パウロに学ぶクリスチャンの成長
- ピリピ3章1-16節 -
2017年01月15日 WIJC
聖書
ピリピ3章1-16節
序 論
- 今日は、2017年になってから第三回目の礼拝となる。
- 過去2回の礼拝で、新年のメッセージとして「成長」について学んで来た。2017年が、「成長」する人間、「成長」するクリスチャン、「成長」する教会であるようにと願ってのテーマである。
- 第一回目、元旦礼拝のときは、私たちと同じ人間となられた「イエス様」が、一人の人間として、一人の信仰者として、どのように成長されたかを学んだ。
- 第二回目の先週の礼拝では、旧約聖書の預言者「サムエル」、イスラエルの初代の王サウル王とイスラエル史上最大の王であり、王としての救い主の姿を象徴的に表すモデルともなったダビデ王を産み育てた(養育係とも言える)預言者サムエルが幼少期にどのように成長して行ったかを学んだ。
- 今日は、キリスト教界の最大の使徒・宣教師パウロが、クリスチャンとしての成長をどのように考えていたかを学びたい。
- テキストは、ピリピ人への手紙3章12節~16節。
- ピリピ人への手紙は、パウロが、自ら持つ信仰とそれを伝えようとする宣教の故に捕らえられ、投獄されるが、囚人の身での「獄中」から「教会」へ書いたいくつかの手紙の一つである。
- 諸説はあるが、恐らくローマの獄中で殉教を覚悟しての最後の日々を送る中、ピリピの教会へ向けて書かれたものである。
- パウロは恐らく、齢(よわい)60才前後、信仰者としても入信して30年ほど経っていたと思われる。
- 今日は、パウロが書いたこの手紙の中から、「彼が、クリスチャンとして、成長についてどのように考え、努めていたか」を皆様とご一緒に考えたい。
本 論
Ⅰ.まず大切なことは、パウロは常に「成長」することを熱心に求めていたことである。
- 3章12-14節でパウロは言う:
- 12節:まだ、完全になっていない。不完全である。完全になるためになお追及している。
- 13節:既に完全になっていると思っていない。ただ、少しでも前進し、向上したいと願っている。
- 14節:神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている。
- これらの節から明らかなことは何か?それは、パウロは、絶えず、信仰において、前進、即ち、成長する必要を自覚し、そのために努力していたことである。
- 人間は「生まれた」ということだけに満足してはならない。
- 成長を求め、成長を目指さなければならない。
- 与えられた命を大切にし、それを活かすためにも成長しなければならない。
- 私たちの子どもがもし成長しなかったら、どうしてかと心配になって調べ出すであろう。
- 成長は、命を与えられたものの極めてノーマルかつ基本的な期待であり、責任である。
- イエス様もそうであった。
- ベービー・ジーザスで終わっては人類の救いはなかった。
- 人間として生まれたイエス様は成長しなければならなかった。
- だから、赤ん坊の時から30才で救い主として登場するまでのイエス様の30年の人間としての生涯を、聖書はたった一言でまとめている。
- 即ち、「イエスは、益々知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された」(ルカ2章52節)と言うたった一言である。それはイエス様の健全な成長を表すことばであった。
- この「成長」の事実こそが、イエス様の健全・正常な30年間にわたる人間性のすべてを表していた。
- だから、先週も学んだように預言者サムエルの幼少年期・青年期を記す僅か2章にも満たない記述の中で、聖書は三度にもわたって「サムエルは成長した」と記すのであった。
- 成長とは、私たち命を頂いたものにとって、それほど重要なものなのである。私たちが生まれて来たのは、成長するためであると言って過言ではない。
- 確かに成長は放っておいてもある程度は起こる。生命そのものの中にその力があるからである。
- しかし、豊かで、フルな成長は、自動的には起こらない。その成長を促進し、豊かなものにすることは、生命を託された者の責任である。
- 事実、私たちは、皆、普通「成長」のためには、意図的にかなり努力している。
- 親も子供の成長のために努力し、親の励ましで、子ども本人も一生懸命努力する。
- 肉体的な成長:強い体を作るために、ダイエットに気を付け、運動をする。
- 知能的な成長:優秀な頭脳の働きのために、塾に行ったり、勉学に励む。
- 能力的な成長:音楽やスポーツの技術・能力の向上のために一杯習い事や練習をする。
