ペンテコステと洗礼
- 使徒の働き2章 -

2022年6月12日 佐野レインボーチャペル

聖書
使徒の働き2章

序  論

  • 今日は、「洗礼式」が持たれる礼拝である。
  • 先週は「ペンテコステ」記念日であった。ペンテコステの日、約束のご聖霊が弟子たちにくだり、彼らがご聖霊に満たされ、力を受けた結果として最初に起こったことは、そこに集まっていた群衆の中から3000人にも及ぶ人々が「洗礼」を受けたことである。41節「・・・・」。
  • 今日は、この教会でも二人の方が、その洗礼を受ける。感謝である。
  • 「洗礼式」は、キリスト教への入信の証しであり、公的な信仰告白であり、クリスチャン生活の「出発式」である。それは、さながら、結婚生活における「結婚式」にも似ている。
  • 今日の礼拝では、その「洗礼式」を前に、
    • 洗礼を受ける方々には、その準備となるように
    • 既に受けている方々には、もう一度信仰生活の原点に立つために
    • 教会全体にとっては、使命の更新のときとなるように
      と願いつつ、「洗礼」に関する短いメッセージを取り次ぎたい。
  • テキストはペンテコステの日に、ペテロが語った説教と、その応答として3000人が洗礼を受けた、使徒2章の記事からである。中心テーマは、彼らはなぜ洗礼を受けたのかである。

本  論

  1. イエスとは誰か? 第一にイエスは私たちを救うために私たちと同じ人間となったお方である。
    1. 使徒2章22節を見たい。「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。」
    2. ペテロは、ここで、イエス様を「ナザレ人のイエス」と呼んでいる。
      1. 日本でもしばしばそうであったように、当時イスラエルでも、「普通の人」は、Last Nameをもっていなかった。IDのためには「何々村の誰」(葛生村の太郎)と呼んでいた。
      2. 即ちイエス様は「ナザレ村のイエス」と呼ばれる、即ち、苗字(みょうじLast Name)の無い、ごく普通の人であったことを意味する。
      3. しかも「ナザレ」と言う「ど田舎」貧乏村の貧しい大工の息子として生きたのである。
      4. 貴族でも、大祭司・祭司・律法学者等特権階級の家族でも、金持ちの家族でもなかった。
    3. 本当ならば、イエス様は、天下・宇宙の王たる神の子であったが、それとは似ても似つかない、あり得ないと言いたい生涯であった。彼は:
      1. ベツレヘムの汚い、薄暗い、馬小屋の中で、見守る人もほとんどいない、世界の片隅で寂しく、誕生した。これが、後にクリスマスと呼ばれるようになった日の真相である。
      2. 生後間もなく、夜逃げするように、両親と共に、母国を捨てて、幼少期をエジプトで逃亡者、日陰者の家族として過ごした。
      3. ナザレに戻ってからも、処女降誕を信じない村人たちに、マリヤが「不倫して生まれた子」として苛められたであろう。
      4. 長じて、救い主と立ち上がってからもイザヤ53章を始め沢山の所に記されているように、故郷でも、エルサレムでも、蔑まれ、罵られ、裏切られ、捨てられ、どのくらい傷つけられたか分からない生涯であった。
    4. このようにイエス様が「ナザレ人イエス」として、私たちと同じ人間であったからこそ、私たちの苦しみ、孤独、恐れ、弱さの何もかもを分かって、同情してくださるのである。
    5. ヘブル4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。」
  2. イエスとは誰か? 第二に、イエスは、私たちの罪からの救い主、キリストである。
    1. 使徒2章23-24節「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」 これが、イエス様の十字架と復活である。
    2. イエスは、確かに同じ人間として私たちに同情してくださる。しかし、ただの同情者ではない。私たちをその惨めな状態から、現実に救い出してくださるお方である。
    3. でも一言で「救う」と言っても、色々な救いがある。当然ながら、それは「金魚すくい」ではない。マタイ1章21節はこのように答える。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と。
    4. 即ち、イエスは「罪からの救い主」である。罪とは何か? 犯罪Crimeではない。それは、原語でハマルティア、的外れ、牧者から離れ、牧者なしで生きようとする「迷える羊」のように、神なしで生きようと、神から離反する生き方のことである。
    5. イエス様は、私たちのその罪の罰のすべてを、私たちを救うために、身代わりに背負って、あの十字架に掛かられたのである。
    6. イザヤ53章6節はこのように言う。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かっあてな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。
    7. イエス様は、その十字架による救いの完成の証印として、また生ける救い主として私たちと永遠に生きるべく、死後3日目に甦られたのである。

