主の祈り(4)「神についての祈り(2)」
- マタイの福音書6章5-15節 -
2022年6月26日 佐野レインボーチャペル
聖書
マタイの福音書6章5-15節
序 論
- 今日は、「主の祈り」の学びの4回目である。最初の2回は、祈りの「鍵」と言える「誰に祈るのか」と言う問題を扱った。それは「天にいます父なる神」についてであった。
- このお方は、お父ちゃん、Daddyと呼んで、何のためらいもなく、その懐に飛び込んで、甘え、すがることのできるお方であり、それでいながら・・・
- 同時に、天に座する、頼れるお方として、何もかもを見通し、すべてを手中におさめておられる不動・全能の神である。
- 「主の祈り」は、このお方についての三つの祈りをもって始まる。
- 先回は、その中の最初の祈り「御名が崇められますように」であった。
- 「神様が崇められる」とは、(1)神様の素晴らしさが、人々の間で、もっともっと拡大(magnify)されますようにと言う意味であり、(2)神様と言うお方が、人々の心と人生の中で、特別なお方として、他のものと全く区別され、聖別された(hallowed/sanctified)お方となりますようにと言う意味である。
- 今日は・・・
本 論
Ⅱ.神についての2番目の祈りである。即ち、「御国が来ますように」である。
- まず、「御国」とは何か?である。
- 「御国」は、原語では「バシレイア」で、「支配」「権威」を意味する言葉である。
- 即ち、「神の御国」とは、神が王として権威をもって支配する領域のことである。
- 聖書には「二つ」の神の国が記されている。即ち、「見える」神の国と、「見えない」神の国である。
- 1.第一は、「見える」神の国である:いわゆる「死んでから行く所」としての「天国」である。
- それは、何らかの物質的要素を持った物理的場所である。
- イエス様は、ヨハネ14章1-2節でこのように言われた:「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」と。
- 「最後の晩餐」のとき、弟子たちが、どこかに死の気配を感じ、不安になり、恐れていることを知っておられた。そこで、彼らに、「死ぬことも、これからどうなるかも、将来の運命についても、心配してはならない。あなたがたの行く場所、住む場所は、「神の国」「天国」に確保してあるから」と言われたのである。
- 「行く場所」が分からない、ハッキリしないこと不安なことはない。旅行のときもそうであるが、「人生の旅路」の最後の所である「死」のとき、「行く場所」が保証されていないほど「不安」はない。だからみんな死が怖いのである。
- イエス様は、そんな彼らに「あなたがたの行く場所」即ち「天国」「神の国」はあると言って励まされたのである。
- それでは、天国、神の国とはどんなところか? そんなに素晴らしいところか? 聖書の結論の書である「ヨハネの黙示録」を読んで行くと次のことが分かる。
- 天国は、イエス様を王とする永遠・不動の御国である。それは群雄割拠して絶えず争い、「起きては消える」を繰り返す「栄枯盛衰」のこの世の王国とは違う。
- また、天国は、イエス様を我らの永遠の花婿として、イエス様に愛され愛し合い、共に過ごす永遠の喜びの新居であり、金銀・宝石に象徴されるように、美しく輝く場所である。
- 更に、黙示録は言う「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(21章4節)と。即ち、天国は、私たちを苦しめている、死も、病も、貧困も、不公正も、不条理もない、癒しと慰めに満ちた場所である。
- 私たちには、このような天国、神の国が人生の終着点として、また世界の歴史の最後に、約束され、保証されていることを感謝したい。
- しかし、今はまだ、サタンがこの世の王として支配と権力を振るっている。
- エペソ2章2節「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者(神様による制限の中でであるが)として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」。
- このように、この世は、今尚、サタンの支配下、サタンの支配する国である。だから今も尚、個人にも、社会にも、世界にも、矛盾と醜い破壊的な戦いと争いがある。
- それゆえ、私たちは、今、一日も早く、このサタンの時代が終わり、上述した「神の国」が完成し、実現することを願い、「御国が来ますように」と祈るのである。
- 第二 ペテロ3章9-13節を読みたい。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほどきよい生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」。
- この聖言の要点は:▶神の国の到来は神様も待っておられること。しかし、そのためには▶一人でも多くの人の救いと、▶自らのきよい、敬虔な生き方を追い求める必要があること。
- 「御国が来ますように」と言う祈りは、正にこのような意味での「神の国」の到来を待ち望む祈りである。
- それでは、もう一つの「神の国」、即ち、見えない「神の国」の実現について考えたい。
- イエス様は、この見えない「神の国」について次のように言われた。
- マルコ1章15節で、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
- ルカ17章20-21節で「さて、神の国はいつくるのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と。
- ここで言われている「神の国」は、明らかに、第一義的には見えない神の国である。
- 即ち、それは、神様が王となって支配する個人の心の中、また、コミュニティーの交わりの中に存在する「神の国」である。 それらは、目では「見えない」神の国である。
- これこそが、イエス様を、個人的に救い主と信じ受け入れ、クリスチャンになった時に、私たちの心の中に起こることである。
- 心の中に、この見えない「神の国」が与えられた人の特色は、義と平和と聖霊の喜びである。だからパウロは言う。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14章17節)
- それは、イエス様の十字架によって罪赦され、神の前に義とされた者だけが持つ、何があっても失われることのない平和と平安であり、また、逆に、何が無くても、いつも心の中に泉のように湧き上がる喜びの人生である。
- ルカ17章20-21節では、「神の国があなたがたの中に(英訳among you)」とあるように、この「神の国」は、個人だけでなく教会と言うコミュニティーの中に生まれる神の国のことでもあると言う。
- 「教会」は、完成された「天国」ではない。しかし、そこには、その「始まり」と「片鱗」「Fortaste(前味わい)」がある。
- 言い換えるなら、それは、成長途上、建築工事中の「不完全」な神の国、天国である。
- しかし、それは、不完全ながらも、確実に、イエス様を中心とした、愛し合う弟子たちの集まり、群れ、愛の共同体である。「神の国」は、そこに始まっているのである。
- 教会は、決して同じ趣味を持つ人々の「同好会」でも、「仲良しグループ」でもない。メンバーの共通点は、たった一つ、イエス様を救い主と信じていることだけである。
- だから、性格も、趣味も、タイプも、何もかもが違うかもしれない。そんな私たちが、「一つ」になろうとするなら、愛が必要である。それはどこから? キリストから‼
- それ故、もし、それが実現するなら、人々は、そこにキリストを見、愛の国としての神の国、天国を見るのである。
- イエス様は言われる。「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ13章35節)と。
- イエス様は、この見えない「神の国」について次のように言われた。
- 1.第一は、「見える」神の国である:いわゆる「死んでから行く所」としての「天国」である。
結 論
- 御国が来ますように!と言う祈りは、このような意味で、「神の国」が至る所で、人々の心の中に、コミュニティーの中に、世界に、到来するようにと言う祈りである。
- 最後に、もう一度、ご一緒に祈りたい。「願わくは、御国を来たらせたまえ!」と。
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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