選ばれた人生#3: その特権 (1) 祈る特権
- ヨハネの福音書15章16節 -
2022年3月6日 佐野レインボーチャペル
聖書
ヨハネの福音書15章16節
序 論
- 神様は、私たちに「時間」と言う素晴らしい賜物をくださったが、それには二つの種類がある。
- ひとつは、「Linear(直線的)」時間である。それは二度と帰らない、一直線に個人と世界の歴史が、永遠に向かって突き進む時間である。(舟木一夫の「修学旅行」と言う歌の歌詞を思い出す:「二度と帰らぬ思い出乗せて、クラス友だち、肩寄せ合えば、ベルが鳴る鳴る・・・」
- もうひとつは、「Cyclic(周期的)」な時間である。すなわち、毎日、毎週、毎月、毎年と言う具合に、周期的に、繰り返される「時間」の中で生きている。
- すなわち、私たちの人生の時間は、
- 一方では、「直線的」である。すなわち、人生は、二度と繰り返すことのない/できない、一瞬一瞬の積み重ねである。私たちは、そこに人生の厳粛さを覚えるのである。
- もう一方は、「周期的」時間の概念である。すなわち、1日1日、1週1週、ひと月ひと月、四季と呼ばれる春夏秋冬、更には、1年1年と、周期的に繰り返される時間の流れである。
- 私たちの時間が、もし、二度と戻らない、ただ前に進むしかない、一直線のLinearな「時間」のコンセプト、或いは、感覚しかないとしたら、私たちは、「やり直しのできない」「二度と戻らない」と言う「緊張」と「寂しさ」に耐えられなかったであろう。
- しかし、神様は素晴らしい。もうひとつの時間、即ち「周期的」、「幾たびも繰り返す」時間のコンセプトと感覚を私たちに与えてくださったのである。だからこそ私たちのような有限な人間が:
- 失敗だらけの人生を送っても、「明日があるさ」「来年がある」、「来週こそは」「来月こそは」「来年こそは」と、前向きに、再起、やり直しをしようと立ち上がることができる。
- 更には、この周期的時間の観念があるからこそ、人生に起こった特別な出来事を記念して、毎年、その日が巡って来ると、記念日として、その出来事の記憶を年ごとにリフレッシュし、新しい力として行くのである。
- 「結婚記念日」は、正にその典型である。毎年、その日が来るたびに、夫婦は、「結婚」した日を思い起こし、二人で誓いあったこと、また結婚とは何かの原点に帰り、夫婦の関係をリフレッシュするのである。
- 「クリスチャン」として生きることも同じである。
- 皆さんは、それぞれに、人生で初めてイエス様を心に迎えた日、いわゆる入信した日、洗礼を受けた日を覚えていると思う。それらは、毎年記念日として巡って来る。
- それらの日に、もし私たちが、毎年、誕生日や結婚記念日を祝うように、クリスチャンになったこと、罪赦され、神の子とせられたことを祝い、感謝し、神様との関係をリフレッシュすることができたらどんなに素晴らしいことか。これは極めて大切なことである。
- そのことの助けとなるようにと、私たちは数週間前からこの礼拝で、クリスチャンになるとは何か? クリスチャンとは誰か?について、「選ばれた人生」と言う角度から学んで来た。
- 中心聖句はヨハネの福音書15章16節、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだのです。・・・・」である。
- その第一回目は「選ばれたことの意味」、第二回目は「選ばれたことの目的」について学んできた。今日と来週の第三、四回目は、「選ばれた者が与えられた特権」について学ぼうとしている。
- 「選ばれた」者が持つ特別な「権利」、すなわち、「特権」についてである。
- このヨハネの福音書15章には、神様に選ばれた者が与えられる特権が二つ記されている。一つは「祈る特権」であり、もうひとつは、「試練という特権」である。今日は、まず、神様から選ばれた者としてのクリスチャンが与えられた「祈る特権」について学びたい。
本 論
Ⅰ. まず、イエス様が私たちに下さった最初の「特権」をヨハネ15章16節から見たい。
- 少し復習になるが、イエス様は、「私があなたがたを選んだのです」と言われた後、続いて:
- その選びの目的は:「実を結ぶため」ですと言われた。そして、
- その実とは、第一に、私を通して誰かがイエス様を信じるという「伝道の実」であり、第二に、キリストに似た者になると言う「品性の実」を結ぶことの二種類の実であった。
- 私たちがそれらの実を結べるようにと、イエス様は私たちに「特権」を与えられた。「あなたがたが、私の名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」と。これこそが「特権」である。それは、イエス様の名によって祈る特権である。
- 即ち、キリストの御名によって祈ることこそが選ばれた者の特権なのである。
- 私たちは、「祈る」ことをどのように感じ、どのように考えているだろうか? 果たして、祈りを、特権と考えたり、感じているだろうか?
