主の祈り(5)「神についての祈り(3)」
- マタイの福音書6章5-15節 -

2022年7月3日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書6章5-15節

序  論

  • 今日は、「主の祈り」の学びの5回目である。最初に学んだことは、「誰に祈るのか」と言う問題であった。それは「天にいます父なる神」である。
  • それは、「父」「父上」と言うより、イエス様が使っておられたアラマイク語から言うと、「アバ」、即ち「お父ちゃん、Daddy」と親しく呼べ、甘えることのできるお方である。
  • 同時に、「天にいます」お方として、「高御座」に座する、時空を超えた全世界・全宇宙・全歴史に君臨し、すべてを掌握し、王として治めておられるお方に、私たちは祈るのである。
  • それに次いで、「主の祈り」の前半は、三つのことを神様について祈る。
    1. 御名が崇められますように
    2. 御国が来ますように
    3. 御心が天でなるように、地にもなりますように
  • 今日は、その3番目、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」について学びたい。

本  論

  1. 某姉の証し:
    私が、プリンストン日本語教会でご奉仕していた頃のこと。米国生活の長い、何でも歯に衣着せないで話す年配のご婦人が、ある日曜日、礼拝後の交わりの中で、突然、言った。「先生、私、祈らないの!」と。「なぜ?」と私が尋ねると、彼女は答えた。「だって、先生、祈ったって、どうせ、神様の『御心』しかならないんでしょっ!? それじゃ祈っても無駄じゃない?」と。
  2. このように思う人は他にもいるかも知れない。その原因は「御心」に関しての二つの「無知」からと言える。
    1. 一つは、神様の「御心」に生きる素晴らしさに関しての無知であり、
    2. もう一つは、「御心」が成就して行くプロセスに隠されている祝福に関しての無知である。
    3. これらの「無知」が、「御心がなりますように」と言う祈りを形式的なものにし、私たちから「祈りへの熱と力」を奪ってしまっている。
  1. 最初の「無知」は、私たちが、神様の「御心」に生きることの圧倒的素晴らしさを知らないことにある。
    1. 旧約聖書の聖徒たちは、神様の「御心」がなることは、大きな喜びと興奮であった。
      1. 詩篇40篇8節「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
      2. 詩篇1篇2節「まことに、その人は主のおしえ(みこころ)を喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」
    2. これらの聖句が示すように旧約の聖徒たちにとって「神様の御心に生きる・がなる」ことは、
      1. 「どうせ、御心しかならないんでしょっ」とか、「もしそれが御心なら、しかたない。気は進まないけど、お受けしましょう」などと言うような消極的なものではなかった。
      2. 彼らにとって、神様の「御心」は、むしろ、獲物を追い求める猟犬のように、積極的に全力を尽くして祈り求め、その成就を大いに喜ぶのである。
      3. 彼らが、そのように積極的になる理由は? 彼らが「神様の御心」が如何に素晴らしいかを知っていたからである。
      4. 新約聖書のパウロもそのような聖徒たちの一人であった。だから・・・
        • 彼は言う。ローマ8章28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画(神の御心)に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」と。このように、
        • パウロは、「最悪の状況をも含めたどんな時も、神様のご計画の中で、必ず、すべてが益・祝福と変えられる」と言う「神様の御心・ご計画」の素晴らしさを知っていた。だからこそ、彼は、絶望的暗闇の中でも、御心がなりますようにと祈ったのである。
    3. しかし、多くの人が祈るときの関心は、神様の「みこころ」がどうかよりも、自分の願い、自分の「おこころ」の方が、もっと魅力的、素晴らしいものに見えていて、その自分の願いがなることである。
    4. 残念なことは、「御心がなりますように」と言う祈りは、しばしば、祈りに行き詰まり、どうにもならなくなって、初めて土壇場で逃げ込むようにして出てくる祈りである。
    5. その意味で、私たちは、もっともっと、神様の御心に生きることが、どんなに素晴らしいものかを知り、体験したい。
    6. そして、自分の願いMy willを聞いてくださいと祈る前に、まず神様あなたの御心Your Willがなりますようにと祈る者でありたい。
  2. 二つ目は、「御心」が成就して行くプロセスに隠されている祝福についての無知である。
    1. 「祈ったって、結局は『御心』しかならないんでしょっ。それじゃ、祈ったって無駄でしょう」と言う婦人の言葉を思い出したい。そこには、祈りがそもそも何であるかの誤解がある。
    2. 祈りは、神様に「欲しいものリスト」や「必要品の注文票」を送る手段ではない。ただ「願いや必要」を知らせるだけの「方法・手段」なら、全知の神様は、それらをすでに知っておられる。
      聖書は言う:だから彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです(マタイ6章8節)。
    3. 祈りは、むしろ、私たちの父であり、友である神様との「会話・対話」である。
      1. 聖書は、モーセが天幕で神様と祈っている姿を:「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。」(出エジプト33章11節)と記している。
