教会の成長:命の誕生と出発
- ヘブル5章11節-6章2節 -

2017年2月05日 WIJC

聖書
ヘブル5章11節-6章2節

序  論

  • 私たちは、今年に入ってから、この日曜礼拝で「成長」と言うテーマで聖書からのメッセージを学んで来た。言うまでもなく、それは、基本的に「クリスチャン」としての「成長」についてであったが、
  • どちらかと言うと、それは、「個人」の成長と言うことにフォーカスして来たと言える。
  • 今日からは、数回にわたって、「教会」としての「成長」にフォーカスして学んでいきたい。
  • そのために最もふさわしい聖書の箇所は、実際に、教会が誕生し、成長して行った出来事を記している「使徒の働き」である。
  • イエス様は十字架と復活を通して私たちのための救いを完成された後、天に帰られた。その後、使徒たちと120名ほどの信徒たちは、エルサレムのある家に集まって真剣に祈っていた。
  • 祈りの目的は、「聖霊」の著しい働きを求め、一人一人が「聖霊」に満たされることであった。
  • そして、「ペンテコステ」と呼ばれるユダヤ教の祭りの日に、そのことは起こった。使徒たちも、弟子たちも、皆聖霊に満たされたのである(使徒2章4節)。
  • 多くの神学者、聖書学者が認めるように、聖書から明らかなことは、聖書の言う「教会」は、この日に誕生し、スタートしたのである。
  • 私も何回も申し上げてきたことであり、皆さんも様々なところで聞いて来られたことであると思うが、「教会」は建物でも、組織でも、プログラムでもない。「教会」は「人の集まり」である。
  • 日本語では「教会」を「教える会」と記すが、単にキリスト教のこと、聖書のことを教える場所ではない。原語のギリシャ語では「エクレシア」である。その意味は「召された者たちの集まり」である。
  • 即ち、教会は「神に召され、救われた者たちの集まり」であり、その意味で、教会は、「イエス様の救いを通して集められた神の家族」と言える。
  • 世の中には、色々な家族がある。大家族がり、小さい家族がある。大きな家に住んでいる家族もあり、小さな家に住んでいる家族もある。決まりや約束ごとがしっかりしている家族もあれば、そんなものが何もなく、自然体と言うか、極めて自由な家族もある。
  • 私の知っている家族で、当時小学生の低学年のお子様二人のいるご家族であった。そのお宅には、家族の決まりや、毎日の子どもたちを含めた家族の仕事(カーテンを開ける、ゴミをだす、食事のテーブルセットをする、等々)が書いてある表が貼ってあり、それらを実行したら印を付けて行くのであった。お母さんは元幼稚園の先生。しっかりとした方であった。気持ちが良いくらい統率の取れた素晴らしい家族だなと思ってみていた。でも、そんなお母さん、そんな家族ばかりではない。色々な家族があっていいのである。
  • 教会も同様である。色々な教会があって良いのである。
  • でもそれがどんな家族であれ、またどんな教会であれ、家族として、また教会としてなくてならないものがある。それは、家族としての本質、教会としての本質をしっかりと持つことである。
  • 教会の本質の第一番目は、神の家族の一員となることである。即ち、神の子として生まれること、霊的に誕生することである。
  • 今日は、「教会の成長」を学ぶ第一回目として、「神の子」として生まれること、「霊的誕生」のことについて学びたい。
  • テキストは先ほどお読みした使徒の働き2章37節~47節であるが、特に今日のメッセージのためには、41節までである。