- 多くの人にとって、祈りは、ともすると:
- 乞食のように、必要な物、ほしい物をもらうための単なる「お願い」の道具になっているのではないか?!
- 「特権」というより、「祈らなければ、もらえない」と言うような、どこか義務感からの祈りになっていないか?!
- 或いは、その逆に、「欲しいから」祈ると言うような、神様に自分の願いを聞いていただくため、即ち、神様をManipulateするため、自分の思い通りにしてもらうための一寸法師の「打ち出の小槌」になっていないか?!
- しかし、イエス様がここで教えようとしている祈りは、選ばれた者にのみ与えられた、イエス様の名によって祈る、特別な権威を持った祈りである。
Ⅱ.そもそも祈りとは、神様が私たちに神様との会話、コミュニケーションのために下さった最大の賜物である。
- 即ち、「人間は、本質的に、創造の目的として、祈りによって神と交わるように造られた」動物である。
- それ故、古今東西を問わず、祈りのない部族・民族はかつて世界に存在したことはない。
- 祈りは、人間の本質的要素であり、人間を人間たらしめている人間の行為と姿勢である。即ち、「人間とは、火を使う動物である」とか、「二本足で歩く動物である」と言われるが、霊的には、「人間とは祈る動物である」と言える。
- だから、人間は、ある特定の「宗教」団体に入っていようと、いまいと、「祈りたい」「祈らずにおられない」という本質的、実存的希求を心のどこかに持っている。
- 日本人の例を見ても分かる。
- 日本には昔から「八百万の神がいる」「仏教と神道の国」と言われるが、同時に、日本人ほど、実質的、実際的に、無宗教、無信仰、無神論者が多い国民はいないとも言われる。
- それにもかかわらず、毎年、日本では、年の初めに、人口総数に匹敵するほどの数の人々が全国津々浦々の神社仏閣に、「初詣」として一年の祝福を神様に祈願するのである。
- そして、年賀状にも、様々な葉書、手紙、メールにも、「ご多幸を祈ります」「合格を祈ります」「ご健康を祈ります」などなど、特に信仰や宗教を持っていない人まで、「祈る」という言葉を頻繁に使っている。
- これは、日本人だけではない。世界中、如何なる考え・主義の人もみな同じである。
- 日本には昔から「困ったときの神頼み」という表現があるが、世界中、人間は、たとい普段、神など無いと言っている人でさえ、どうにもならない窮地に追い込まれたら、思わず「神様、助けて!」と本能的に祈る。これは世界中共通である。
- 他方、人間は困ったときだけではない、嬉しいときでも、思わず、自然に「神様、感謝します」と祈りの言葉が出てくる。昔、米国での話し。有名な無神論者が、無神論の正当性をアピールする演説会で大成功の反響を得た。その時、自分の「成功」が余りに嬉しくて、無神論の講演だったのに、会場を出て、思わず「神様、感謝します」と言ってしまったと言う。
- それほどに人間の裸の姿、本質的部分には、何かあったとき、思わず、神様との交わり、会話、即ち、祈りたくなる思いが、深く刻み込まれているのである。
Ⅲ.にもかかわらず、人間の歴史は、現実においては、アダム以来、その罪のゆえに、神様との交わり、即ち、全能で、愛に満ちた神様と話し合う「祈る」と言う「特権」を拒絶し、放棄し続けてきたのである。
- そのような例を、まず聖書に見ると:
- アダムとイブが罪を犯したとき、彼らがしたことは何であったか? 彼らが禁断の木の実を食べた直後の様子を聖書はこのように記す。「それで人とその妻は、神である主のみ顔を避けて園の木の間に身を隠した。」(創世記3章8節)。ここで、彼らは、神との交わり、神との会話、神と向かい会うことを避けたのである。
