その反対に、従わないときに苦難と滅亡を経験するという事実を通して、神様のメッセージを実際の世界と歴史の中でオブジェクト・レッスンのように知らせたのである。
      4. そして、その中で、イスラエルと世界に救い主が必要であることを示し、イスラエル民族からその救い主が誕生することを預言し、成就されたのである。
    2. 即ち、神様がイスラエルを選ばれたのは、イスラエル民族を通して、世界の人々に、僕として、エージェントとして、神様のこと、聖書の教えを、伝えることを通して「仕える」ためであった。
      1. それがゆえに、個人的にも、旧約聖書の聖徒たち、即ち、アブラハム、モーセ、ヨシュアたちは、神に「選ばれ」、「しもべ」と呼ばれたのである。
      2. そして、民族として、イスラエル人たちも、「しもべ」として「選ばれた」のである。
    3. しかし、前述のように、イスラエル民族はこのことを勘違いした。即ち:
      1. 彼らにとっては、選ばれたこと自体が目的となってしまっていた。
      2. 選ばれたことで何か自分たちが他の人、民族より優位な者であるかのように勘違いし、
      3. 選ばれたこと自体に胡坐(あぐら)をかいて、そこに座り込み、ただ選ばれた者の特権、即ち、神を知り、聖書を知り、神様との親しい交わりを持つ、等々の特権に浴し、甘んじることに、満足し、留まってしまったのである。
      4. 即ち、彼らは、本来の「仕える者」としての使命を忘れ、怠ったのである。
    4. 私たちクリスチャンは今どうであろうか? 選ばれたのは、仕えるためであることを忘れていないだろうか? 
      1. 家族に、隣人に、友人に、周囲の人に、世界の人々に、僕として仕えるために、選ばれたことを忘れていないか。
      2. イエス様も言われた。「私は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」と言われた。
    5. かつて日本訪問中に、知り合いが国会議員の秘書をしていたので、議員会館なるものを訪ねた。印象深かったのは、館内放送で議員がみな「先生」と呼ばれていたことである。
      1. わたしも、牧師として「先生」と呼ばれるものの一人であるが、英語では、牧師は「ミニスター(minister)」とも呼ばれる。このミニスターという言葉は、政治家にも使われる。首相をプライム・ミニスターと言うように。それは、本来「仕えるもの」「しもべ」という意味である。即ち、
      2. 牧師も、政治家も、そして、イスラエル民族も、万民祭司を唱えるプロテスタント・クリスチャンたちも皆、ミニスター、即ち、仕えるものとして選ばれたのである。
      3. 彼らは、「お偉い様」として、皆の上に、ふんぞり返える存在として選ばれたのではない。むしろ、人に、神に「仕える」「しもべ」として選ばれたのである。
  2. 次に、直接ヨハネの福音書15章16節を見たい。そこに、イエス様が私たちを選ばれた第二の目的が記されている。それは、私たちが「実を結ぶ」ことである。即ち、「それは、あなたがたが行って実を結び・・・」
    1. 実とは何か? 第一に「伝道の実」である:あなたを通して、誰か他の人々が、イエス様を信じるようになることである。(「外面的な実」とも言える)
      1. あなたを通して、あなたの子供(たち)が、親が、兄弟姉妹が、祖父祖母が、友人たちが、福音に近づき、福音を聞き、福音に生きるものの姿を見、福音を受け入れ、信じ、生きるものとなること以上の喜びがあるだろうか?!
      2. あなたにとって、子供がハーバードなどの有名大学に行くこと、大会社に勤め高級取りになること、医者や弁護士になることと、クリスチャンになることが、どこかでコンフリクトするとしたら、どちらを取るだろうか、どちらに喜びを感じるか?
        • ある人は、それらは違うことでコンフリクトしない別のことと言うが・・・
        • 日本なら具体的に、受験勉強のために日曜礼拝を1-2年間休んでも、受験に合格するまで塾を優先するか??の問題とも言える。
      3. いずれにせよ。一人の魂が救われる、イエス様のところに帰ることが私たちの中でどれほどの喜びになっているか?である。
      4. イエス様は言われる。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネの福音書6章27節)と。
      5. その対象は、あなたの家族、友人、知人だけではない。世界の果てに住む人々までである。
      6. イエス様は、「行って実を結ぶ」(ヨハネの福音書15:16)、即ち、「行って」と言われた。
        • マタイの福音書28:20でも、マルコの福音書16:15でも、イエス様は「行って」、「出て行って」福音を伝えるように言われた。
        • 即ち、実を結ぶために、「今の所で待っている」「今の所に留まっている」のではなく、福音のために、何か、行動を起こすようにと言っておられるのである。
    2. 聖書は私たちが結ぶべきもう一つの実について語っている。品性の(内面的な)実である。
      1. それは、ガラテヤ5章22-23節が記す、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などの「御霊の実」である。
      2. それは、キリストの品性の実を持つことである。
        • 即ち、キリストに似るものとなっていくことである。
        • かつてC&MAのGeneral Council の特別講師の一人であったジョニー・エレクソン・タダ夫人は、自ら17歳の若さで頚骨損傷によって首から下の運動機能を失うと言う試練の中で、名前だけのクリスチャン生涯から、生きた主との関係に導かれ、その生涯を福音のために捧げて生きている方であるが、そのCouncilでこのように語られた。“Jesus did not come to make me happy and healthy and my life free of trouble.  He came to make me more like Him.”と。
      3. クリスチャンであることが、もし、単に、キリスト教という教えを受け入れ、洗礼を受け、どこかの教会のメンバーになり、活動に参加すること、或いは、自分を世的に幸せにするだけのことなら、クリスチャンでない人々には、「それがどうしたの」(SO WHAT?!)であり、結局、もう一つのご利益宗教に過ぎないであろう。
      4. かつて箱根のケズイック・コンベンションで講師から聞いた話:ある牧師が日曜日の朝、家族のことで、子供のことでイライラし、怒鳴り、・・・と荒れていた。やがて食事の席でも、教会への車の中でも、まるで葬式に行くときのように誰一人話そうとせず、皆が暗い顔をしていた。牧師であった父親もそうであった。しかし、その父親が、車から降り、教会に一歩足を踏み入れた瞬間から変わった。ニコニコと輝き始めたのであった。そして、やがて、教会の講壇で説教しているとき、その姿や言葉は天使のようであり、会衆を引き付け感動させていた。しかし、その中で彼の上の娘が浮かぬ顔をしながら、一人心の中で呟いたと言う。「お父さん、一週間、そこから降りてこないで・・・」と。
      5. 勿論、これはいきなり、完璧を求めているのではない。私たちは品性的に欠けだらけである。品性の実はプロセスとして現実となる。結実は時間をかけて徐々に実現する。これが成長と言うものである。だから聖書は言う。「時が来ると実がなり」(詩篇1篇3節)と。そして、それは、どこまでも「御霊の実」と言われるように、原動力はご聖霊の働きである。

結  論

  • 品性の実がなくても伝道はできる。伝道の実は結べる。
  • しかし、伝道の実の結実と品性の実の結実がHand in Handと一緒に並行したらどんなにPowerfulに神様の御業が進むことか! 
  • どちらの実のためにも、ご聖霊に心を開いて、自分のすべてをご聖霊に明け渡し、ご聖霊のお働きを祈り求めたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。