ヘブル書に見るクリスチャンの成長
- ヘブル5章11節-6章2節 -
2017年1月29日 WIJC
聖書
ヘブル5章11節-6章2節
序 論
- 先週は教区長をお迎えしての特別メッセージを頂いたので、一回、シリーズを休んだが、当教会の日曜礼拝では、今年に入って今日を含めて4回に亘って「成長」についてのメッセージを学んで来た。
- この4回のメッセージを通して、一番期待することは、皆様が、少なくとも、クリスチャンとして「成長」の大切さを自覚し、成長したいと言う願望が与えられることである。
- どうでしょうか? 皆様はそうなられつつあるでしょうか?!
- 皆様にとって、この「成長する」と言うメッセージが、単なる牧師の「たわごと」や「希望」として終わって欲しくないのである。
- 私たち牧師がしていることは、神さまからのメッセージを伝えることである。即ち、それを言っているのは、神さまだと言う事実を忘れて頂きたくないのである。
- 皆様がメッセンジャーを批判することはあることは已むを得ないかもしれない。お互いに人間だから。
- しかし、もし、それで終わってしまうなら、皆様は、毎週、この場所に、牧師の「講演」や「講義」を聞きに来てることになってしまうのである。
- それは、礼拝のメッセージではない。礼拝とは、どこまでも神の声を聞くところである。
- それゆえ、メッセンジャーを通してメッセージを聞いたら、メッセンジャーを批判する前に、或いはそれ以上に、そのソースである「聖書」を調べ、そのメッセージの確かさを確認することである。
- そして、それができたら、後は、それに信頼し、実行するだけである。
- ある意味で、私たち牧師は郵便屋である。大事なのは、彼が持ってくる手紙の内容であり、それを書き送った人であって、その郵便屋が背が高いとか、顔つきが丸いとか、物腰が柔らかいとかではない。
- 初代教会の時代、ベレヤの人々が、正にそれをしたことが使徒の働き17章11節に記されている。「・・・・」。
- さて、その意味で、今日は、まず、第一に、「成長する」ということが、神さまからのメッセージ、神さまの願い、命令、お言葉であることを短く確認したい。
- そして、その後で、先ほどお読みした、ヘブル人への手紙から成長について神様からの更なるメッセージを頂きたい。
本 論
Ⅰ.私たちが、「成長する」ことは、神さまの願いであり、神さまの命令である。
- 成長は、聖書の直接的命令である。
- 今日の聖書箇所、ヘブル6章2節:「初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか」 これは、正に、成長を促し、奨励する言葉である。
- ペテロの第二の手紙3章18節ではもっと直接的にこう言っている。「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」
- ヨシュア記13章1節(主はヨシュアに仰せられた)「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地が沢山残っている」。
- これは、今のパレスチナ地方に当たる約束の地を、ある程度まで手に入れ、適当なところで、「これでもう良いか」と腰を下ろしてしまおうとしていたヨシュアに神様が言われた言葉である。
- 「ヨシュア、あなたに獲得して欲しい約束の地は、もっともっとあるんだよ。そんなところで勝手に満足しないで、前進しなさい」と励ましておられるのである。
- これは正に霊的な生活に当てはめるなら、主からの成長への挑戦であり、励ましである。
- 成長は、聖書が、当然のこととして、期待していることである。
- マタイ13章31-32節「天の御国はからし種のようなものです。・・・どんな種よりも小さいのですが、生長すると、・・・」。からし種のからし種としての素晴らしさは、種のままでは発揮できない。それは生長してこそ、それが現れるのである。成長は必須である。
- マルコ4章8節「別の種が良い地に落ちた。すると芽生え、育って、実を結び・・・」。これもまた、種として蒔かれた信仰が、育って、成長して実を結んでいく姿が期待されている。
- 成長こそが、聖書が人間として、クリスチャンとして生きる私たちに一番期待し、関心を持っている事である。
- だから、聖書は、人間としてのイエス様の30年間の生涯を、ルカによる福音書2章52節の「成長」されたと言う一言の事実の中にすべてまとめたのである。
- また、旧約聖書の偉大な預言者サムエルに関しても、聖書はその幼少期を記すわずか3章の中で、3回にもわたって、彼が「成長した」と繰り返し強調している。
- そして、新約聖書のパウロについても、彼が霊的、信仰的に、決して現状に満足せず、入信後30年経ち、60才にもなろうとするに至ってなお、「この一事を努める」と言って、夢中で信仰の完成を目指して、成長を追求している姿をピリピ3章12-14節に見る。
- 私たちは、イエス様の十字架と復活によって罪赦され、神の子どもとされた。誰もが知っているように、これは、クリスチャン生涯の基礎、入り口であって目的ではない。
- それでは、私たちのクリスチャンとしての目的は何か? それは、神の子として、キリストを知り、キリストに似る者となることである。そして、それには、決して完全、完成はない。
- 完全を目指して、永遠に「成長」し続けることである。毎日が成長なのである。
- 長い、目立たない、地道な、ついつい良い加減にしてしまうようなことの繰り返しである。
- でもその中で、やり続けなければならない成長の原則がある。それをするかしないかで、その成長はほとんど見られないレベルから、著しいレベルまで雲泥の差の結果を産みだす。
- 第一ポイントを締めくくるに当たり、もう一度、完全を目指して成長していかれたイエス様の御姿に目を留めたい。今日の聖書箇所の少し前のヘブル書5章の7-9節をみたい。
- イエス様も自然に成長したのではない。イエス様は御子だから成長されたのではない。
