教会の成長:誕生した後
- 使徒の働き2章40-42節 -

2017年2月19日 WIJC

聖書
使徒の働き2章40-42節

序  論

  • 先週週末、オハイオ州シンシナティ―郊外にある日本人集会Greater Cincinnati Japanese Worshipでのご奉仕のために、皆様がお祈り下さったことに改めて感謝したい。
    • 金曜日夜は、一昨年末、当教会からオハイオに移られたロバーツ家に伺い、お食事と交わりのときを頂いた。ご夫妻と三人のお子さん、そして香織さんのお母様と全員にお会いできた。最後にお母様の信仰のことをお話ししているうちに時間が過ぎ、気が付いたら夜中過ぎになっていた。
    • 土曜日は、午前11時から午後4時近くまで、雫田幸孝先生とお食事とお交わりの時が与えられた。同先生は、当教会で求道し、信仰を持ち、洗礼を受けられ、その後、お仕事のためにオハイオに移られ州立大学で教鞭を取りつつ、付属病院で臨床医としても働いておられる。奥様は、わんぱく?盛りの幸秀くんのことでご一緒できなかったが、翌日の日曜礼拝と交わりのときにご一緒できた。
    • 土曜日の夜は、教会で、ポットラックでの夕食会の後、集会が持たれ、メッセージのご奉仕。
    • 日曜日午前は、日本語集会に場所を貸してくださっているアメリカの教会の礼拝に参加。
    • 昼食を数名の日本人メンバーの方々と頂いた後、午後2時からの日本語礼拝でメッセージ。
    • 集会後、スナックを頂きながらのフェロシップ。その後、夜、有志の方々7-8名とともに、近くのレストランで夕食と交わり。
    • メンバーの皆様は、本当に素晴らしい方々で、大いに励まされ、私自身、教えられ、反省させられることも一杯あった。その皆様から「今度はいつ来て頂けますか?」と言う優しいお言葉を頂いて励まされて帰って参りました。
    • 既に多くの方々がご存知であるが、今朝のメッセージを取り次ぐ前に、改めてご報告し、御礼したいことがある。月曜日、朝ホテルを発って空路ワシントンに戻ったのであるが、家内が、空港からのメトロの電車の中で、グリーンカードを含む、沢山のカードを入れた財布とラップトップ・コンピューターの入っていたバックパックがないのに気が付くというハプニングがあり、一時はどうなるかと多くの方々に祈って頂いた。失くした場所を考えると、人間的には、希望の持てない状況であった。しかし、2日後、奇跡は起こった。「見つかった」と言う報告がメトロの駅事務所から入り、キャッシュを除くすべてが戻って来た。感謝のほかない。
  • さて、私たちのご報告はそのくらいにして、嬉しいニュースがある。当のご家族は勿論のこと、私たちが教会を挙げて、待ちに待った西山家の第三子が予定日の前日、2月16日に無事誕生。お名前は「サラ」ちゃん。心からお祝い申し上げる。
  • 当然のことながら、今、サラちゃんの親御さんである西山ご夫妻は勿論、誰でもが、楽しみに思っていることは、サラちゃんのこれからの「成長」である。人生で、「成長」ほど楽しみなことはない。
  • 私たちはみな、イエス様を、救い主として信じ受け入れ、サラちゃんが西山家に生まれたように、「神の子」として神の家族に「生まれた」のである。それがクリスチャンになったことの意味である。
  • 神様は、そのようにして生まれた私たちの天の父、霊の父として、誰よりも、何よりも、私たちの成長を楽しみに待っておられ、見守っておられるのである。
  • 先々週は、「教会の成長」シリーズの第一回目として、「成長はまず誕生から始まる」ということで、初代のクリスチャンたちがどのようにして神の子として「生まれた」かについて学んだ。
  • 今日は、その第二回目として、引き続き「使徒の働き」から「成長の基本原則」について学びたい。