- アダムの息子カインが、弟アベルの祝福を妬み始めたときのことを、創世記4章5-6節はこのように記す。彼は「顔を伏せ」て神を仰ごうとしなかったと。神の顔が直接見れなかったのである。彼もまた神に祈り、神と向かい合い、交わり、話すことを避けたのである。
- ヨナは預言者でありながら神様がニネベに行くように命じられたとき、自分なりの理由を付け、それを信仰的にも正当化して、正反対の方向であるタルシシュに進もうとした。そのときのことを、聖書は「しかし、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れた」と記す。
- これらは、みな、人が、神様と顔と顔を合わせて、交わり、語り合う特権を拒み、避けた姿の例であった。
- このように、神様に顔を向け、神様と交わる、「祈りの特権」を放棄したのは、これら聖書の人物たちだけではなかった。それは、今や、全世界の人々の傾向である:
- ある人々は、無神論者として、完全に祈りの特権を放棄し、まったく祈らなくなっている。
- しかし、多くの人たちは、上述したように、クリスチャン、クリスチャンでないにかかわらず、少なくとも、時々、何らかの形で祈っている。
- その中でも、クリスチャンたちは、確かに祈っているだろう。しかし、
- その祈りの時間はどんどん少なくなっているのではないか?
- アメリカのある統計(G. Barna)によると、平均的信徒の祈りの時間は一日一分、平均的牧師の場合は一日五分だそうである。
- 祈らないクリスチャン、祈らない教会が多くなっている。ということである。
- 換言すると選ばれた者の特権を放棄した教会とクリスチャンが増えているのである。
- こんな表現を聞いたことがある。「中国人のクリスチャンが集まると賛美する。韓国人のクリスチャンが集まると祈る。日本人のクリスチャンが集まると議論する」と。
- 韓国のクリスチャンや教会が理想だとは言わない。彼らにも色々な問題がある。しかし、彼らの経験している多くの祝福の秘密は彼らの祈りに対する熱心さである。
- しかし、残念なことは、たとい祈っていたとしても、多くの人の祈りが、「特権の祈り」ではなく、どこか歪められた祈りとなっていることである。
- 即ち、自分に都合のよいとき、また自分の好きなことには、神様の御顔を求め、特権を生かして、「主よ、祝福してください」と祈るが、
- 自分に都合が悪いこと、したくないことには、神様と面と向かっての話し合いをしようとしない。神様と面と向かい合いながら語り、祈ることをしない。
- そのような人々の祈りは、ことの結果の祝福、即ち「成功」だけを祈る。そもそも、その人がそれをするべきだったのかについては余り神様と語り合う祈りをしない。
- その祈りの時間はどんどん少なくなっているのではないか?
- それでは、神に「選ばれた」クリスチャンに「祈り」を通して与えられる「特権」とは何か?
- 第一は:祈りにおいて、私たちが、天地万物の造り主、歴史の支配者、王の王、主の主、永遠の王である神様と、親密で、個人的で、日常的で、夫婦、親子、親友のような親密な会話と交わりが許される特権である。
- もし私が米国の大統領や日本の天皇陛下や英国の皇室の家族とこのような個人的で親密交わりと会話が、毎日許されているとするなら、それが特権でなくて何であろうか!