イエス様をこのようなお方と知ったことが、彼らが洗礼を受けた第一の理由であった。

  1. ペテロの説教を通して、神が遣わした救い主を無視し、逆らい、果ては十字架に付けて殺してしまったのが、実は、自分たちの罪と責任であることを知って、人々の応答は:
    1. 使徒2章37節 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。』」。
    2. 即ち、彼らの応答は:
      1. 第一に、彼らは「心を刺された」:自分が、神と人との前に犯して来た罪を自覚した。「刺された」と言う表現は、客観的認識を越えた、悲しみと痛みを伴う、いわゆる「悔恨の情」(「申し訳なかった」と言う気持ち)を含んでいた心情であったであろう。
      2. 第二に、「私たちはどうしたらよいでしょうか」:と言う言葉は、彼らが言い訳なしに、完全に降参して裁きを神の手に委ねている謙遜な心の状態を意味していた。
  2. そのような彼らの応答に対して、ペテロは、次の3つのことを勧めた:
    1. 即ち、「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」(使徒2章38節)。
    2. 第一は、これまでの罪の生活を「悔い改め」ることであった。
      1. それは、自分が、神の前に「罪人」であることを認め、告白することから始まり、
      2. 更に、「悔い改め」の原語「メタノイア(方向変換)」が意味するように、これまでの生き方を、自分中心から神中心へと、具体的に生き方の方向変換をすることである。
    3. 第二は、神様から「罪の赦し」を頂くことであった。
      1. 栄華を究めた名王ダビデの言葉である。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は」(詩篇32:1-2節)
      2. 「幸いなことよ」は、もっと正確には「何という幸せか‼」である。即ち「最高の幸せ」である。それをダビデは、自身の経験から「神様に罪赦された人」と言った。
      3. これこそが、救いの根本である。
    4. そして、ペテロが彼らに勧めた最後が、「バプテスマ」を受けることであった。
      1. 「バプテスマ」とは「浸す」と言う意味で、日本語で「洗礼」のことである。
      2. 「洗礼」とは、私たちが、イエス様を信じ、罪が赦され、神の子とされたことを、見える形で証しする神と人との前で行う礼典である。「洗礼が人を救うのでなく、信仰によって救われた人が、その証しとして洗礼を受けるのである」。
      3. 洗礼は、イエス様ご自身も「模範」として受けられ、また弟子たちにも、新しい入信者に授けるように命じられたものである。マタイ3章13-17節、28章19節

結  論

  • これが、2000年前の「ペンテコステ」の当日、3000人もの人々が、更には、今日二人の方が、ここ佐野レインボー・チャーチで、洗礼を受ける理由である。
  • 使徒2章41節は、キリスト教会の最初の洗礼のことをこのように告げる。
    「そこで彼のことばを受け入れた者はバプテスマを受けた。その日三千人ほどが弟子に加えられた」。
    • これが、キリスト「教会」の始まりである。
    • 即ち、クリスチャンとはイエス様の「弟子」であり、「教会」とはイエス様の「弟子の集まり」である。たとい信じたばかりでも、信徒でも、イエス様を信じる人は皆イエス様の弟子である。
  • 次の節、使徒2章42節は、初代の「教会」の活動をこのように記す。即ち、「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」と。
  • 整理すると、初代教会は、次の「4つの基本的活動」を実践していた:
    • 使徒たちの教えを堅く守り:聖書を読み、聞き、学び、実践する
    • 交わり:クリスチャンとしての交わり
    • パンを裂き:聖餐式の重視と実践
    • 祈り:個人、グループ、全体
  • この聖句を原語で読むと、彼らがこれらの4つのことを熱心に、継続的に実践していたことが分かる。
    • NIVなど、英訳は少し原語に近いが、They devoted themselves to the apostles’ teaching and to fellowship, to the breaking of bread and to prayer.
  • 私たち佐野レインボー・チャーチも、今日、洗礼を受ける方々と共に、熱心に、継続的にこれらのことを実践していくべく、励ましあいたい。

投稿者プロフィール

西郷純一牧師
西郷純一牧師
元ワシントン・インターナショナル日本語教会牧師。ジャパニーズ・クリスチャン・センター・オブ・ワシントン責任者。日本で聖宣神学院卒業後、日本宣教会・久我山宣教会副牧師、1980年ビリーグラハム東京大会事務局主事、1982年日本伝道会議事務局主事を経て渡米。アズベリー大学(聖書学専攻、同言語学副専攻)卒業後、アズベリー神学校牧会神学修士、プリンストン神学校旧約神学修士を取得、ドルー大学旧約学PhD課程コース・ワーク終了。米国で、プリンストン日本語教会、ニューヨーク日本語教会、および現教会を開設、現在に至る。