本   論

  1. .それは、どの世界でも、人生全般において言われることである。
    1. 人生で、何をしていても、良く言われることに、壁にぶつかったときは「基本に戻れ」と言う言葉がある。
    2. インターネットを見ていたらこんな言葉に触れた:
      『伸びる人ほど、基本に戻る』
      まわり(誰か)のせいにすれば 自分は変わらなくてすむ。
      それはラクかもしれないが いつまでも続けていたら 大切な何かを失っていく。
      大事なことは 与えられた持ち場で 自分のやるべきことをちゃんとやること。
      多くの場合 求められていることは 特別な難しいことではなく 基本的なことのはず。
      あとは 自分の心にわき上がる 「面倒くさいな」 「もっとラクな道ないかな」「コレぐらいでいいや」 と思う気持ちと向き合うだけ。(小田 真嘉 おだ まさよし、「成長のヒント」より)
    3. 信仰においては尚更そうである。なぜなら肉体の場合同様、これは命の問題だからである。命の原則は、幼くても、若くても、年をとっても、いつも同じ、基本的なことだからである。
  2. 使徒の働きが記している「初代教会」は、その良いモデルであった。
    1. 即ち、初代のクリスチャンたち、初代の教会は、信仰の成長の基本原則を実行し(守り)、そこに留まり続けたゆえに成長したのである。それは、決して:
      1. Culturally Correctな楽しいプログラムがあったからでも
      2. 組織・運営が行き届いていたからでもない。(この点に関しては、後に使徒の働き6章で、人が爆発的に増えた時に生じた問題への対処のこととして触れることになる。しかし、少なくとも、初期の段階での教会成長においては、それらが要因になったのではない)
    2. 使徒の働き2章40-41節を見ると、
      • 聖霊に満たされたペテロが大胆に語った十字架の福音を受け入れ、クリスチャンとして誕生した3000人にも及ぶ信仰者たちにより「教会」がスタートしたことが分かる。
      • 即ち、その日起こったことは、正にベービー・クリスチャンの誕生であり、ベービー・チャーチの誕生であった。
    3. そして、その後、この教会が、着実に、確実に、成長して行ったことが記されている。使徒の働き2章47節には、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とある。
    4. しかし、聖書は、そのような着実な成長には、明確な理由があったことを記している。それが42節に記されている。それは成長のための「4つの基本原則」である。「・・・・」。
      • 日本語の訳では、4つの動詞が用いられているが、原語では、一つの動詞である。
      • その動詞proskarterountesの意味は、「・・・に対して熱心に、継続的に、献身、或いは、専心していた」と言う意味である。
      • それは、次の4つのことに対しての献身であり、専心であったと記されている。
      • その4つとは:①使徒たちの教え、②交わり、③パンを裂くこと、④祈り、であった。
      • この4つのことへの継続的で、熱心な献身、専心と献身こそが、初代教会の成長の基本であり、原則であった。
      • 英訳NIVでは”They devoted themselves to the apostles’s teaching, to the fellowship, to the breaking of bread, and to prayer. とある。
      • これはクリスチャンとしての彼らの「誕生」を記した41節の次の節、42節に記されている。それはその成長の原則が彼らの救われた「直後」から始まったことを意味している。
    5. 今日のメッセージの後半は以前にも数回学んだことである。しかし、基本原則を繰り返し学ぶことは必要であり、益であることを思い、敢えて繰り返して学ぶことにした(ピリピ3:1)。
  1. 第一原則は、「使徒たちの教えに」献身すること
    1. 「使徒たちの教え」とここで言われていることは何か? 結論から言うなら、それは、今の私たちの「聖書」のことであり、イエス様が使徒たちに伝えた「イエス様の教え」である。
      1. 即ち、初代のクリスチャンたち、初代の教会は、「使徒たちの教え、即ち、聖書の教えに献身していたのである」。これが、彼らの成長の第一原則であった。
      2. 聖書、特に新約聖書が今のような形で、「27の書」が「聖書」として成立して行ったのは、4世紀以降にまで至るプロセスであった。その詳細はいずれ別に学びたい。
      3. そのようなプロセスの中で、当時、すでに使徒たちの教えるところ、更に後には、彼らの書いた手紙が、不動絶対の神の言葉である「聖書」として受け入れられていった。
      4. その事実を示しているのが、ペテロ第二の手紙3章15-16節である。「私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送った通りです。その中で、他のすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」
      5. この聖句から明らかなことは、この当時すでに、パウロを中心に使徒たちが書いた手紙のあるものが、聖書として受け入れられていたということである。
      6. 勿論、ここで間違っていけないことは、使徒の書いたすべての手紙が聖書として受け入れられたのではないことである。これについても別に改めて学びたいが。
      7. いずれにせよ、初代のクリスチャンたち、初代の教会は、使徒たちの教え、即ち今日で言う「聖書」にdevoteしていた、だから成長したのである。
    2. その理由はなぜか? なぜ「聖書への献身」が信仰の成長の基本的条件なのか? それは:
      1. 聖書のみ言葉が、私たちの魂・霊のパンであり、糧であるからである。
        • ベービーが、成長するためには、ミルク、母乳が必須である。これなくして育つこと、成長することは不可能である。
          <聖書>第一ペテロ2章2節「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕いもとめなさい。それによって成長し、救いを得るためです」
        • ベービーだけではない。人間すべて、肉体のパンと同様に、魂・霊のパン、糧を必要としていることをイエス様は言われた。食べ物なしに生きれるだろうか?!
          <聖書・イエス様>「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)、「私は命のパンです」(ヨハネ6章48節)。