- イエス様も、私たちと同じように、Growing Painを経験された。
- イエス様の場合にも、成長の原則と条件があった。イエス様も、それらを果たして成長されたのである。
- イエス様も、必死に祈り、涙を流し、苦闘された。そして、それらの苦しみ中で、神と人とに対する「従順」や「敬虔」を学びながら成長して行かれたのである。
- そして、そのことを通して、私たちの歩むべき道の模範・モデルを残されたと聖書は記す。
- 後にも学ぶことであるが、この点が、私たちが成長しない理由である。クリスチャンたちが、余りにもONE_SIDEDなのである。クリスチャン生涯には2面あるのである。
- イエス様が一方的にしてくださったことを、恵みとしてそのままただ無条件で頂くこと
- イエス様を、模範として、その足跡に従がうこと。第一ペテロ2章21節参照
- 私たちは、この両方なくして成長もないし、クリスチャン生涯の意味も醍醐味も十分に体験できない。
Ⅱ.さて、それでは、残りのとき、ヘブル5章11節~6章2節から、「成長」についてのメッセージを考えたい。
- まず序論的に:
- ヘブル書の作者は、ここでまず一般的に、クリスチャンたちが、霊的に鈍くなっていること、それゆえにイエス様のことを語っても中々十分に理解されない現状に触れる。
- そして、それがクリスチャンたちが「成長」しない基本的原因であると指摘する。成長は、霊的な低調な状況では起こらない。逆に、成長が見られないのは霊的に低調だからである。
- そして、著者は:
- 成長しないクリスチャンを●「幼子」と呼び、成長しているクリスチャンを●「大人」と呼んで分けた。
- また、その内容的な区別を、●「乳」ばかりを飲むクリスチャンと、●「堅い食物」を食べられるクリスチャンとしている。
- これらの鍵となる言葉を味わいつつこの箇所に込められた神様からのメッセージを学びたい。
- 最初に心を留めたいのは、「幼子」のクリスチャン、「大人」のクリスチャンと言う言い方である。
- 明確なことは、ここで、聖書は、「幼子」のクリスチャンについては、いつまでも「幼子」であってはならないと言うネガティブなトーンである。
- 即ち、「幼子であってはならない」と言うネガティブ、否定的な言い方である。
- ここで、「幼子のようであれ」という聖書のもう一つの言い方と混同、また混乱して、好き勝手な解釈をしないように注意する必要がある。
- 大切なことは、聖書には、幼子について積極的・消極(否定)的、二つの用法があることを認識することである。
- 「幼子」の積極的用法:「幼子のようになりなさい」
- マタイ18章1-3節:子供たちこそ天国で一番偉い存在、子どものようにならなければ天国に入れない。だから、「私たちも、幼子のようになりなさい」である。
- 詩篇8篇2節:あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられました。幼子の口から出る賛美こそが、悪魔の牙城をさえ揺るがす霊的力である。だから、私たちも幼子のように賛美しなさい。である。
- 第一ペテロ2章2節:生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみ言葉の乳を慕い求めなさい。それによって、成長し、救いを得るためです。
- これらは、私たちが、幼子の心を持つことへの奨めである:その意味は・・・
- そのままの自分、飾らない自分を神と人の前にさらけだせる謙遜さ、
- 人の、また神の言葉を、そのまま受け入れ、信じる素直な心を表し、更には、
- 乳飲み子が乳を激しく求める姿にも似た神様のみ言葉への切望を表現している。
- 私たちは、このような幼子の心を永遠に持つべきである。
- 次に、「幼子」の否定的用法:「(いつまでも)幼子のようであってはならない」(Grow up!である)について考えたい。
- 第一コリント3章 1-4節:ここでの霊的な「幼子」は、
- パウロに「肉に属する人」と呼ばれ
- 妬みや争いの心を持ち
- 神様に付くより、人に付き、パウロのファンになったり、アポロのファンになったり、ペテロのファンになったりと、教会の中に「分派」「分裂」を作る人々である。
- このような意味での、幼子の心からは、成長して一日も早く卒業しなければならない。
- 第一コリント13章11節:ここに書かれている「子ども」も、
- いつまでも、そのまま子供でいるようにと言う意味で使われていない。
- むしろ、ここでは、子どものときは、子供っぽく考えて、それで良かったが、大人になったら、もっと大人らしい考え方をするべきだと言っているのである。
- この13章はご存知のように「愛の章」である。即ち、ここに描かれているような愛に生きるとき、私たちは、子どものクリスチャンから脱却して、大人のクリスチャンへと成長できるのである。
- 第一コリント14章20節:物の考え方においては、いつまでも子どもであってはならない。こどもは自分のことばかり、自分中心にしかものを考えられない。大人になって、もっと客観的に、広くものを考えられるように成長しなさいとパウロは薦める。
- 成長のために必要なことは、この後半の、ネガティブな意味での幼子の姿からの成長、脱却である。
- 簡単に言うなら、幼子のように素直であることは大切である。でも、子供っぽさは捨てなさい、英語で言うなら、Be like a child, but don’t be childishである。
- 第一コリント3章 1-4節:ここでの霊的な「幼子」は、
- 明確なことは、ここで、聖書は、「幼子」のクリスチャンについては、いつまでも「幼子」であってはならないと言うネガティブなトーンである。
- 最後に、成長しないクリスチャンと成長するクリスチャンの内容的違いを表す二つの言葉について考えたい。
- それは『乳ばかり飲む』クリスチャンと、『堅い食物をも食べられる』クリスチャンである。
- 「乳ばかり飲むクリスチャン」「乳しか飲めないクリスチャン」とはどんなクリスチャンのことか?