- それらもって生まれた才能、賜物を磨き上げ、向上、発展、成長するために努力する。
- 人間は「生まれた」ということだけに満足してはならない。
- そのように、成長のために努力する方々に共通することは、その努力のための「大前提」があることである。その大前提とは:
- 「やるからには・・・」、「生きているからには。・・・」、「もっと成長・向上しなければ‼」と言う、成長の重要性に対する自覚とそのための責任の自覚である。
- しかし、問題は、これらの大前提的な自覚が、上述したような、肉体的、物質的、知的、この世的な世界の「成長」にはよく見られるが、霊的な世界には余り見られないことである。
- なぜか? なぜ人々は、見える世界の成長には結構気を配り努力もするが、見えない世界、霊的な世界、信仰の世界の成長には、ほとんど、或いは全く無頓着なのか? それは:
- そのことが、目に見えない世界のことだからであり、
- 地上生活には、直接的、即時的にはほとんど影響がないからである。
- 即ち、特に損になるということもないが、得になると言うのでもないからである。
- 霊的・信仰的成長はこの世的な価値観から言うと「非現実的・第二義的」なものである。
- 言い換えるなら(もっと率直に言うなら)、多くの人にとって、教会に来た時だけのものであり、時々ふと思いだす程度の世界のことなのである。
- パウロはこのことに関して警告し、奨励の言葉を記している。第1テモテ4章7~8節である。即ち、「むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」と。
- パウロは、信仰者の「成長」を「敬虔の鍛錬」と呼びながら、その大切さと一人一人の責任、実践の重要さを訴えている。
- パウロはなぜこのように言ったのか? それは多くの人々が、信仰の成長については(ほかの世界の成長とは違って)、「放っておいても、成長するときは成長するんだから」などと言って、安易に考え、それに特別留意し、努力しようとしないからである。
- しかし、それは大きな間違いである。
- その理由は、成長には、長期にわたる苦闘でさえある努力が必要だからである。それは:
- 子どもの成長を見ても分かるし、
- 農業における農作物の成長とそれに携わる農夫の方々の仕事を見ても明らかである。
- 即ち、成長は、決して自然にだけ任すものではない。命を託された者が成長のために果たすべき役割と責任がある。それは霊的・信仰的成長においても同じである。
- 更には、成長のための努力は、決してpleasantな、心地良いものではない。むしろ、痛みや苦しみを伴う長いプロセスを要するものである。だから人は避けようとするのである。
- これを、俗に「Growing Pain」と言うのである。成長は痛みをともなうのである。
- ここにも、クリスチャンたちが、ほかの成長には結構努力するのに、霊的・信仰的成長となると、それを後回しにし、そのために心やエネルギーを用いようとしない理由がある。
- それは、世の中の成長のことを考えるだけでも一杯なので、もうそれ以上、信仰の成長のことまではやってられない、手が回らないと言う気持ちだからである。
- 残念ながら、クリスチャンを含んだ多くの人々にとっては、この世的な「成長」が一番大事である。信仰やその成長はその為に役に立つ範囲で重要な「手段」に過ぎないのである。
- しかし、それは、正反対であるとパウロは言う。
- 一番大事なものは、むしろ、信仰的、霊的な成長である。即ち、敬虔の成長であり、神さまとの関係の成長である。
- その信仰的な成長こそが、この世の様々な成長に、更に深い意義と祝福を与える。また、それを達成するための力ともなるのである。
- それだけでなく、この祝福は、今の世の祝福では終わらない。この世の終わった後、永遠の世界でも私たちに祝福をもたらす。
- 一方この世の価値観における成長は、この世のものとしてだけで終わってしまう。
- それが、パウロが先に挙げた第2テモテ4章7-8節の聖句「むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」の意味である。
- その理由は、成長には、長期にわたる苦闘でさえある努力が必要だからである。それは:
- いずれにせよ、霊的・信仰的なクリスチャンとしての成長のための大前提は、
- 世的なことに関する成長と同様、「成長はしなければならないもの」と言う、強い成長に対する必要感と責任の自覚である。
- この意識・自覚なしに、クリスチャンとしての成長はない。
Ⅱ.さて、それでは、パウロは、自らのクリスチャンとしての霊的な成長をどのような姿勢と行動で実現したのか?