本   論

  1. .成長は、誕生から始まる。即ち、誕生なくして、成長を語ることは意味がない。だから私たちは誕生日を毎年のように祝うのであり、産んでくれた母、また父親に感謝するのである。
    1. 肉体的誕生においても、まず生まれなければ、成長もないことは明らかである。
    2. クリスチャンも同じである。霊的誕生なくしてクリスチャンとしての成長もない、まずクリスチャンとして生まれることが必要である。
    3. 初代教会においてもそうであった。彼らも、成長にさきだって、まずは「誕生」という事実を経験した。
      1. それが記されているのが、使徒の働き2章37節~41節である。
      2. ここに記されていることは、単に、人々が、教会のメンバーになったことではない。
      3. ここに記されていることの意味は、彼らが、神の子として生まれ、神様の家族の一員となったことである。今日のメッセージは、そのことを説明し、学ぶことである。
  2. そもそも、「誕生」とは命を頂くことである。その意味で、クリスチャンになるとは、父なる神さまから、肉体の命とは別に、霊の命を頂いて、「霊的に誕生する」ことである。
    1. 使徒の働き2章37-41節で、彼らは、今の言葉で言うなら、確かにクリスチャンとなり、教会を形成するメンバーとなったのである。
    2. そして、そのことの意味は、彼らが、単に、キリスト教の教理に納得して、何らかの手続きや儀式を経て、教会の会員になったことを意味しない。
    3. それは、むしろ彼らが、神の子として生まれるという新しい霊的誕生の経験を意味していた。
    4. これがいわゆる英語で「ボーン・アゲイン」と呼ばれるものである。これから説明するが、これは元々聖書の表現であり、「もう一度生まれる」「新しく生まれる」と言う意味である。
  1. 最初は、テトス3章5節:
    • 「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による新生と更新との洗いをもって私たちを救って下さいました」
  2. 次は、第一ペテロ1章23節:
    • 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです」。
    • これら、「新生」「新しく生まれた」の表現が、どちらも、イエス様によって救われたこと、即ち、クリスチャンになったことを意味していることは明らかである。
  3. もう一つ、最後にご紹介したいのは、ヨハネ3章1-15節である。
    • そこには、イエス様とニコデモとの会話が記されているが、そこでイエス様が用いられた表現である。
  1. ここに登場するニコデモと言う人物について少し説明したい。
    1. ニコデモは、彼は、生まれたときから宗教の世界に生きて来た人物であり、
    2. また長い間、その世界のリーダー、教師、経験者としてキャリアを積み上げて来た人物であり、権威者でさえあった。
    3. しかし、なお、彼は、正直な気持ちとして、それら外面的な地位や立場とは裏腹に、心の中では、何かが足りない、「これが宗教のすべてか?!」と密かに悩んでいた。
    4. だからこそ、夜(ユダヤの文化的、社会的象徴表現として、「夜」は「密かな」行為を意味していた)、まだ名もない、つい最近現れたばかりの信仰宗教のリーダーに過ぎないイエス様に、社会的評判を危険にさらすことをも覚悟して会いに来たのである。
  2. そのようなニコデモに、イエス様は開口一番、唐突にこのように言われた:
    1. 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(3節)と。
    2. 確かに、後で分かることではあるが、これは、ニコデモの一番必要な答えであり、彼の悩みの解決のために的を射た言葉であった。
    3. しかし、ニコデモは、最初この言葉に戸惑い、困惑した。
    4. なぜなら、彼は、ユダヤ人の宗教家として「救いの道」について先入観を持っていた。
      1. 信仰の道をもっと勉強すること
      2. また、その中の道徳的な教えを実行し、守ること(善いわざを行うこと)
      3. 更に、その中の儀式的・宗教的義務を果たすこと
        と堅く信じて、忠実に実行して来たからである。
    5. ニコデモとしては、イエス様のお答えは:
      1. 「まだ、君は努力が足りないね。今までしてきたことをもっと努力、精進しなさい」
      2. 或いは、少なくとも、今までやって来たことの評価と共に、多少の修正するべき点の指摘やアドバイスだと期待していたであろう。
    6. しかし、イエス様のお答えは、彼の意表を突く、全く別のものであった。
      1. 今までして来たこと、その努力の延長ではなく、即ち、もっと儀式を守ったり、もっと道徳的な努力をして「善人」になることではなく、
      2. 「生まれ変わって、新しい人になる」ことだと言われたのである。
      3. それは、ニコデモには全く理解できない、受け入れられないことであった(4、9節)。
      4. そして、新生に対する、このニコデモの戸惑い、不理解(理解できないこと)、不信仰(受け入れられないこと)は、今も多くの人々の姿に見られる。
      5. なぜか? それは、「生まれる」と言うことが、英語のI was bornが文法的にも示すように、全く「受け身」で起こることで、自分がコントロールできないからである。
        • 人は、自分自身の行為でそれを獲得することが好きであり、安心を覚えるからである。
        • 自分の救いを全面的に人に頼ることは、罪のもつプライドがそれを許さないのである。
      6. しかし、それを本当にやった人は、自分の力で自分を救うことが、如何に難しいか、否それ以上に不可能であることを体験するのである。
      7. 逆に私たちの側からすると、救いが全面的に「受け身」と言うことは、全面的に神様によるものであると言うことで、救いが安定した浮き沈みのない完璧なものになる。