- 5章12節、6章1-2節に記されている。
- そこに書かれていることによるなら、信仰に於ける「乳」とは、信仰の初歩、入信前後にならったこと、実行したことである。
- それらは、具体的には、
- 私たちの人生には死後の裁きがあるが、私たちは信仰によって罪が赦され、救われ、死者の復活に与ることができると言う福音の教えである。
- また、その信仰の証しのために洗礼式の教えがある。更には、その教えを保持・堅持するために按手して祈る様々な式の教えもあった。
- それらはみな、「罪人が神の子とされる」と言う信仰の入り口の教えであった。受け身の信仰、受け身の祝福の教えであった。
- さながら、赤ん坊が、母の胸から、哺乳瓶から、母親が口まで持って来てくれるスプーンから、食べ物をもらうようにして、養われ、生きているクリスチャンの姿である。
- 彼らは、確かに、そのような教えをかみしめながら生きている。
- 感謝もしている。それで満足し、嬉々として喜び、安心して生きている。
- そして、それ以上でも、それ以下でもないことに満足している。
- 即ち、信仰の赤ん坊であること、幼子であることに満足しているのである。
- 成長しなければならないとは、特に思っていない。
- 聖書は、それではいけない。子供から卒業し、霊的な意味で、「堅い食物」をも食べられるクリスチャンに成長しなければならないと言う。
- それでは、「堅い食物を食べられるクリスチャン」とはどんなクリスチャンか?
- 5章14節「堅い食物は大人のものであって、経験によって良いものと悪いものとを見分ける感覚を訓練された人たちのものです」
- まず第一コリント3章1-4節から「堅い食物」について考えると・・・
- 神様に全面的に自分を捧げ、御霊に属する人、御霊に満たされた人でなければ食べられない、従がえない、信じきれない教え
- 妬みや争いを捨てきれないで、それらを心に人生に温存している人には、信じることも、従がうこともできない教え
- 神より人に付くことを選び、神さまが嫌う分裂、分派を産みだす心を持っている人には、信じることも、従がうこともできない教え
- このヘブル5章14節では、「堅い食物とは大人の物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」と言う。即ち、堅い食物とは
- 単に、信仰の入り口の教え、受け身の祝福、もらう祝福を超えて、
- 日常生活、人生の実際的で複雑な問題、利害が現実に関わる問題の中で、更には、
- 神の実在や、福音に関わる、教義的な信仰を超えて、実生活の中での現実に関わる信仰と献身が求められる教えのことだと言える。
- これらの「堅い食物」を神への信仰と服従をもって受け入れられる人が大人のクリスチャンである。
- 一方、成長していない子供のクリスチャンは、
- これらは、とても耐えられない、そこまでして信仰を貫きたいとは思わない。
- 私は、赤ん坊、幼子のクリスチャンで十分である。私は、忙しいし、信仰も弱いし、神さまも優しいから無理しようとも思わない。神さまに何かをして頂くだけで十分である。何も無理して成長したり、大人になる必要もないと、心のどこかで決めてしまっている。
- これは、成長すること、大人になることへの拒絶である。それは、私たちの信仰の成長を願い、期待しておられる神様への反逆、親不孝以外の何ものでもない。
結 論
- ピーターパン・シンドロームと言うのがある。「大人になりたくない」「こどものままが良い」、楽で、安全で、無難で良いと言って、成長を拒む心理状態である。
- 多くのクリスチャンにもこれがある。今こそそれを悔い改めて、成長へと踏み出そうではないか?!
投稿者プロフィール

- 元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。
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