- 第一に、「謙遜」と言う姿勢である。即ち、パウロは謙遜であった。
- 12-14節「私は既に得たのでもなく、既に完全にされているのでもありません。ただっ捕らえようとして、追及しているのです。・・・私は既に捕らえたなどと考えてはいません。・・・目標を目指して一心に走っているのです」。
- 言い換えるなら、「私は完全ではありません。それを追及しているに過ぎない求道者です」。「クリスチャンとして、まだまだです」「できていないところが一杯あるクリスチャンです」「もっと、もっと上を目指さなければならないクリスチャンです」と言う姿勢である。
- これは、自分がまだ目標には到達していない、クリスチャンとしてまだまだ成長を要するものであることを認める「謙遜」な姿勢である。
- 成長の最大の敵は、「自己満足content / complacency」である。
- 自分がこれで良いと思った瞬間、現状に満足した瞬間から、霊的死が、堕落が始まるのである。
- それは、丁度、自転車は止まった瞬間、倒れるしかないのと同じである。自転車は前に進むときに最も安定し、力強く働くのである。
- 成長は、「自分ができていない」ものであることを積極的に認める謙遜から始まる。
- しかし、「謙遜」は、しばしば誤解されている。
- 真の謙遜は、自分ができていないことを、人と比べて、卑屈な思いをもつことではない。
- 私たちを「卑下する」こととは違う。それは、しばしば、私たちを愛し、「特別なあなたとして」私たちを造ってくださった神さまに失礼である。
- それは、単に「自分はできない」と言うことではない。そのような姿勢は、しばしば失敗して恥をかくことから自分を守ろうとする「逃げ」でしかないことがある。
- もう一つ真の謙遜は、決して「私はできません。私はダメです」で終わらない。むしろパウロのように、できていないから、積極的にできるまでやってみると言う姿勢である。
- 真の謙遜は、自分ができていないことを、人と比べて、卑屈な思いをもつことではない。
- 第二に、パウロは、成長のための明確な「目的」をもっていた。
- 14節「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」。
- ここに目標・目的をしっかりと持って成長しようとしていたパウロの姿がここにある。
- 何事でも、目標がないとき、曖昧であるとき、ぶれるとき、良い働きをすることはできない。
- 成長においても同じである。何のための、どこに向かっての、目指しての成長なのかが明確であるとき、成長は実現する。
- パウロは、一体何を目指していたのか? パウロの成長は何を最終ゴールとしていたのか?
- ピリピ3章14節では:「神の栄冠を得るために目標を目指して」とある。
- 第2テモテ4章6-8節:「・・・義の冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。・・・」
- 「神の栄冠」「義の冠」を得ることが目的である。
- しかし、それらは実際には何のことか? それらの「冠」が意味しているものは何か?
- ピリピ3章の前半(特に8-9節)を見ると、パウロの究極的人生の目的は、
- キリストを知ること
- キリストの中に生きること
- また、第2コリント3章18節を見ると、パウロは、私たちが栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくこと、即ち、キリストに似たものになることを期待していたことが分かる。(第1ヨハネ3章2節もこれをバックアップしている)
- ピリピ3章の前半(特に8-9節)を見ると、パウロの究極的人生の目的は、
- 私たちの人生の目的、成長の目的は何か?