      2. 聖書のみことばこそが、私たちを罪から守り、清い道を歩む力を与えるからである。
        • 詩篇119篇9、11節「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたの言葉に従ってそれを守ることです。・・・あなたに罪を犯さないため、私はあなたの言葉を心に蓄えました。」
        • イエス様は、受洗後、荒野で悪魔から3つの誘惑を受けた。それらの誘惑は皆、神さまに背き、信仰に妥協も、自分の肉欲を満たせという誘惑であった。
        • そのときイエス様は、そのすべての誘惑と挑戦に対して、聖書の言葉を引用して勝利を得られた(上述の「人はパンだけで・・・」もその時のものである)。
        • 有名なD.L. ムーデーという伝道者がいたが、彼はこのように言った。「この聖書があなたを罪から遠ざけるか、あるいは、罪があなたを聖書から遠ざける」と。
      3. 聖書のみ言葉は、人生の試練のただ中で、私たちに慰めと励ましを与えてくださる。
        • 詩篇119篇49-50節「どうか、あなたのしもべへのみ言葉を思い出してください。あなたは私が、それを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、み言葉は私を生かします。」
      4. 聖書のみ言葉は、人生と言う道に光を与えて、私たちを導いて下さる。
        • 詩篇119篇105節「あなたのみ言葉は、私の足の灯、私の道の光です」。
        • み言葉は、私たちに善・悪を教える光となってくださる。
        • み言葉は、私たちがどんな職業に就くべきか、どこの大学に行くべきかについても、光を与えて導かれる。
        • それは、特別な時を除いて、通常決して「おみくじ」のような直接的なものではない。
        • むしろそれはどのように祈り、考えるべきかを教える価値観に光を与えるものである。
        • その選択が、どのように神様の栄光に繋がるのか、どのように神と人とを愛することに繋がるのか、どのように人々の永遠の祝福に繋がるのかについて光を与えてくださる。
    3. それでは、み言葉、聖書に「献身するDevoteする」とは、具体的にはどうすることか?
      1. まず、聖書を読むために、聞くために時間を取ることである。
        • 今日、人々が一番闘いを覚えるのが「時間」を神様に捧げることである。最近誰もが実感しているのが「時」の経つのが早いことである。皆時間と競争している。
        • 更に、それに加えて、テクノロジーの進歩、生活の豊かさ(個人差はあるが、少なくとも昔より)により、したいこと、できることがどんどん増えて、やることが多過ぎる。
        • その為に大事なこと、生命的なことを後回しにし、「あったらいいな」と言う願望と欲望(それらは、なければないで済むもの)を満たすことを優先し、振り回されている。
        • それが正に、イエス様が、ルカの福音書10章の最後の部分に出て来る出来事の中で、マルタに言われた言葉(41-42節)、特に「マルタ、マルタ、あなたは、多くのことで思い煩っている。しかし、無くてならないものは多くない。否一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのです」と言われたことの意味である。
        • マリヤが選んだことは、イエス様のそばに座ってイエス様のお話を聞くことであった。
        • 参考:「成功のための7つの習慣」のチャートから学ぶ
        • 「聖書を読むこと」あるいは、次の「聖書を味わうこと」も含めて、それらこそは、現代人が、欲しい物、したいこと、現代の価値観から必要だと思っているものをまず優先しているために、現実に真っ先に無視し、後回しにしている最たるものである。
        • しかし、ここにこそ、クリスチャンたちが成長しない理由の第一歩がある。
      2. 次は、聖書の意味を味わうことである。
        • 聖書は、読む・聞くだけでは十分ではない。
        • 詩篇1篇2節は言う。「まことに、その人は、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」
        • ここで言われている「口ずさむ」は、NIVの英訳では「Meditate」(瞑想する)である。
        • ある聖書解釈者たちは、この語には「反芻する」という意味があると言う。即ち、み言葉を、何回も何回も、嚙み砕き、味わい、咀嚼する意味を含んでいる。
        • み言葉をただサラッと読んで、聞いて終わるのでなく、その真意をよく味わい、考え、どのように自分に当てはめるのかを考えることである。
        • 私たちの「聖書」の読み方は、余りにも「おみくじ」的である。み言葉を読むとき、聴くとき、その表面的な言葉の意味だけに関心がある。
        • それが、自分に何か手っ取り早く都合の良いことを言っているかどうかだけに関心があって、神さまが私に何を言おうとしているのか深意、真意を突き止めようとしない。
      3. 第三に、聖書を心に蓄え、覚えることである。
        • 詩篇119篇11節「私はあなたの言葉を心に蓄えました。」
        • み言葉を暗誦することである。これは特に説明を要しない。そのまま実行したい。覚える努力をしたい。紙に書き、カードを作って、何度も読んで心に蓄え、記憶したい。
      4. 最後に、聖書を実際に生活において実行することである。信じる生活、従がう生活。
      5. ここまで、来なければみ言葉は意味がない。
      6. ヤコブの手紙1章22節は言う。「み言葉を実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」
      7. イエス様が語られた有名な「岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人」の譬え話のポイントはこれである。この譬えではどちらの人もみ言葉を聞いた。二つの人生の違いは、聞いたみ言葉を行ったか、行なわなかったかである。
      8. しかし、み言葉を行うためには、絶えずチャレンジがある。それゆえ、勇気と信仰が必要である。だからこそ、信仰が伸びる、成長するのである。

結   論

  • 今日は、ここまでにしたい。来週、この続きを取り次がせて頂く。
  • ・・・・・・。
  • ・・・・・・。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。