- しかし、彼らが如何に高貴な人々であろうとも、永遠の神・王との交わりに比べたなら全く取るに足らない。私たちの持つ特権とは、その偉大なる神様に祈り、交わり、語り合う特権である。
- ある人が、米国の偉大な大統領リンカーンに会って話がしたくて、誰よりも早く起きて官邸を訪ねた。ところが、入口までやって来たこの男の耳に家の中から、既に誰かと話しているリンカーンの声が聞こえて来た。入口の所にいた門衛に尋ねた。「もう誰かが来ているのですか?」と。門衛は答えた。「大統領は、今お祈りをしておられる。大統領は誰と話すより前に、神様とお話することを第一にしておられる」と。
- かつてD. L. ムーデーと言う大伝道者がいた。彼が、無神論者である新聞記者から、意地悪な質問を受けた時のことである。「ムーデー先生、あなたが信じている神様が、本当に存在しているとどうして知ることができるのですか?」と。するとムーデーは、いとも自然に答えたと言う。「アー、そのお方なら、今朝も会って話して来たよ」と。
- 何という特権か?! 天地万物の造り主、世界の王の王と、こんなに親しく、甘美で、慰めに満ち、かつ力強く、励まされる交わりが持てるとは‼
- 第二は、「私たちの祈りは必ず答えられる」という約束と確信を頂いて祈る特権である。
- イエス様は言われる。「父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」と。何という特権か! 祈ることがすべて答えられるとは‼
- 勿論、それは、私たちの利己的な都合にかなった、自分中心の祈りが、何でも、その通りになると言う意味ではない。
- 神様の御心にかなった祈りが必ず答えられるのである。その答えはときに、私たちの思いや願いとは異なる。
- しかし、私たちが、神様とお会いする特権を生かし、祈り続け、語り合い、交わり続けるなら、私たちの祈りは、どんどん御心にかなった祈りへと必ず変えられていく。だから、しばしば、神様は私たちの祈りにすぐに答えられないのである。
- 即ち、たとい初めは自分勝手な祈りであっても、神と祈り交わるうちに、御心にかなった祈りに変えられて、すべて天の父なる神様によって必ず答えられていくのである。
- 第三は、イエス様の御名によって祈る特権である。
- イエス様は言われた。「私の名によって父に求めるものは、父が何でもお与えになるためです」と。
- これは、私たちの祈りが、必ず聞かれる根拠である。
- 多くの人が祈りに確信が持てない大きな理由は、「こんな罪びとの私が祈っても答えられるはずがない」である。それは確かにそうである。しかし、私たちの祈りが答えられる根拠は私たち自身にはない。神様は罪人の祈りは聞かれない。詩篇66:18
- 罪人である私たちの祈りが聞かれるのは、イエス様の故である。イエス様が、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの罪の始末をつけて下さったからである。
- だから、イエス様は「私の御名によって」祈りなさいと言われたのである。
- 水戸黄門がどこに行っても、権威の象徴として見せる徳川家の葵のご紋の入った印籠。「これが見えないか?!」と言ってそれを見せるとき、人々はその権威の前に何も言えない、できない、ただそこにひれ伏すだけであった。
- 同様に、あの十字架で私たちの罪の代価を完全に払い、三日目に死人のうちから甦ったイエス様の御名の権威によって、私たちの祈りは答えられるのである。
- 即ち、私たちの祈りが答えられるか否かは、イエス様の御名による権威にかかっているのである。
- イエス様は、ご自身の御名を、丁度水戸黄門のもっていた葵のご紋のようにして、私たちに渡し、「私の名前を自由に使って良いよ」とおっしゃってくださるのである。
- そこには、権威だけでなく、その御名が示す十字架の愛の暖かさがある。
- 第一は:祈りにおいて、私たちが、天地万物の造り主、歴史の支配者、王の王、主の主、永遠の王である神様と、親密で、個人的で、日常的で、夫婦、親子、親友のような親密な会話と交わりが許される特権である。
結 論
- 選ばれた者の持つ「特権」がある。それは、「祈る特権」である。
- 私の人生に最も大きなインパクトを与えた中国への宣教師ハドソン・テーラーの残した言葉をもって締めくくりたい。彼は言った。“To Move man through God by Prayer alone” ( 神を通し、ただ祈りだけで、人を動かすこと) このような姿勢をもって彼が捧げた祈りによって、中国で多くの人の人生が変わった。
- 祈ることは義務でも手段でもない。それは特権である。この特権を無駄にせず、なおざりにせずに、祈りの人、祈りの教会となりたい。そのとき、あなたは変わり、あなたを囲む状況も必ず変わっていく。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
最新の投稿
礼拝原稿2026年4月13日苦難の中の勝利(内灘聖書教会礼拝)
- ローマ人への手紙 8章28~39節 -
礼拝原稿2026年4月6日あなたは何を残すか?
- 1章1~9節,1章15~21節,2章12節 -
礼拝原稿2026年3月30日我らは恐れない
- 詩篇 46篇1~11節 -
礼拝原稿2026年3月23日復活は何を意味する
- コリント人への手紙 第一 15章1~58節 -