- 楽な生活、楽しい生活、お金、地位、名誉、キャリアの成功、子どもが良い学校に入り、良い職業に付き、結婚し、孫ができること等々、それらが目的か?
- それとも、パウロのように、永遠に残る何かか? キリストの素晴らしさを永遠の宝として体験的に知ることか?!
- 前はもっとクリアだったけど、いつの間にか何のための人生か、何のための信仰かボケて来ていないか、ブレて来ていないか?
- 第三に、パウロは、成長するための「原動力」を持っていた。
- 12節「そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえて下さったのです」
- 信仰・霊的な成長はこの世の他のこととは違い、自分の力では絶対に果たすことはできない。
- パウロのような、元々宗教的であり、優秀な宗教学者であり、パリサイ人として自らを厳しく律する意志の強い人物であり、恐らくサンヒドリンと言う議会のメンバ‐として社会的リーダーでもあった彼をもってしても、自分の力で「成長」することはできなかった。
- むしろ、成長するどころか、ローマ7章の後半に記されているように、霊的な苦闘さえ敬虔していた人物に、自分の力で成長はできなかった。
- しかし、彼には強い味方がいた。イエス様である。ただイエス様がいたと言う以上にパウロの信仰と霊的成長のために、キリストがパウロを捕らえたと言う強い表現が用いられている。
- イエス様はどのようにして、パウロを捕らえたのか?十字架の愛によってである。
- パウロはそれを第2コリント5章14節でこのように記している。「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでるからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」
- 「キリストの愛が私たちを取り囲んでるからです」は、英訳では、The Love of Christ constrains us OR The Love of Christ controls us 等である。
- パウロを捕らえて、成長する力を与えていたものは、キリストご自身であり、キリストの愛、パウロのために十字架で命を捨てられたイエス様の愛である。
- そしてパウロは言う。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4章13節)と。
- あなたを、あなたの人生を、突き動かしているものは何か? イエス様だけが、それをしてくださることができる。
- 最後に短く考えたいことは、パウロの「成長」の秘訣は、その「ひたむき」さ、「集中」であった。
- 13節「ただ、この一事に励んでいます。即ち、後ろのものを忘れて、ひたむきに前のものに向かって進み、・・・。」
- 「この一事に励む」とは、一点集中である。「成長」することに集中することであった。
- しかし、それは、決してほかのことをしないことではない。
- それは、丁度、ジョン・ウェスレーにとっての「(聖書)一書の人」と同じである。
- それは聖書以外読まないことではない。他の何を読んでも、それを聖書の理解と適用のために読むことである。
- 「成長」に集中するとは、その意味で、何をするにしても、クリスチャンとして成長することにつながる人生、つなげる人生のことである。
- もう一つの集中は、「今に集中する」ことである。
- 未来への思い煩いと不安を捨てて、主に委ね、
- 更には、「過去へのこだわり」、過去の罪や失敗を引きずらず、悔い改めて主の血潮による赦しを確信したら、
- ひたすら今できること、前に進むこと、成長することだけに、熱心に、夢中で集中することである。
- このようなひたむきで、集中した、熱心な思いによらないでは、クリスチャンの成長はあり得ない。
結 論
- 最後に、もう一度、イエス様が、どのように「成長」されたかを、ヘブル5章7-9節から見て締めくくりたい。「・・・・」
- イエス様も、神の御子であると言うので自動的に「成長」したのではなく、一人の人間として、苦渋に満ちた人生の中で、苦悩・苦闘の中で苦悶し、涙を流し、祈る中で、敬虔が養われ、完全へと向かって成長したのである。
- 2017年が「成長の年」であるように祈りつつ
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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