クリスマスの贈り物
- マタイの福音書2章1-12節 -

2022年12月11日 佐野レインボーチャペル

聖書
マタイの福音書2章1-12節

序  論

  • 今日の日曜日はキリスト教の暦では第3アドベント・サンデーである。日本語では「待降節」と呼ばれるが、アドベントはイエス様のご降誕を祝う霊的な準備のためのクリスマス前4回の日曜日のことである。
  • その間、教会では、アドベント・キャンドルと呼ばれる4本のロウソクに一本づつ灯がともされる。その一本一本に象徴的意味が込められている。それらは、イエス様によって与えられる「希望・平和・喜び・愛」の四つである。
  • ところで、クリスマスと言うとどんなイメージが浮かぶか? クリスマス・ツリー、カラフルなイルミネーション、クリスマス・ケーキ、KFC、サンタクロース、クリスマス・プレゼントなどが挙がるだろう。
  • しかし、子どもたちにとっては、クリスマスと言えば、やっぱり、サンタクロース、クリスマス・プレゼントだろう。
  • 米国の習慣では、24日イブの夜、イブ・サービスとして、教会で短い集会があり、その後、友人や家族で簡単な交わりを持ちますが、子どもたちにとってクリスマスの最大のハイライトは、25日クリスマス当日の朝である。我が家もそうだったが、子どもたちが寝間着のまま起きてきて、家族全員ツリーの前に集まり、ツリーの根元においてあったプレゼントを一つづつ開いて行き、皆で大喜びして、最後に感謝の祈りを捧げて、その日は一日、そのプレゼントを楽しむ。と言う具合である。
  • 今更言うまでもないが、最近のクリスマスは、余りに、商業化し過ぎてしまっている。米国では平均一家族700-800ドルをプレゼント代に使うそうである。
  • そもそも、クリスマスにプレゼントをするという習慣はどこから来たのか? 由来は何か? 多くの学者たちの研究・理解をまとめるなら、次の二つを挙げることができる。
    1. 一つは、イエス様お誕生そのものが、神様から私たちに対する愛の贈り物であったことに由来。
      • 子どものクリスマス・ソングにも「クリスマス、神様の愛の贈り物・・・」とあるように。
      • 御言も言う:「神はその独り子をお与えになったほどに」ヨハネ3章16節)
    2. もう一つは、マタイ2章1-12節に記されている「博士たち」が、誕生されたイエス様にお祝いとして高価な三つの贈りものをしたことに由来すると言われる。
  • 今日は、そのことからこの博士たちの贈り物とその姿勢から、クリスマスのメッセージを頂きたい。