      8. 私の知っているあるクリスチャンの男の子が小さい頃の話。まだ沢山の人がタバコを吸っていた時代。クリスチャン=タバコを吸わない人と言う時代。同じ教会に来ていた友達に聞いた。「お前んちのお父ちゃん、未だタバコ吸ってんのか?」。友達は答えた。「うーん。時々吸ったり、吸わなかったり」と。すると、彼はその友達に言った。「それじゃ、お前んちの父ちゃん、天国行ったり、地獄行ったりだな」と。笑い話であるが、これは自分の行いに頼った信仰、救いと言うものが如何に不安定で当てにならないものであるかをよく表している。
      9. だから、私たちは、二度と自分の救いを疑うことをしてはならないし、その必要は全くないのである。
  1. 第一に、「聞く」ことである。
    1. 使徒2章37節。「人々はこれを聞いて・・・」
    2. ローマ人10章14節「聞いたことのない方をどうして信じることができるでしょう」、16節「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみ言葉によるのです」。
    3. 正にこの通りである。まず聞くことである。
      1. それは、「読む」ことも含んでいる。
      2. それは、具体的に言って、
        • 教会や集会に誘って、牧師のメッセージを聞いてもらう
        • 聖書のメッセージの録音を聞いてもらう(CD,インターネットなどを通して)
        • 聖書のメッセージの書いてある本やパンフレットを渡す、
        • 自分で、信仰の証しをする(自分の入信の体験談を話して聞いてもらう)
    4. それゆえ。まだ信仰をもって新しく生まれていない方には、もっと聞いて頂きたい。既に信仰をもって新たに生まれた人には、他の人にもっと福音を聞かせて欲しい。
  2. 第二が罪の自覚である。
    1. 使徒の働き2章37節。「人々は、・・・心を刺され・・・」
    2. ペテロのメッセージを聞いた人々の反応である。
    3. 「心を刺される」とは、自分たちのしたことに、申し訳なかった、何と悪いことをしてしまったのか、して来たのか、と言う悔恨の気持ちを持つことである。
    4. これは聖霊のお働きである。またみ言葉によるものである。即ち、ご聖霊が、聖書のみ言葉を通して、私たちの罪深さを自覚させてくださるのである。
  3. 第三が、救いを、謙遜にかつ積極的に求めることである。
    1. 2章37節:ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちは、どうしたら良いでしょうか」と言った。
    2. 彼らは、自ら積極的に救いを求め、しかも、「どうしたら良いか」と謙遜な質問をもって求めた。
    3. 聖書は明確に「求めなさい。そうすれば与えられます」と、積極的な求めを勧めている。
    4. また、同時に、救いを砕けたへりくだった心をもって求めることの大切さを奨めている。
      1. 詩篇51篇17節
      2. 自分で自分の救いの道を勝手に自分で決めて、それを神様に押し付けるような傲慢な心を神様は認めない。
      3. 聖書:「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵をお授けになる」(ヤコブ4章6節)
  4. 第四は、悔い改めである。
    1. 使徒2章38節:そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい」
    2. ギリシャ語原語では、「悔い改め」は「メタノイア」で、その意味は「方向変換」である。
    3. 即ち、それは、単なる後悔や、罪の告白・懺悔ではない。それは、「方向変換」と言う明確な意志行為であって、感情的悔恨やリップサービス的な口だけの行為ではない。
    4. 即ち、これまで神様に背き、神さまを無視して、神さまのみ言葉と無関係に生きて来た罪深さを一つ一つ認識、自覚し、これからは、そのような人生から離れて、神さまと共に生き、神さまのために生きると言う、方向変換を明確に神様の前に約束し、罪のお詫びと共にそれを実行することである。
    5. これなくして「信じます」と言う言葉は神様には届かない。だから、イエス様も言われた。「悔い改めて、福音を信じなさい」と。
  5. 第五は、イエス様を、その名「イエス」の通り、「救い主」として受け入れること、信じることである。
    1. 使徒2章38節:イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
    2. マルコによる福音書16章16節の「信じてバプテスマを受ける者は救われます」、
    3. また、ヨハネの福音書1章12節の「しかし、この方を受け入れた人々、即ち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」等々とのみ言葉と合わせて味わうとき、
    4. これらの聖書の御言葉は、イエス様を救い主として信じ受け入れるとき、救われる、神の子として誕生することを明言している。

結   論

  • 教会の成長は、その誕生から始まる。
  • しかし、それは、その教会を構成する一人一人のメンバーが、イエス様を救い主として信じ受け入れて、神の子として霊的に新しく誕生することから始まる。
  • 初代教会の誕生、スタートもそうであった。ペンテコステの日に聖霊を受けた使徒たちによって、福音が述べ伝えられた。それを聞いて、受け入れられた人は、イエス様の御名による救いを通して、神の子としての誕生を経験した。聖書は、そのような人々が、その日3000人いたと記している。
  • 一人一人がこのような救い、新たな霊的誕生を経験することこそが、教会の誕生の基礎である。これをスキップ、いい加減にして教会の成長はない。
  • たといホームランを打っても、たといセカンドベース、サードベース、更にはホームインをしても、もしファーストベースを踏んでいないなら、ホームインした瞬間にアウトと宣言され、すべてを失うのである。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。