      2. また、アブラハムの甥のロトの家族の住むソドム・ゴモラの町を滅ぼす寸前に、イエス様が、それをアブラハムに打ち明けて問答する二人の会話・対話は、正にアブラハムの祈りであった。創世記18章17節は、その対話の始まりをこのように記す:主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」。
    4. このような神様との会話・対話としての祈りは、旧約聖書、特に詩篇の中に満ちている。それは、喜び、賛美、感謝、交わりの会話であり、同時に、苦悶、苦渋、失望、疑い、反目、格闘、議論の会話である。苦楽を分け合う会話である。これが、聖書の言う祈りである。 
    5. 当然のこととして、神様は既に「御心」の何たるかを知っておられる。しかし、しばしばそれを最初からは私たちに明かさない。会話は一回や二回では終わらない。毎日である。話しが中々進まない、忍耐させられる、イライラさせられる、様々な所を通りながら、神との交わり・会話の中で、神様ご自身と、その御心と言う答えに近づいて行き、成長するのである。
    6. ここに祈りの醍醐味がある。「御心がなるように」と言う祈りのプロセスの中で、神様に交わり、我らは祝福され、我らは変えられるのである。
  1. 「御心が天になるように」の意味は、言うまでもなく、
    1. 天は、神様が完全支配しているところなので、
    2. 天では、完璧、完全、最善、最高、絶対の「神様の御心」が、遅れることも・早過ぎることもなく、パーフェクトなタイミングで、必ず成就する・して来た・今もしているのである。
  2. 一方、「地にもなりますように」の意味は、
    1. 「地上」は、たとい限定的ではあっても、今尚、サタンの支配と反抗的活動が許され、且つ、人間の罪と弱さの現実があるので、
    2. 神様の御心の成就は、しばしば、一時的、表面的ではあっても、妨げられる。
  3. だから、そうならないように祈るのである。
    1. 即ち、「天での完全で確実な御心の成就」が、「地上」でも同様になされるように、
    2. 具体的には、サタンの攻撃の抑止、また私たちがその罪と弱さに打ち勝って、神様の御心の内を、御心に従い、信頼して生きることができるようにと祈るのである。
  1. イエス様が、捕縛と十字架刑、直前にゲッセマネの園で捧げた祈り
    「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26章39節)
  2. このように祈られたのが、イエス様であることに注目したい。
    1. イエス様は、「人間」になったとは言え、常に私たちの「模範」としてここまで歩んで来られた。聖書は言う。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(第一 ペテロ2章21節)と。
    2. それだけではない。イエス様は、ここまで、「十字架に付くために」と言う明確な目的をもって生き、ただ一途に生きて来られた(マタイ16章21節、20章28節)のである。
    3. そのイエス様が、こともあろうに、ここに至って、その十字架を目前にした前夜、「今更何を!」と言われてもおかしくない、まるで弱音を吐くような祈り、「できますなら、この杯(十字架の苦しみ)を私から過ぎ去らせてください」を捧げたのである。
    4. しかし、イエス様の祈りはそこで終わらなかった。ここが重大である。即ち、「しかし、私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と続いたのである。
  3. 締め括りに、このイエス様のゲッセマネの祈りが、私たちに教えることは何かを考えたい。
    1. 私たちはどんなに完璧な人間でも、どんなに成長したクリスチャンでも、地上では:
      1. 知的に、「御心」と違うことを考えることがある(知的相違)。また、
      2. 情的にも、「御心」と違うことを欲する・願う・慕う・好むことがある(感情的相違)。
    2. これが、「主の祈り」の「地でも行われますように」の意味である。物事に地上的、人間的要素が入ってくると、「天で」とは違った様々な問題、課題、妨害が出てくる。
    3. しかし、その神様との相違を隠したり、抑えたりする必要はない。どんな時でも(十字架直前の土壇場でも)、ありのままに(たとい取り乱すような姿でも)、それを御前に吐露して良いのである。イエス様は、あのゲッセマネで正にそれをなさったのである。
    4. しかし、同時にイエス様の祈りは、前述のように、そこで終わらなかった。即ち、たとい私たちが人間として、知的・情的に、父なる神様と相違していたとしても、信仰的には、どこまでも「私の・・・ではなく、あなたの御心のようになさってください」と祈る大切さがそこにある。
    5. しかし、現実は、このイエス様がなさったゲッセマネの祈りの前半「自分の願いを述べる部分」は問題ないが、最後の部分「私の願いではなく、あなたの御心のようになさってください」とは中々祈れない。

結  論

  • しかし、現実は、このイエス様がなさったゲッセマネの祈りの前半「自分の願いを述べる部分」、「もし、できるなら・・・」は問題ないが、最後の部分「私の願いではなく、あなたの御心のようになさってください」とは中々祈れない。
  • 結論的に言うなら、私たちの「御心が天でなるように、地にもなりますように」と言う祈りは、口先だけの祈りではどうにもならない。祈りとともに、・・・
  • 私たちが、神様の御心が、完全・完璧で、すべてに勝るものであることを「絶対的に信頼」し、その御心に「絶対的に服従し・コミットする」ことが必要である。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。