本  論

  1. 異様な点を挙げると
    1. 「東方」とは、当時のペルシャ地方、今のイラン。ユダヤの国は、敵国ともえるし、少なくとも、友好国とは言えない国。
    2. そんな国から、ユダヤの国の王家に世継ぎが生まれたからと言って、しかも、王室同士の正式・非公式の招待状の交換もなしに、わざわざ、広大な砂漠を挟む遠路、命の危険を冒し、莫大な費用を掛けて、祝賀の意味での訪問をするだろうか?
    3. 更に、不思議なことは、彼らが、当然、王家のある首都エルサレムは、次の王の誕生のお祝いムードで一杯と思ったのに、静まり返っていた。そして、最終的に導かれた所は、エルサレムではなく、ベツレヘム、しかも、普通の家。お城でも、豪邸でもなかった。
    4. 極めつけは、その幼子の両親であった。見るからに、王家とは、力と権威とは、全く関係のなさそうな貧しい、無学な、田舎者夫婦であった。
    5. にもかかわらず、なかった彼らの素振りには、微塵も、「当てが外れた」「こんなはずじゃなかった」と言う驚きや失望が感じられなかったばかりか、
    6. 持って来た効果な贈り物を、そのまま、少しの保留もなしに、礼拝(プロスキュネオウ:降伏、権威譲渡)をもって、イエス様に捧げたことである。
    7. もう一つ言うなら、彼らが、もし、個人のレベルでこの訪問を敢行したとするなら、自国の王への裏切りでもあるが、最後には当然のことのように、元の国へ戻ったこと。
  2. これらから言えることは何か?
    1. 第一に、彼らの訪問が、尋常の隣国・友好国の世継ぎに対する表敬訪問、祝意訪問ではなかった。
    2. 第二に、それゆえ、これらの高価な贈り物には、生まれて来られたイエス様についての特異な意味が込められていた。
  1. まず「黄金」は、イエス様が永遠絶対不滅の「王」であることを象徴していた。
    1. 1黄金は、世界中、どの時代でもその絢爛豪華さのゆえに、王の持つ、栄光と輝きを象徴していた。イエス様の勝利の王としての御顔の輝きこそが、苦難の真っただ中で、私たちに力と勇気を与えるのである。「9 門よ おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。10 その栄光の王とはだれか。万軍の主 これそ、栄光の王」(詩篇24)。これこそご降誕なさったイエス様のお姿である
    2. 黄金のもう一つの素晴らしさは、その価値の不変性(mmutability)にある。すべての物・者の価値は変わる。しかし、「イエス・キリストは、昨日も、今日も、永遠に変わることはありません」(ヘブル13:8)。これほど頼れるお方はいない。
  2. 「乳香」は、イエス様が、永遠に変わらない大祭司であることを象徴していた。
    1. 乳香は、祭司によって捧げられ、神の前に立ち上り、神と人とを結びつける薫香である。
    2. 聖書は、ヘブル書4章でこのように言います。「14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
    3. 私たちは弱い。弱さが一杯である。しかし、永遠の大祭司イエス様は、そんな私たちの弱さを理解し、分かってくださり、同情をもって寄り添い、いつも味方になって祈ってくださるのである。
  3. 「没薬」は、私たちのために十字架で死なれるイエス様を象徴していた。
    1. 没薬は、死体を人工的にミイラ化するために用いる高価な薬品であった。
    2. 即ち、没薬は、死の象徴であり、特に、目の前にいる誕生したばかりの赤子イエス様の十字架の死の象徴であった。
    3. すべての人は、生きるために生まれて来る。しかし、イエス様は、世界で、歴史でただ一人死ぬために生まれて来られたのである。誰でもいつか必ず死ぬと言うのとは大違いである。
    4. 「 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)
    5. このことを歌ったクリスマス・ソング:We were the reason that He gave His Life; we were the reason that He suffered and died.
    6. 没薬の象徴するイエス様の死が、私たちに命を与え、救うのである。
    7. 没薬は、勿論、これら三つの贈り物の象徴的意味について、博士たち自身が、この時点でどのくらい理解していたかは知る由もない。しかし、彼らが、没薬の意味を筆頭に、薄々、その苦難の道を想定し始めていたであろう。
  1. 第一に、彼らの贈り物は、彼らの信仰に支えられていた。
    1. 次回この点については、もう少し詳しく触れるが、博士たちは、聖書を知らないペルシャ人であったが、恐らく、かつて捕囚の身でペルシャの地に長く留まっていたユダヤ人コミュニティから、民数記24:17などの世界の救い主の出現の預言を聞いていたと思われる。即ち「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」
    2. しかし、彼らの持っていた手掛かりは、ほぼそれだけであった。ほかの人々も同じように見たであろう東方の地に現れた星と聖書の預言だけで、生まれて来る子が、世界の人々の王、大祭司、救い主の誕生を信じたのである。
    3. 更には、彼らがやっとのことで、ベツレヘムで目の前にしたのは、いかにも貧しくみすぼらしい両親に抱かれた赤ん坊であったが、それでも、その赤ん坊がやがて彼らの王となり、救い主となり、大祭司となることを信じる信仰に変わりはなかった。
  2. 第二に、彼らの贈り物は、彼らの神への感謝から出たものであった。
    1. 彼らは、誕生されたお方が、地上的な王ではなく、むしろ、そのような王たちを超えた神的存在であることを知っていた。
    2. 即ち、このお方が、神の子であると信じていた。正に彼らは、「・・・・」ヨハネ3:16に表されている神の愛を知って感謝を表そうとしたのである。
    3. 私たちも、クリスマスに現わされた神の愛に感謝を表したい。
  3. 第三に、彼らの贈り物は、彼らの神への愛の発露であった。
    1. 彼らは、御子を与えるほどに自分たちを愛してくださったお方への応答としての愛の徴として、これらの贈り物をイエス様に贈ったのである。
    2. だから、それらはみな高価なものであった。その払われた代価が彼らの愛を表していた。
    3. 安いとか、高価とかは、絶対的な価値を言っているのではない。ある大金持ちにとって、何百万、何千万も、はした金である。
    4. 高価とは、それがその人にとって、Sacrificial、犠牲的なものであるかで決まる。そして、その極致は、私たち自身である。
    5. ローマ12章1節「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
  4. 最後に、彼らから学ぶことは、御子に対する変わらない心の態度である。
    1. 彼らは、確かに、神様を信じた、神様に感謝した、神様を犠牲を払って愛した。
    2. しかし、ここで大切なことは、彼らは、その心と信仰的態度・姿勢を、いかなる状況の中でも、変えなかったことである。
    3. 彼らを取り囲む状況、目の前の現実は、彼らの初めの予想から何回も変わった。
    4. 詳しいことも知らないまま、星の出現の意味を純粋に信じて東方の国を出発した。
    5. 世界の王としてユダヤに生まれるお方は、首都エルサレムの宮殿で生まれたに違いないと信じてエルサレムを訪ねた。しかし、そこにはいなかった。全くの予想外であった。
    6. しかし、彼らは信じ続けた。そして、そこで新たに世界の王となるその子はベツレヘムと言う小さな町にいると言われた。彼らはそれをも信じて更に旅を続けてそこに出向いた。
    7. 彼らが、ベツレヘムのある小さな一軒家に星によって導かれたとき、彼らがそこで見たこと即ち、その家も、その赤ん坊も、その両親も、人間的には、とてもその子がやがて世界の王、世界の救い主になるというような信仰を与えるものではなかった。
    8. しかし、目の前の状況がどんなに予想とは違い、変わっても、彼らの「世界の王・救い主」に対する信仰も、愛も、感謝も変わらなかった。
    9. そして、彼らは、その幼子の前にひれ伏し、礼拝し、その高価な贈り物を惜しげもなく、捧げたのである。これこそが、私たちが東方の博士たちから学ぶべき大切なことである。
    10. 私たちも、如何なる状況にあっても、変わらず、王なるイエス様の前に、捧げものを差し出し、ひれ伏すものでありたい。
  • 因みに、来る25日クリスマスの日には、今日の前半のメッセージを「世界が期待する王」と題してお話しする予定です。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。